メディアとスポンサーとチョコレート。バレンタインについて、甘党の政治家が語ってみる。

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バレンタイン一色である。ほぼ国民的な行事となっているが、これは「人造文化」である。
市民権を得て行くにあたって、メディアとスポンサーが如何にブームを作っていったか、非常にわかりやすい好例でもある。

楽しんでいる方もいる、ゆえに批判したり水を指す意図はない。
一人の甘党として、むしろ甘党に所属する政治家として私自身も楽しんできた一人だ。

政治に興味をもつ方は、どのような流れでバレンタインがチョコレートの日になってきたのか。
この流れは是非、知っておいて頂きたい。

 

 

 

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商業と、「人造」文化
「人造」というか、スポンサーの働きかけなり、スポンサーの意向を受けたメディアの動きである。
物を売るためなら、なんでもあり!
と批判的に論じるのみではない。

これがビジネスであるし、これがマーケティングなのである。
ただし、購買力には限界があり、一強が生ずれば、他弱は衰退する。
例えば、行政主導の大きな祭りが産まれた影には、土着の伝統行事の衰退があるように。

全てを「否」とすることは、資本主義の否定でもある。
ゆえに、全否定はしない。
新自由主義に対しては批判的であるが、物を売るためのマーケティングが、文化のような形をとったことまで否定することは、私にはできない。
ただ、そこに影があることは主張したい。

その影とは、商業的理由により発生した「人造」文化の発する強い光により
何かが失われていく、ということだ。

クリスマスは天長節のブラックバス。
雛祭り・端午の節句は、バレンタインとホワイトデーに敗れた。
この例えの意味、比較した意味も伝わるのではないか。

 

 

 

堅苦しい、だろうか。
短めに、さらりと書いてみる。
日本古来の伝承、祭りがある。

例えば天長節。
外来のクリスマスと比較すれば、圧倒されている実態にあり、まるでブラックバスに駆逐されるかのようだ。
雛祭り・端午の節句は、バレンタインとホワイトデーにやられた。
勝負するものではないのだろうが、負けていると思う。

日の丸よりも、クリスマスツリーのほうが多いという現実。
ようこそ、謎の国へ。
保守として、忸怩たる思いでそれを見つめる。

この原因が何かを考えてみると、メディアとスポンサーという解を得た。
バレンタインは、そもそもチョコは関係ない日のようだが、「チョコを売りたい」スポンサーの意向に従い、そういうアプローチを擦りこんでいく。

当事者たち、参加者たちが「自らそうありたい」と願うようになり、それが自然である状態になるまで。

 

まとまっているサイトがあったため、引用する。

日本におけるバレンタインデーの歴史

1930年代 バレンタインデー誕生期
・1932年:モロゾフが日本でチョコレートを販売し始めました。
・1936年:モロゾフが日本で初めてバレンタインデーにチョコレートを贈ろう、という新聞広告を英字新聞「ザ・ジャパン・アドバタイザー」掲載しました。

1950年代 バレンタインデー初期
・1958年:メリーチョコレートが伊勢丹新宿本店でバレンタインセールをしました。ただ、3日間開催されセール中に売れたのは30円の板チョコ5枚と4円のカード5枚だけとのこと。

1960年代 バレンタインデー黎明期
・1960年:森永製菓が新聞広告によるバレンタイン企画を展開し、徐々にバレンタインデーの認知を広めていきます。
・1965年:伊勢丹がバレンタインフェアーを行いました。
・1968年:ソニープラザがバレンタインフェアーを行いました。

1970年代 バレンタインデー成熟期
・1977年:石村萬盛堂がバレンタインデーのお返しにマシュマロを贈ろという企画「マシュマロデー」を初めました。これがきっかけで、ホワイトデーが誕生します。(ここかぁーー)

1970年台は、女子中高生の間で好きな人にチョコレートをあげる、という文化が広まった時期です。

1980年代 バレンタインデー派生期
・1980年:明治製菓・不二家・篠崎製菓・宮川製菓・サクマ製菓・佐久間製菓・マルエ製菓・金太郎飴本店・カンロ・ホームラン製菓・みやこ飴本舗・二葉製菓・メリーチョコレートが加盟する全飴協・関東地区部会が、「ホワイトデー企画委員会」をたちあげて、「ホワイトデーキャンペーン(バレンタインデーのお返しにはマシュマロやキャンディー)」というものを提唱していきます。(ここもだぁーー)
・1984年:第5回ホワイトデーキャンペーンでは、お返し用のキャンディーが品不足になりました。ちなみに売上は55億円だったそうです。

このあたりから、「好きな人にチョコレートをあげる」から「感謝を伝えたい人にチョコレートをあげる」という義理チョコも生まれてきました。(ここでもかぁーー)

もう、お菓子メーカーやりたい放題です。

以下、略
バレンタインチョコ売上500億!でも経済効果はホワイトデーが上

 

 

 

陰謀論は排除して考察する。
確かに、天長節の衰退にはGHQの影があると思います。
また歌などを習っていないことには、日教組の影を指摘することは間違いではないと思います。

ただし、クリスマスがここまで流行した背景は、それだけでは説明がつきません。
ここは敢えて、GHQ・日教組は排除して考察させてください。
主たる要因とは思えないものに思考を囚われたままでは、本質的な部分を見落としてしまうからです。
日本古来の、本当に伝統に根差した日を復活させていくためには、現実を正しく認識する必要がある。

「クリスマス」という外来イベントがこれほどに流行している。
対して、保守のイベント(祝日や国旗掲揚)は廃れていく。

「この野郎!」と、悔しがるのは自由だが(私も悔しがっているうちの一人だが)クリスマスが市民権を得てきた過程を学ぶことで、私たち保守も学ぶことはできないだろうか。

 

本当の要因
それは新自由主義的な考え方や、利己的な思いの横行、と述べることができると思います。
具体的には、バレンタインがお菓子メーカーの仕掛けであったように、クリスマスも「実態とは異なる」流行となっている点を指摘したい。

 

 

 

置き換えて考える。
クリスマスを例えとして、置き換えて考えてみよう。
クリスマスで大騒ぎする日本人だが、これが逆であったらどうか。
異常性がよくわかると思う。

クリスチャンが天長節を祝った場合、キリスト教徒が、天長節を祝った場合、それは何か不思議な気がする。
悪いことではないしありがたい話なのだが、置き換えてみると大層ヘンテコなことになっている。

イメージして欲しい。
お洒落なニューヨーカーたちが、デパートで【奉祝】と書いた板を買い漁る。
CNNにて「とぅでぃ、TENCHOUSETU!!!OH!」とか言っている感じである。

白人カップルを想定してみよう。
恋人たちが、天長節デートを行い、ディナーの予約をする。
菊の花と菊花紋章を前に、「KI-MI-GA-YAHHHH!」とか歌って愛を語らうのだ。

海外のおまいらの場合、ネットユーザーたちの動向を考えてみる。
素晴らしいデザインスキルを無駄に投下し「天長節、中止のお知らせ」が毎年作成される。
そしてリア充、爆発しろ!と叫ぶのだ。

家族の場合を考えてみたい。
良い子にしてたら、陛下が玩具を持ってきてくれるのよ?と。
親が子供に諭すのである。
陛下に行ってもらうと、ちょっと構図が崩れるか。。。

じゃ、こうだ。
「いい子にしてたら、ヤタガラスが玩具を持ってきてくれるのよ。」

子供は不安そうな顔で言うのだ。
「ちゃんとヤタガラス、迷子にならずに来てくれるかなぁ」と。

もうちょっと年をとって生意気盛りになった頃。
「本当は八咫烏って、親が買ってきてるんだよ!」と叫ぶ、空気を読めない子が出てくるのだ。

そして
「いるもん!八咫烏はいるもん!」
「私、見たもん!ちゃんと足が三本あったもん!」
って泣き出す子が出てくるのだ。

不毛なる、八咫烏、実在論争を繰り返す子供を横目に。
オモチャメーカーは・・・。
「ここで一年の売上を絶対に立てるのだ!!」
「我が社の荒廃、この一戦にあり!!!」である。

スポンサーについているアニメにおいては、
ここぞとばかりに新キャラ、新メカが登場。
工場も生産拡大で、掻き入れ時である。
経済波及効果もバカにならない。

九州ウォーカー(本州の方はわかるのかな)などの場合。
いわゆる外戸本みたいな、地域版の雑誌である。
「天長節にお勧めの夜景デート特集」とか組むのである。

デパートでは、
「今年の天長節は、肉じゃがでお祝い!」
「日本本国、直輸入!高野豆腐!」とかポップが躍る。

コンビニでバイトしている人なんかは
「あー、今年の天長節、ケーキのノルマがきっついわー」とか言ってるのである。

疲れたサラリーマンたちは
「あぁ、今年の天長節も仕事だったな」とか、
駅のホームで舞う雪を見て「ホワイト天長節か」などと、しみじみとつぶやくのだ。
そしてそれが、なんとも言えぬ風情をもって、しみじみと疲れた大人の共感を呼ぶ。

これが外国人が、天長節を(日本のクリスマスと同様の)祝った場合のイメージ図である。
クリスマスを祝う日本人を、(敬虔なるクリスチャンをはじめ)海外はこのように見ているのではないだろうか。

 

 

 

保守の考えるべきこと
別にスポンサーを潤わせる必要はないが、強い光に敗れて行く現状を憂うだけでは頼りない。
私は、天長節の記憶が、ほとんどない。
だから、どう祝っていいか、感じていいかわからない。

20年後、30年後、雛祭り・端午の節句を知らぬ子供も出てくるのだろう。
それを知る「私たち」しか、伝えることはできぬし、感じることはできぬし、守ることはできない。

憂うだけでは、これからの日本人に笑われる。
憂うだけでは、頼りない。
いまを生きる日本人しか、できにこともあるはずだ。

なぜ、保守の伝統行事が廃れていくのか。
はっきり言う、楽しくないからだ。
「人造」文化は、メディアの大きなクローズアップもある、ドラマで素敵なエピソードにされている場合もある。
そうやって浸透していく。

だが、結果として「楽しそう」なのだ。
やりたいと思ってしまうのだ、参加者は。

一旦、「スポンサーの意向」や「保守側の意向」は捨てて頂きたい。
参加する者は、どちらが楽しいか。
必要性からのみ催事を論じることは難しく、
そこに楽しい記憶とエピソードがあって初めて、祭りとして成立する。
あの日の縁日がそうであったように。

私は理系で、ややドライすぎる考え方をする。
ただし、縁日の屋台で食べた、白くて甘いものは、
砂糖を熱して液化させたのち、回転運動をもって遠心力により射出され、
細い糸状になった糖分を、割り箸等の棒状のもので巻き取ったものではない。
それぐらいはわかる。
綿菓子は、綿菓子で、あの日、あの場所で食べたからおいしいのだ。
そこには思い出が、共に在るからだ。

バレンタインを楽しむ若者は、楽しげである。
そこには甘酸っぱい思い出もあったりするのだ。
これを単に批判することは容易だが、それだけでは頼りないと思う。

そこに記憶があり、エピソードがあり、人々の中に浸透していく。
もし、保守が復活を望む伝統行事が、あの光景であったならば、と。
怒号と政治主張の中、大量の日の丸がたなびく光景ではなく
人々の笑顔と共に、それがあったのならば、と。

バレンタインに思う。
私たちに足りぬものは何か。
笑顔と、エピソード、記憶である。

 

バレンタインが「チョコの日」として市民権を得て行くまで。
スポンサーの意図、メディアの動き、その流れを是非、知って頂きたい。
勉強になった!という方は、是非FBでのシェア、Twitterでの拡散をお願いします。

 

(下にスクロールして頂けますと、「追伸」として今回は短いオマケ記事がございます。)

 

 

 

 

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追伸)
ここからは完全にオマケです。
とは言え、私は甘いものが大好きです。
こればかりは、ちょっと否定しにくいし(バレンタインを)批判できないな、というのがスタンスです。

 

いつもは食べないような高級チョコと言いますか、そういうものを「自分で買う日」であります。
ちなみに「2月14日」ではありません。それが経済活動的にどうかという話はさておき、2月15日とか16日ですね。
半額になっとるわけです。

これをこう、じゃんじゃん買う日といいますか。
貯めたお小遣いを一気に投資してましたね。
いわゆる「良いチョコ」よりも、質より量と言いますか、数を買っていました。
少しでもでかいもの、重たいものを狙っていましたね。

さて明日は2月15日、明後日は16日です。
私のバレンタインは、いまから始まるな、と。
そのように思っております。お菓子メーカーにはお菓子メーカーの考えがあるのでしょうが、甘党には甘党なりの考えがあるのでございます。

 



 

コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)

  1. medakanoon より:

    メディアとスポンサーとチョコレート。バレンタインについて、甘党の政治家が語ってみる。 バレンタイン一色である。ほぼ国民的な行事となっているが、これは「人造文化」である。 市民権を得て行くにあたって、メデ

  2. 櫻盛居士 より:

    バレンタイン商戦の経緯ってよく考えて見れば、案外古臭いな・・・っと感じる次第です。
    既に同じ事を江戸時代には、様々な業種で行われておりました。
    身近な所で言えば『土用の丑の日』で、平賀源内の発案と言われてますね。
    チョコレートと鰻の意外な関係・・・っと申しましょうか、人間は時代を経ても変わらないものだなと感じます。

    クリスマスにせよバレンタインにせよ、創りだされたり外来であったりして、日本人的にはその重みを感じる事が無い為、自由度が高くアレンジも自在で崇高にも下品にも楽しめる行事なのでしょう。
    ぶっちゃけ、クリスマスったって日本人的には、そこに神さんの存在を感じないんですよね。
    ケーキと肉と玩具配送の優しいジジイ以外に、キリストを感じる人はそう多くは無いでしょう。
    気兼ねなく、本能の欲する楽しさを追求出来る訳です。

    それに対し日本古来から伝わる行事にはどうしても由緒が付き纏う訳で、それなりの重みを無意識に感じるせいか、楽しむ事へのリミッターがどこかで掛かるのかも知れませんね。
    不思議と恭しさを何処かで感じますし、それは肌で八百万神を日本人は感じ取ってしまうのからなのかも知れません。
    また、荒々しい祭りともなると、魂を揺さぶられたりするのも、日本古来の祭りならではではないでしょうか。

    そう言った意味では、日本古来の行事もチャンと伝えて行ければ、案外棲み分けが出来るかも知れません。

  3. 名ナシ より:

    追伸・・・夜中なのに大爆笑してしまいました。
    かく言う私も大の甘党なので冷蔵庫に明治の板チョコが常備されてます。
    それでも新製品を見つけて買ってくるので嫁に怒られてますけどね。

    ちょっと前ですが、職場に大卒実習(その彼は院卒)が来た時の事ですが、
    祝日の出勤日に「なんで旗日に出勤かねえ?」と言った時の院卒の言葉が
    「旗日って何ですか?」でした。
    これが天皇誕生日の事だったと思いますが、翌年の元旦から我が家は国旗を
    旗日には出すことに決めた出来事です。
    知らなければそのままになりますから家庭での文化教育は大切ですよ。

  4. 東京都55歳 より:

    色恋に関する需要を満たす。
    これが、キーでしょうか?

    クリスマス、バレンタイン。
    若い男女にとっては、
    とっても重要な日。

    大失敗した(と思われる)恵方巻には、
    その要素が無かったことが敗因でしょう。

    だとすると・・・

    竹島・尖閣・北方領土で、
    ウェディングプランでも企画すれば、
    盛り上がるのかも知れませんね。

    あるいは、上記の島を巡るような、
    日本一周クルーズとかも良いかな?
    ねるとんパーティー付きで。

  5. 人造建築 より:

    言いたいことはわかります。今は何でも商業戦略的になりつつあって面白くないことも多いです。

    一つ教えて下さい。人造じゃない文化を教えて下さい。

  6. 桜子 より:

    東京都55歳様
    >竹島・尖閣・北方領土で、ウェディングプランでも企画すれば、
    盛り上がるのかも知れませんね。
    あるいは、上記の島を巡るような、日本一周クルーズとかも良いかな?
    ねるとんパーティー付きで<

    何とグッドアイディアなんでしょう!
    どこぞの国は日本から乗っ取った竹島を軍事基地化、そしてクルージングという形で既成事実を作っています。
    また、北方領土に至ってはロシア住民が居留。
    長い年月それを許してしまったのが今の結果です。
    特亜三国の嘘と同じで、嘘を言い続ければそれが本当になってしまうのと同じです。

    竹島、北方に至ってはすでに占領されていますのでこの企画をやるとしても何だかの問題が出てくると思います、なにせ言っても解らない、聞いても解らない、見ても解らないお国ですから。
    悲しいかな今のところ、外交手段に委ねるしか仕方ないのかも知れませんね。
    もっと悲しいのが、その一番しっかりしなきゃいけない外務省があれでものね、、、。
    まあ、安倍政権になって少しは真ともになってはきていますが、、、。

    ならば日本国領土である尖閣を何としても私達は守らなければなりません。
    既成事実などという小癪な手段なんて取る必要もありません、自国の領土ですから。
    自国の領土に当たり前の事をして何か問題でも?ですよね。

    問題あるのは、何処もかしこも自国の領土、自国の領海などとふざけた事を言って近隣諸国に喧嘩吹っかけてる方に問題があるのでは?
    これ以上書くと血圧が上がるのでやめます。

    で、バレンタインの話しでしたよね。
    昨日はバレンタインと称し、巷では義理チョコ、本命チョコありで盛り上がったことでしょう。
    それはそれで否定はしません。
    が、私が2月14日と言うと思い出すのは、陸軍落下傘部隊がスマトラ島のパレンバンに初降下した日です。

    この何とも平和で、チョコレートで盛り上がっている今の日本、その日本を護ってくれた御先祖様がいたのだと、ほんの少しでもいい、若い方達が心馳せてくれたらな、、、とそのように思いました。

  7. ねじゃか より:

    本日テレ朝ワイドスクランブルでチョコの特集をしていました。
    一人はベルギーの有名職人の一つ750円のエクレア型チョコの話
    二人目は自分で世界中を回って良いカカオ豆を探して店を開いた
    日本人の話。彼は将来母島で育ったカカオ豆でチョコを作り、日本産
    を世界に売りたいと言っていました。
    三人目はなんと、明治製菓さん。カカオ豆が箱に描かれた一つ220円の
    商品の話。この豆はブラジルアマゾンを開拓した日系人によって
    作られているという事です。現地の人も、故郷で食べられていると思うと
    嬉しいと言っていました。安すぎでしょう?外来品に弱いですね。

    さて皆様
    「負ける勇気」という本が100万部売れている事をご存知でしたか。

    私はNHK100分で名著のアドラー心理学を見て初めて知りました。
    4回のうち2回放送済ですが面白いので良ければ水曜日夜10時Eテレを
    観て下さい。本の作者が解説しています。
    笑ってしまうのはNHKがフロイト、ユング、アドラーは世界3大心理学として
    有名だとナレーションしたのに、伊集院光が「すいません存じ上げませんで
    した」と言った事。当然です。今までNHKもメディアも教科書もフロイトしか
    扱ってきていません。過去に縛りつけるにはフロイトのトラウマ説が最適
    だからです。
    アドラーを扱うことは過去に縛られる事を自らやめ、この瞬間から自分を
    好きになって前向きに生きる人を増やす事です。反日メディアがそんな事
    するはずないのです。しかし、表紙にアドラー心理学と書いてない
    「負ける勇気」が大評判だからNHKもその波に乗っちゃったのかな。
    心理学と題に入っていたらこんなに売れたかな?題って大切ですね。

    見逃した方におさらい
    第1話 人生を変える逆転の発想
    アドラー曰く「人生は変えられる、人生はシンプルである、誰でも幸せに
    なれる」患者曰く「人生は複雑、変えられないから皆苦労している、誰もが
    幸せになれるなら宗教もいらないじゃない」
    NHKさん素晴らしい事を言ってくれましたね。みなさーん宗教はいらない
    そうですよ。
    過去をトラウマとして変われない原因にしているのは自分である、トラウマと
    して意味づけをして変わることを恐れているのである。
    人は三日あれば変われる、しかし容易ではない、勇気がありさえすれば変われる。

    第2話 苦しみの原因は劣等感である

    普通の劣等感は前向きに生きる糧になる。しかし劣等コンプレックス、優越
    コンプレックスは人生を台無しにする。
    肩書、学歴、ブランド品、輝いていた時などばかり気にする人は劣等感に
    苛まれている。また誰かをおとしめたり、いじめたりして優越感を持とうと
    する人も劣等コンプレックスの塊である。
    過去に囚われ、今の自分に自信を持たず好きになれずにいることは、自分の
    選択である。人は起きた事でなく、自分の決意で不幸のままでいるのだ。
    つまり、すべての人は過去をどう意味づけするかで人生の幸、不幸を決めている。
    今、変わると決心すれば誰でも幸せになれるという事です。
    特亜さん、アドラー先生がおよびですよ、(笑)。

  8. 鳥海山たろう より:

    小坪先生の「日本びいき」は素朴で大変いいですね。(日本人である以上当たり前かもしれませんが・・)

    むかし外国人に日本人の信仰の特性みたいなのを聞かれたとき、だいたい次のように表現してました。

    「西洋のキリスト教やイスラム教という宗教はたとえていえばビフテキだ。
     逆に日本人の宗教というのは、寿司とか天ぷらだ。
     寿司や天ぷらはいろいろなネタを使う。寿司はマグロやエビやウニ等々。
     (最近の回転ずしではミニハンバーグやアボガドまでのっている)」

    「つまり個々の人間が好きなネタを食べる。西洋の一神教のように
     完璧主義者が集まって、ビフテキについてわーわー議論して、
     こういう味付けをしよとか、もっと焼き方がレアがよいとか、
     その手の論争は好まない。」

    これでピンとくる人間はピンときます。またはポカーンとします。
    身を乗り出してきて興味を持ったら次のように話す。

    「伝統的な日本人はその人がどういう信仰をもっているより、
     その人がどういう人間であるかに興味をもつ。
     だから信仰告白などしても、あーそうか程度の反応しかない」

    私も伝統的な日本人だと思っているので同じような感じです。
    特に信心深いということはないですが、あえていえば宗教的アイデンティティは「神道なんでも派」ですね。

    なんといっても神道は教義がまったく無いのが素晴らしい。
    そのなかでも「人は自分を映す鏡」という考え方が実に深いと感心します。(鏡を置いている神社もあり、三種の神器のひとつが八咫鏡(やたのかがみ)。鑑とも書きます)

    仏教を軽視するつもりもありません。
    特に日本の歴史のなかで発展した仏教はなかなかよいと思います。
    最近「人間だもの」で有名な相田みつを氏の記念館に行ったら、相田みつを氏の根底には道元など仏教的思想が血肉となって流れていることを実感しました。それが、あの融通無碍な文章をつくりだしているように感じました。

    明治時代などの理想高いキリスト教徒もなかなか美しいと思っています。聖書などは青年期に宗教的に読むというよりも文学的に読んだものです。

    人生の節目では神道に敬意を払ってきました。
    妻との結婚式のときも、妻はどちらかというと華麗なゴシック風の教会で結婚することを夢見てましたが、私は「日本人だから神式でやるのも良いんじゃない」と言ったら、快く了解してもらい、古びたホテルの神式結婚コーナーの和室で、神式で誓いの言葉を復唱し、無口そうな神主さんに祝詞をあげてもらいました。(この形式は大正天皇のご結婚式がもとになり庶民に普及したようです。)

    子供の教育方針としては、親の信仰の好みは子供に押し付けないようにしてきました。ただ初詣などには出来るだけ連れていくようにしています。観光でも神社仏閣を目玉にします。

    このような「神道なんでも派」の日本人の私としては、移ろいやすい生活の風俗は時代によってどう変わろうが、日本人のユニークさや美意識や死生観の根源となってきた神道とその精神から派生する文化はいつまでも大事に受け継いでほしいと思います。

    最近テーマとなった豆まきについて、ふと思ったこと。
    あれは室町時代くらいから流行ったそうです。
    そういえば華道や茶道など日本文化を代表するものは室町時代から発祥のものが多いとのこと。そう考えると室町時代って面白いなと思いました。

  9. hayabu3300 より:

    今回のエントリー、爆笑ものでしたw。
    これがわかる政治家の方は、いかほどいらっしゃるでしょうかねw。

    私が思う、彼の文化侵略にやられたポイントは「日本人固有のシャイな制約」にお墨付きな自由を与えた点にあったと思います。
     クリスマスはとにかく「ハイカラなおもちゃやら、お菓子がもらえる」子供側と、ささやかな罪滅ぼしの両親が子供の喜ぶ顔が見たいという、照れくさくて超えられない薄い壁を壊して、WIN?WINな仕掛けだった。
     バレンタインも全く同じ構図で、ハシタナイという「乙女心」を公然と解き放つお墨付きと、まったく奥手な日本男児がそれまで考えたことも無い「女子からのシグナル」をくれるという、夢のような話。ところがモテル、モテないを公然と序列化するイエスーノー文化が、奥ゆかしい日本文化を吹き飛ばしたのも事実www。
     それと全く関係なく、売れ残った山積みチョコを値踏みするオヤジもまた別な恩恵に浴する、まぁ罪の無いニュージャパン文化、風物詩とでも申しましょうかね。

  10. 名無しさん より:

    以前、父から聞いた話ではありますが広告代理店に勤務していた頃メリーチョコレートカンパニーから物の売れない2月・8月にイベントをやりたいと頼まれて8月にチョコを売るのは厳しいので2月の適当なイベントを探したところバレンタインデーをみつけたとか。
    メリーチョコレートには以前からハート型のチョコがあったそうでその辺りを絡めてイベントをやったものの全然話題にはならなかったそうです。

  11. 相模原 より:

    バレンタインデー、
    聖人バレンチヌスが戦地でセンチな兵士を慰問したとかが発祥だった気がする
    日本のバレンタインデーとあまり接点がない
    強いて言えば性愛に関連する、といったところか
    天長節も端午の節句もクリスマスやバレンタインデー並みに成功、
    いや復権させたければ、華やかさやフシダラさ、企業の儲けを全面に出さなきゃダメだろう
    気が引き締まる、思いを新たに、愛国、宗教といった面は放っておいてね
    そんなの無理だと思うが、その点で、
    初詣や桃の節句は現代日本においても健闘してると思う

  12. 浜茄子 より:

    一言に”物を売る”と言っても、昔と今ではシーズ志向からニーズ志向へ、というようにマーケティングコンセプトは変遷しています。その変遷の原因について、自分は民主主義というイデオロギーの浸透や近代化という文明の移り変わり等に関係があるのではないかと考えています。
    個々の価値観にも重きを置こうという民主主義の考え方は、モノありきのシーズ志向と人心を掴むことを前提としたニーズ志向とでは後者の方が相性が良いのでしょう。
    例えば、「楽しい」というのは一つの”価値観”であって、ニーズ志向はそう言ったサイコグラフを一つの要素としていますが、シーズ志向はそうではありません。
    また、既に存在しているものと、個々の価値観を踏まえた上で新たな技術によってつくられるものとでは、後者がより人の目を惹くであろうことは想像に難くないと思います。
    日本の伝統行事が「楽しくない」と感じる背景にあるのは、伝統と共に停止してしまった”マーケティングコンセプトの研究”なのではないかと思うのですが如何でしょうか。

    坂口安吾の日本文化私観に通ずる所もあると思うのですが、現代において伝統行事に携わる人間は伝統の上に胡坐をかいた”勤勉な怠け者”に成り下がっているというのが個人的な印象です。

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