【紙の力?】私の三十八度線突破記録?先人の財産

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日本人なら知っておくべき、戦後動乱時の状況です。
朝鮮半島からの引上げにおいて、どのような悲劇を日本人は受けたのか。
北朝鮮における核開発の問題に世界的な注目が集まる中、私たちと朝鮮半島の関係はどうなっていくのか。日韓関係が「あるべき状況」に推移しつつある昨今、紙媒体で綴られた当時の情勢を振り返りたい。どれほど酷い目にあってきたのか、私たちは知る責務がある。

これは平成の世の私たちに託された、
先人たちの、戦中戦後世代からの贈り物です。

(前篇)
【紙の力?】日本人なら知っておくべき朝鮮人の暴虐の過去?先人の財産?
こちらは有償の出版物をweb検索より資料化、amazonのリンクをもってISBN等の書籍情報を出典として掲示したエントリです。

 

 

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私の三十八度線突破記録

 
福岡県 梶山緑

 ある日私は、週に一回通っている病院の待合室で、順番がくるまでの時間つぶしに何気なくテーブルの上にあった、「TVガイド」をめくっていた。その時、稲妻の如く私の目に入ったのが、NHK特集の「北鮮紀行」という番組が放送されるという記事だった。まだ数日先のことだったが、それからは気持ちの落ち着ない時間を過ごし、その日、その時間の来るのを異常な期待感を持って待っていた。

 そしてその番組を、はやる心を抑えながら食い入るようにして見た。家族の者にも見るようにと言って、TVの前に集めた。

 最初の画面には、現在の北鮮と中国との国境地帯を流れている鴨緑江の様子が出た。五十数年前のあの悲劇の数々を生じたことなどは、どこのことと言わんばかりに、両岸の大地を抱き抱えるようにして、昔と変わらない雄大な流れを見せてくれた。それだけを見ていても、私の胸は高鳴ってきた。次いで画面には、白頭山の姿が映し出された。そして石川、福井、富山の各県に跨りそびえ立ち、北陸の屋根といわれている白山とのかかわりや、類似点を対比しながら語るナーションが、私の過去を掘り起こすような感情にさせた。次いで金剛山の遠景、近景であった。金剛山は、全朝鮮人の信仰の聖地であるとしてその幽遠なたたずまいが映し出された。

 そして心の中で期待していた、古城の開城の名が流れたころから、画面を見ながら涙が流れていた。あの苦しく、悲しかった、避難生活を体験した者にとっては、あまりにも悲惨な思い出しかない国境地帯のイメージと、映し出されている現在のそれとは、別世界のことのようにも思われてきた。画面には、李王朝時代の華やかな歴史を偲ばせるように古都の風景が次から次と映し出されていた。

 五十数年前の出来事は、まったく認識外のことのように思われ、何ともいいようのない寂しさと悲しさに襲われて、そっとTVの前を離れた。

 戦後、朝鮮半島三十八度線の国境といえば、小学生でもすぐに板門店と答えるように、板門店があまりにも有名になってしまった。私の頭の中でも、国境の町、開城という名はだんだんと薄れ去っていた。そんなときにNHKが再び呼び起こしてくれた。

 それからしばらくの間、私の頭の中では、「北鮮紀行」が、五十数年前の出来事と重なって映し出されいた。

 長かった冬の眠りから四囲の万物が、ようやく目を覚まし始めた昭和二十(一九四五)年の四月に、父の仕事の関係で、朝鮮咸鏡南道文川郡文坪という町に一家は引越してきた。文坪は元山の郊外にある工業地帯で、住友系の工場が群立していて活気のある町で、日本人も多く、治安も良好で生活しやすいところだった。

 もうそのころになると、内地ではあちらこちらの都市は、B29爆撃機による無差別の爆撃で焼土と化しているというニュースが伝えられてきたが、それを聞いてもよそ事のように聞いているくらい平和で穏やかな毎日だった。

 食糧品も比較的に豊富で、「内地の人は、かわいそうだね!」と、家族で話し合っていたほどであった。

 また、永興湾に面した良好な海辺でもあった。海岸は遠浅で押し寄せる波も静かで、白砂青松が続いていた。甘い香りを発散するフリージアに似た草花や、河原ナデシコなどが咲き乱れていて、乙女心を十分に満たしてくれる景勝の地でもあった。

 あの大戦争の、しかも戦局が次第に悪くなってきているときに、どこで戦争をしているのかと、まったくよそ事のような気持ちの毎日で、八月十四日までの四カ月を過ごしていた。

 しかし、それでも厳しい世相はじわじわと押し寄せてきた。文坪での穏やかで、平和な生活にもかかわらず、戦況は日一日、一日と悪くなっていた。元山に近い葛麻半島に飛行場が設営されて、陸海軍の飛行機が飛び交い、兵隊さんの姿も多く見受けるようになってきた。

 元山市内では、万が一に空襲があったならば、被害を少しでも少なくするために、鉄道線路の沿線にある建物や住宅の密集地の家屋が、強制的に取り壊されるようになってきた。

 そのうちに、文坪でも防空壕掘りが始まり、米軍機による偵察行為も行われるようになってだんだんと周は騒々しくなってきて、前途を心配するようになった。内面的にはそれでもまだ、穏やかでのんびりした日常生活を続けていたが、それも八月十四日までのことだった。

 八月十五日を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、行く先の運命はだんだんと暗くなっていった。

 八月十五日、終戦の詔勅も雑音がひどくて、天皇陛下のお声が大きくなったり小さくなったりしてはっきりと聞きとることができず、内容も理解できなかった。しかし、午後になって町中のあっちこっちから沸き起こってきた、「ジョソンドクリツマンセイ、マンセイ」と言う、現地人の叫び声でやっと事態を改めて認識した。

 これまで見たこともなかった太極旗や赤旗を振って、口々に叫び声を上げていた。敗戦により、国家としての権威が一瞬にしてなくなったことをしみじみと実感したし、遠い異郷に放り出されてこれからの生活がどうなるのだろうかと考えると、頭の中は真っ白になっていた

 文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激派分子の跳梁が始まってきた。元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。

 私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一カ所に集め、集団生活をさせることとなった。二世帯か三世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。

 態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。

 そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪しはじめた。そのうちにめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。

 私たち若い女性は、頭髪をぶっつりと切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して堀った穴に身を潜めた。ときには敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家にかくまってもらったりもして難を逃れていた。

 こんなに恐ろしいことになったのも、それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。

 命を削り取られるような不安におののく毎日であった。男の子のような姿になっていても、顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。

 私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。その手口は、まず門を自動小銃の台尻でドンドンとたたき壊し、そこから長靴を踏み鳴らしながらドヤドヤと乱入してくるので、この音を聞くと男の子の姿をした女性は、何をしていても、台所の床下にある食糧品貯蔵庫に入って息をひそめている。しばらく彼らは室内を物色していてめぼしい物が見付かると歓声をあげながら出て行く、期待していた物がないと室内を銃でたたきながら、靴で激しく床を踏みつけなら大声を出してわめき散らして出て行った。ひどいきには銃を上に向けて二、三発撃ちながら退去して行った。出て行く様子を床下で知ると、ほっと胸をなでおろしてはい上がった。

 ソ連兵は、時計やカメラや貴金属を一番欲しがっていた。中にはいくつも腕に時計を巻き付けている兵隊もいた。

 そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪地区にもやってきた。十数日間、食べる物も食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。

 しかし、文坪地区でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。

 九月の中ごろだったと思うが、自動小銃を構えたソ連兵に両側から監視されながら、日本軍の服装をした長い隊列が北に向かって歩いて行くのに直面した。付近にいた日本人が集まってその隊列を見送ったが、その中に肉親の姿を見付けて声を出して泣き叫びながら一緒に歩いている家族もいて、顔を背けたくなるような情景もあった。この隊列はシベリアに連れて行かれたのだろうか。

 こんなことをしていては、一家みんな犬死にになってしまうということで、父は家族を内地に帰す決心をした。地元の親しい朝鮮人に頼んで母と子供四人の朝鮮服を縫ってもらい、それを着て朝鮮人になりすまして列車に乗るという筋書の脱出計画をたてたが、この脱出計画がどうしてか保安隊に漏れてしまった。だれかが密告したのかどうか分からないが、保安隊によりすぐに家宅捜査が行われてめぼしい衣類などを持っていかれてしまった。もちろん父は、保安隊事務所に連行された。私たち家族は今更の如くに後悔をしてしまった。こんなことで父は殺され、残された私たち家族は今より一層惨めな生活を強いられることを考えると、脱出計画を思いとどめさせるべきだったと母は嘆き悲しんでいた。

 父は、保安隊事務所で数日取り調べが行われ拷問も受けていたようだったが、朝鮮服の縫製を頼んだ知人が親身になって弁護をしてくれたおかげで、ようやく釈放されて随分と弱った姿で帰ってきた。それでも殺されずに五体満足で帰されたので、家族一同、手を取り合って無事を喜び涙を流した。

 秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵との行動に一喜一憂していた。各家のめぼしい財産も底をついていたので略奪行為は幾分下火となったが、時計探し、貴金属探しは熱心だった。こっちもほとんど出してしまったので気が楽だったが、それでも彼らはどこかに隠しているのではないかと疑いの目をもって探し回っていた。

 あるときは、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後三時までに、駅前広場に身の回りの最少限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した。

 大人も子供も、自分の体に合ったリュックサックの中に、当座必要な衣類や食糧を詰められるだけ詰め込んだ。いままで重たい物をあまり持ったことのない私なので自分のリュックサックを背負う練習もした。重いリュックサックを背負って立ちあがるとすぐに後にひっくり返ってしまう。少しでも多くの荷物を持って行こうというので詰められるだけ詰めているので重くなり過ぎるのだった。これでは駄目だと背負って歩けるぐらいに少しずつ出したが、背負ってちょっと楽だと思うとまた少し詰め込む、するとまたひっくり返ってしまう。こんなことを繰り返しながら出発準備をした。泣き笑いの状況だった。

 両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。もう帰国することだけが頭にあった。

 元山駅に向かって歩き出した。ナチスドイツがユダヤ人を相手に行った残虐行為の映画を見たが、あのホロコーストへの道に向かってユダヤ人が延々と列をなして歩いている様子とまったく同じで、あの映画を見たときに五十年前のことが昨日のことのように思い出されたものだった。

 数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。しかしここで座り込んでいてもどうにもならないので、お互いに励まし合って、また元の道をトボトボと引き返して家に戻った。

 戻ってみてびっくりした。家の中がひっくり返ったように荒らされていた。タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。

 実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。そのうえに今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が押し込められてしまった。リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった。こんな偽の命令で数回も歩かされて、今度こそは本当に日本に帰れるかと、その都度、夢と希望を持って家を出たが、すべてそれは無駄であった。布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。

 激寒の冬になると、集団生活をしている者のなかにも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次と死んでいった。虱のたかることは、秋が深まってくるころから心配していたが、消毒する方法も無く下着の着替えもできなくなり、虱は繁殖し放題だった。発病すると高熱が出て一週間ぐらいで死んでしまう。薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。

 ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人のなかには自ら死を選んだ人も多かった。

 このまま、ここで越冬していては座して死を待つばかりだと考える人もあった。少人数でグループをつくり、夜陰に乗じて収容所から脱出して、元山に向かって逃げたグループもあったが、大半は途中でソ連軍に捕まってしまい、他の所に連れていかれたとのことだった。ほんの少数のグループが無事に元山にたどり着き、東海岸から小舟を雇って南下したようだった。

 死者が出ても葬式をだせるはずもない。文坪には町外れに戦前から火葬場はあったが、使えず、その周辺には何体もの遺体が置きっぱなしになっていた。なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た。体の動ける者が交代で火葬場の横に、深さ一・五メートル、幅二・五メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘に付した。家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ悲しく、かつわびしい有様でした。鼻をつく異臭が町中にまで風で流されてきて、残っている人々もただ、明日は我が身の上かと思い涙も出なかった。

 風倒木は火力が弱いので、次々に薪を放り込んでも遺体は完全には灰にならなかった。どうにか原形をとどめないぐらいに焼けるのが精いっぱいだった。保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。付近には、あちらこちらに新しく土が盛られていた。いわゆる土饅頭という墓である。火葬ができずに、ただ穴に放り込んで埋められた遺体が多かった。火葬をされた人はまだよい方ではないかとも思った。

 満州の方から脱出してきた人の話によると、避難行の途中における死者の大部分は、そのままの状態で置き去りにされたか、川に流されたか、どちらかの方法で処分されたそうだ。その話を聞いたら文坪で火葬にされた人は、まだ人間扱いでよい方だったと思った。

 昭和二十年の暮れになると、文坪地区の残留日本人もようやく諦めの心境になり、日常の生活にも慣れて落ち着いてきた。このまま個々に、ソ連軍や保安隊員といろいろ交渉をしていても、何も得ることがなく無駄だということになり、日本人世話人会をつくり代表者を選出し、いろいろな交渉・要求をソ連軍の代表者、保安隊の長などにぶつけることとなった。その代わりにソ連軍側からは、住友工場等に残置されている工作機械や各種の設備を、ソ連本国に運び出すための作業員の差し出しの要求があった。

 毎日、男性は作業に駆り出された。作業はソ連兵の監視のもとに行われた。重労働であったが作業が終わって帰るときには、多少の食糧品や賃金ももらえたので、それで必要品を買うこともできて、最低生活を維持することとなった。

 日本に帰れる日までは、何とか生き延びようとお互いに励まし合い、助け合いながら働き、昭和二十一年の正月を収容所で迎えた。

 そのころになると、満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難して来る人が増えてきた。文坪地区でも、寺や学校などに集団収容され、さらにここから三十八度線を突破して南下するために、体力の回復を図る目的で、しばらくとどまる人々が増えてきたが、風呂に入ることもならず、着替えがあるわけでもなく、それこそ真冬だというのに着の身着のままの姿で収容されていた。私たちも気の毒に思っていたが、どうにも助ける手段がなかった。

 相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどりついたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。

 ここで少しでも体力の回復を図り、南下を試みるのであるが、これから先も半分以上が山道なので、早く日本に帰りたいという気持ちはあっても、力が沸いてこないという避難者も多く、収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。

 それからは、何日となく計画を立てては直し、直してはまた、新しい計画を作り、やっと綿密周到な、「集団脱出計画」が完成した。決行日は、昭和二十一年四月三日の夜と決定された。その夜のことは余りの緊張により頭の中に入らなかったのか、記憶がほとんど薄れてしまい、今になっては思い出せなくなった。

 三十八度線以北からの日本人引揚者は、満州奥地から避難してきた人たちより、ある面では苦労が大きかった。それは、満州からの引揚げは昭和二十一年の春、葫蘆島からの正式な引揚げが始められたが、北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行われていない。命からがら三十八度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって三十八度線という関所を、ソ連兵や保安隊員のすきをみて突破・脱出してたのである。

 それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まって送り返されたりしてしまった。いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。

 元山から多額の金を払って舟を雇い、集団で脱出しようとしたが、途中の三十八度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。それこそ死を覚悟しての三十八度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。

 私たちの脱出グループは七十人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。以前、保安隊にだまされて何度も歩かされたころのリュックサックの重さに比べると、半分ぐいしかなかった。それでも今度は、三十八度線を突破するという気持ちの張りで、ずしりと肩にかかっていた。

 ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した。全員がそろったところで、日本人世話会の指導者から、改めて脱出計画について細かい説明があり、注意事項が示された。闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。三十八度線突破行の第一歩がこうして始まった。元気な若い人が列の前と後ろを歩き、老人や女、子供がその間に入って、東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした。好意的な朝鮮人には食糧を分けてもらったり、炊き出しをしてもらったりしたこともあった。山間部にいる朝鮮人の中には、まだ日本人に対して親切な人も多かった。準備したお金や、貴金属はだんだんと少なくなって心細くなってきた。

 大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。通行料は十円ぐらいだったと記憶している。そのほかに荷物検査料とか、何とかと名目をつけては二、三十円は取られていた。このお金は、日本人世話会で準備をしていたようであった。

 三十八度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。

 四月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかったが、お互いに励まし合って何とか、落伍者もなく歩いていた。

 一日約二十キロメートルぐらいの行程であったが、数日すると予定の半分も進まなくなった。行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査をされたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。あるところで保安隊員に止められたが、寄付金を渡しても解放してくれない。世話会の幹部が交渉をしたがそれでも駄目だった。理由は、列の中に日本軍の憲兵だった者がいるというので、全員の顔検査をすることになった。そして、その憲兵だったといわれる人が、連れ出されて殴打され、あわや殺されるのではないかという事態になったこともあった。ただ、顔が似ているというだけの理由からであった。

 連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積してきて歩くのも困難になった人が出てきた。前後を歩いていた若い元気な人が、支えたり時々は背負ったりして励ましていた。ある女性は、二歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上は歩けないからここに残ると言い出した。しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いたときに、とうとう二歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。

 みんなも、自分のこと、家族のこと、子供のことだけで精いっぱいの極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。致し方ないことであった。私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。

 母は、文坪の収容所で協同生活をしていたときにマラリヤにかかっていて、脱出する前にやっと起き上がれるようになったので、重い荷物を背負うなどということは当然に無理で、父が母の分まで荷物を持っていたので、それだけで手いっぱいだった。三歳になったばかりの妹は私が背負い、十歳の弟と一緒に歩いていた。父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。歩いている人の中には、藁沓を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。

 三十八度線に近づいた山間部で、ちょっとした渓谷があり、そこに架かっていた丸木橋を一列になって渡ったが、そのときに私は不注意にも足を滑らして背負っていた妹諸共に川の中に落ちてしまった。幸いにあまり深くはなかったのですぐに立ち上がることができたが、下半身はびしょびしょ濡れになり、寒かったとは今でも忘れられない。

 国境近くになると警戒が一段と厳重になって、保安隊員が組をつくってあちらこちらに立っていた。検問所のような建物も見受けられるようになった。

 疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射されたときは、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終わりかと観念したが、相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっとあんどの胸をなで下ろした。

 三十八度線上の山々は、標高が四百メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出はできないと思うと、苦にはならなかった。一日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。

 いよいよ明日は、三十八度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。そしてさらに、「背中に背負っている子供は、体の前に抱いてひもで結ぶこと。最後は走るようになるから履き物が脱げないように上から結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。

 荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。

 父からも、「ここを突破して開城に行けばなんとかなるだろうから、全部ここに置いて行こう」と言われた。ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけがすべてであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。どの人の顔を見ても必死の形相で、それはそれはすさまじいものがあった。

 その日は、北朝鮮の四月にしては割合に気温が高かった。体力をつけるために、それぞれ木立の間に入って仮眠をすることになったが、なかなか寝つかれなっかった。

 夜半の十二時に行動が開始された。やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視・激励していた。

 深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。ただ、サクサクと踏みつぶして行く霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。息をころして歩いていたが、三十八度線の山の頂上にはなかなか出ない。歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた。そのうちに今まで黙って歩いていた人の中からボソボソと声を出す人も出てきた。世話人が、口に手を当てて注意をしていった。

 そんなときに、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足にも力が出てきた。無言の行進が続いた。

 しばらく歩いているときに、家畜商人が「あの丘の向こうが三十八度線だ」と、指さした。勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。初めてだまされたことに気付いた。

 みんなはそれを知って、一遍に疲れがでてその場にへたへたとして腰をおろしてしまった。今までの張りつめていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。その夜は特に寒さが厳しかった。腰をおろしている間にも霜がおりてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。

 世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。私に抱きかかえられていた妹は、死んだようになって目もあけずにいたので、心配になってゆり起こしたが、目はうつろになっていた。

 夜はもうとっくに明けて、太陽が上ってきた。幸いもこの辺りは山のなかの辺鄙な所のようで、監視の目も届かないようであった。

 しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。山頂に出たのだ。見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。紛れもなく三十八度線を流れている川であった。

 一同は、何の抵抗もなく急いで渡った。弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、力なく手を振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。

 岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはそのすき間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。

 自動車の音で、みんな我に帰って立ち上がった。よく見ると赤十字のマークのついた車だった。最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。

 とうとう三十八度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。いま渡った川の向こう岸を見て、ここ十数日のことが思い出された。心のうちでは、万歳! 万歳! と叫んでいたが、まだ口に出しては言えなかった。時間がたつにつれて気持ちが落ち着いてくると、何かしらあっけない気持ちにもなってきた。

 アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せて行った。母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。歩ける者は歩いたが、今までの行軍とは全然違って、足もなんとなく軽くなり、さっさっと歩けた。米軍の日本人収容所に入った。そこでまず、DDTの洗礼を受けた。初めてのことで随分と戸惑った。みんな顔から真っ白くなってお互いに顔を見合わせて笑った。笑うということは久しぶりだった。

 二、三日収容所で過ごし、再びトラックにゆられて京城(ソウル)の収容所に入った。そこでも三日ばかり生活をして、釜山行きの列車を待った。京城の収容所には立派な救護施設があって、ソ連兵などによって陵辱された多くの女性が治療を受けていたと、母が言っていた。収容所の周囲には鉄条網が張られていたが、行動は自由で文坪での顔見知りの人にも会うことができた。

 釜山では、再び厳重な身体検査があり、検疫が行われた。内地への帰還船が来るまで数日、抑留された。もうここまでくれば日本に帰ったようなもので、みんなの顔色もよくなり、母の体調も快方に向かった。

 待ちに待った帰還船に乗り仙崎に向かった。

 仙崎で下船し、汽車で故郷の博多に着いた。文坪を脱出して約一カ月たっていた。汽車から眺めた沿線には、レンゲの花が満開だった。これを眺めながらこれからの生活がどうなるのかと考えていた。しかし、どんなに苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、あの文坪からの脱出行を経験した者にとっては、何でもできる自信を持っていた。

 私には、姉と兄がいた。姉は敗戦の時に、たまたま南朝鮮にいた親類の家に遊びに行っていたので、そのまま親類の家族と一緒に早く帰国して県庁に就職していた。また、兄は海軍の予科練に入っていて内地で終戦を迎えたので、これもすぐに福岡に帰り銀行に勤めていて、私たち親子が元気で帰ってくることを祈りながら生活をしていた。この二人がいたので他の引揚者の人たちより随分と恵まれた受け入れ態勢だった。

 作家の五木寛之さんは、やはり北朝鮮からの引揚者であるが、ある本に、「三十八度線を無事に突破した人は、必ずしも体力があったからではなく、足に合った履物を履いていたからである」と書いているが、まったくそのとおりだと思った。私たちの家族は、地下足袋やゴム長靴を短くして足に合わせて履いていた。だから歩くことに大きな低抗がなかったのだろう。

 戦争は、本当に怖く悲しいものである。アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。

 帰国が果たせなかった多くの人が、異境の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。謹んで哀悼の意を表したいと思う。

出典:平和記念展示資料館(総務省委託)より、私の私の三十八度線突破記録(pdf)

 

 

 

▼『紙の力』
ネット全盛の現代でありますが、紙には紙の力がある。
書籍として刊行されれば国会図書館に収蔵され、かつISBNを始め付番が振られます。

いまでは入手困難になった物も多数あるかと思いますが、
それでも、困難であったとしても、それでも。
どこかの屋根裏、倉庫に眠っているのです。
少なくとも国会図書館には、一冊は存在する。

一度、発刊された書籍。
「紙」を全てなかったことにすることは、極めて難しい。

かつて独裁者ら、また近代においては共産主義者らが「焚書」を行いました。
それほどに紙には紙の力があるのです。

 

▼紙の優位性
スマホと異なり、電池がなくとも機能を満たせます。
パソコンより軽く、携帯性に優れ
パソコンより衝撃に強く、頑強な情報メディアであり
発火しない限りは熱への耐性も強く、「機能」を満たす。

冗談で言っているのではありません。
これは本気で言っております。
理系の、元技術屋として、事実として本心から述べております。

特に、ソースとする場合は優位である。
ブログ等の電子媒体と異なり、「誤字修正」すら受け付けぬ。
出版社・著者ともに法的責任を負う。

出所が確かで、追跡可能であり、
かつ、確認の手段は(ネットメディアに比較し)煩雑とは言え、誰しも確認が可能。

紙には紙の、優位性がある。

 

 

▼先人からの贈り物
日本人なら知っておくべき、
戦後動乱時の状況です。

書籍情報をご覧ください、どれほど古い本をソースとしているかを。
カテゴリが古書となっているものもある。
これは平成の世の私たちに託された、
先人たちの、戦中戦後世代からの、贈り物です。

我が国には、祖先がおります。
誇るべき祖先がおります。

いまの世を生きる者として、
多くは鬼籍に入ったやも知れませんが
先人らの思いを、託された物としてしっかりと受け取りたく思う。

 

 

▼孤独な戦いであったと思います。
左派メディアが全盛、ネットの援護もない時代。
見向きもされずとも、記した先人たちがいる、著者の意地。
多くは採算を度外視して刊行されたのであろう、出版社の意地。

戦場に倒れた戦友を思ってだろうか。
戦火に焼かれた家族を思ってか。

孤独な戦いであったと思う。
それら出版社の意地、執筆陣の意地。
報いるため、いま私たちができることやろう。

それぞれの立場で為すべきことを為そう。
為すべきことを必死に行った先人らが、私たちにはいるのだから。

時代を超えて、一人じゃない、と。
孤独じゃないと、ありがとうと、思いを込めて。

一人でも多くの方に、血の滲むこれらのテキストを伝えるため。
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(前篇)
【紙の力?】日本人なら知っておくべき朝鮮人の暴虐の過去?先人の財産?
こちらは有償の出版物をweb検索より資料化、amazonのリンクをもってISBN等の書籍情報を出典として掲示したエントリです。

 

 

 

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最後に。
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コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)

  1. 櫻盛居士 より:

    **********************************************************************
    共産党は2016年9月13日からの警告を無視し続けましたね。
    ならば、下記は決定事項と承諾したものと見做します。

     ・『テロを利用する共産党』
     ・『テロリストの味方である共産党』
     ・『テロに屈する共産党』

    **********************************************************************
     
     
    北朝鮮が最後にミサイルを発射した日付を、皆様は覚えてらっしゃるでしょうか。
    2017年11月29日に発射されたのが、今現在に於ける最後のミサイル発射です。

    この日に発射されたミサイルの飛距離から、米国が射程内に入った事が確実になり、米国は北朝鮮に対し軍事的恫喝を本格化させました。
    その後、米国は飴と鞭を使い分けた外交を繰り広げ、現在の状況を保っています。

    本日のエントリーでは連合国との停戦後に於ける38度線越境の地獄が紹介されていますが、これはそもそも朝鮮半島に駐屯していた軍が武装解除に応じてしまった事に始まり、”私の三十八度線突破記録”中に記されている通り、警察が指揮命令系統を喪失した結果、その力を失った事で更に残留日本人の状況が悪化した事は明らかです。

    昨日のエントリーのコメントでは、停戦後も武装解除を拒否しソ連軍と交戦を続け、駐蒙軍管轄地域に在留していた避難する邦人の交通手段や食料等の手配や確保を最後まで展開した、駐蒙軍司令官根本博中将(最終階級)に触れられておりましたが、こちらは朝鮮半島に於ける38度線越境に比べれば、その帰国の苦労はかなり軽かったのです。

    これらの共通点は只一つ、必要に応じて武力を行使、亦は行使出来る状態を維持した結果に於いてのみ、安定や安全が確保出来たと言う事実です。
     
     
    朝鮮人のまるで獣の様な振舞いに腹立てるのは当然ですが、その獣を扱う為の道具や方法を用意出来無い事の方が問題なのです。

    つまり日本人自体がこの問題に目を背けず向き合い、その問題を解消する具体的な方法を実行する必要性を納得するしか無いのです。

  2. NW より:

    ?韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は26日の閣議で「親日を清算し独立運動にしっかり礼を尽くすことが、民族の精気を正しく立て直し正義のある国に進む始まりだ」と訴えた。

    ?韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相は25日、スイス・ジュネーブで始まった国連人権理事会で演説した。慰安婦問題で「被害者中心の取り組みを進める」と述べ、「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した2015年の日韓合意は不十分だという立場を示した。

    親日罪とは、2005年に盧武鉉政権下の韓国で定められた。反日法とも。
    日本統治時代に親日反民族行為をした者の財産が、その行為によって得た利益を国家の所有とする法  

    要するに日韓併合の全否定ですね。資金や技術が欲しい時だけ「用日」で歴史戦と経済は別次元と都合で使い分ける分裂病である。この理不尽な考え方に一世紀近くも付き合ってやった日本は無駄な時間と浪費でしたね。得をした人は米国民主党系の投資家と反日売国奴と金の亡者と在日でよろしいでしょうか?一般国民は大損でした。

    康京和(カン・ギョンファ)外相も文在寅(ムン・ジェイン)も詐欺師でいいでしょ。
    ここまで強気な発言をするのは従北であり、悲願の統一が具体的になってきたのだろう。
    外資に支えられて漢江の奇跡はありましたが、もはやこれまででしょう。

    精神的欠陥が残虐非道な行動に直結しているのだが、また自国民同士で殺し合いかもね。
    100年前の李氏朝鮮時代がお似合いでしょ。
    他力本願で繁栄はもたらされたが自力でやり直しだよ。

    北朝鮮は完全核廃棄し、制裁解除されたなら世界各国の地下資源に群がる投資家から経済援助があるらしいので、もう韓国人はお荷物的存在だね。よって北の奴隷になるか乞食扱いの未来が見えるよ。
    朝鮮半島の行く末は未知だけど、間違いなく言えることは誰かに助けてもらわない限り衰退の一途をたどる。
     
    他国に恵んでもらった資金は消えてなくなり、投資は逃げて、盗んだ技術だけでは行き詰まるだろう。
    日本は助けない。

    日本は北朝鮮にも韓国にも散々な目にあわされた。朝銀破綻処理に1兆円以上払った。
    多くの拉致被害者は帰らない。
    韓国にも莫大な投資をした。
    韓国よ自力で這い上がってみろ。
    これからは冷めた眼差しで見物させてもらうよ。

    ハノイ会談が始まる前から…日本「北朝鮮に支援しない」と米国に通知

    べトナム・ハノイでの米朝首脳会談(27、28日)が始まる前から日本政府が「対北朝鮮支援に参加しない」という方針を米国側に通知した。

    首脳会談で北朝鮮が非核化のための具体的な措置を約束する場合、米国はその見返りを北朝鮮に提供することを検討しているが、日本はその支援に加わらないということだ。

    • 草莽の団塊です! より:

      NW様、情報ありがとうございます

      >日本は北朝鮮にも韓国にも散々な目にあわされた。朝銀破綻処理に1兆円以上払った。
      >多くの拉致被害者は帰らない。韓国にも莫大な投資をした。韓国よ自力で這い上がっ
      >てみろ。これからは冷めた眼差しで見物させてもらうよ。
      >ハノイ会談が始まる前から…日本「北朝鮮に支援しない」と米国に通知

      北朝鮮、韓国に関わるな・・・と改めてつくづく感じます。
      ほんと、舐めるなよ!朝鮮人!と心から怒りがわいてまいります。

  3. 波那 より:

    2014年の記事ですが韓国の日本に対する状況は現在も何も変わっていない、全く同じです。

    ?韓国に吸い尽くされた日本の血税“23兆円”「支援しても感謝はなし」【嫌韓】 日本が韓国に援助してあげたお金、日本政府は韓国に対して莫大な支援をしたが韓国は恩を仇で返す敵国で経済制裁を科せ – 近野滋之Blog
    https://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/38585823.html

    韓国に吸い尽くされた日本の血税“23兆円”「支援しても感謝はなし」

    アメリカでのロビー活動で教科書に「東海」を強制表記させたかと思えば、「竹島の日」に向け活動家が日本の要人へのテロ予告までしている反日国家・韓国。しかし、そもそも韓国は、日本による莫大な税金を使った援助によって今の発展があるのではなかったか。入手した「血税リスト」で、韓国の“恩知らずな実態”を暴く!

     政治やスポーツの場を利用して、今や“定番”となった韓国の反日バッシング。だが、今まで日本は韓国の経済発展のために貢献し、そのため国民の血税が吸い尽くされていたのである。

     入手したリストは、日本がODA(政府開発援助)の一環で、韓国の支援に使った金額のほんの一部だという。日韓問題を取材するジャーナリストが言う。

    「このリストは、ネット上で“反韓”の人たちの間で話題になり、資料として出回っているものです。1966年から90年までの韓国へのODAが終了するまでの項目が掲載され、現在の価値に換算すると、総額で23兆円もの税金が韓国のために使われたと指摘しているのです」

     リストの中で特に金額の多い項目を見ただけでも、日本の「血税」が大量に投入されていることがわかる。なのに、苛烈な反日批判が繰り返されるのは、不可解としか言いようがない。

     そもそも1965年に日本と韓国の間で日韓基本条約を締結した際に、「解決金」という名の莫大な賠償を求められた。日本の植民地支配による個人の未払い賃金を含む一切の対日請求権を放棄する代わりに、無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款3億ドルの総額8億ドルの資金援助を提供した。古参の自民党関係者がこう振り返る。

    「当時、日本の外貨準備高は18億ドルしかなく、そこから8億ドルも持っていかれた。当時の韓国の国家予算の2倍以上ですよ。佐藤栄作内閣の閣僚の中には、『日本の有り金を全部持っていく気か!』と激怒した人もいたそうです。ちなみに、この時の韓国政権は、朴槿惠〈パク・クネ〉大統領の父親である、朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領でした」

     日韓基本条約の「解決金」では、韓国政府はやりたい放題だったという。韓国事情に詳しい経済評論家の渡邉哲也氏はこう語る。

    「韓国政府は北朝鮮の分の解決金も受け取っていながら、北朝鮮には分配していません。また、韓国政府は日韓基本条約のことをずっと国民に伏せてきました」

     解決金と技術支援によって、「漢江の奇跡」と呼ばれる急激な経済成長を遂げた韓国だったが、97年のアジア通貨危機によって経済が崩壊した。ソウル駐在歴3年の東京新聞・五味洋治編集委員が当時の様子を語る。

    「アジア通貨危機の時に、私はソウルにいましたが、国庫に外貨がなくなった韓国は、あっという間に国家倒産状態に陥り、昨日まで一流企業に勤めていた人たちが、一夜にして地下街でテントを張って暮らすようになっていました」

     財政破綻の防止などを目的としたIMF(国際通貨基金)の監督下に置かれた韓国のため、日本は100億ドルを支援した。にもかかわらず、韓国政府は危機が落ち着くと、

    「IMFからの支援はありがたいが、日本からの支援は迷惑だった」

     と、高飛車に言い放ち、感謝の言葉すら述べなかったのだ。

     韓国の“ゴーマン体質”について、渡邉氏はこう語る。
    「日韓基本条約を結んでも植民地支配していた時代があるから、韓国は日本が金を出して救うのは当然だと思っている。今までの日本も韓国が要求するたびに支援していた。ただ、一昨年に朴槿惠政権が誕生し、直後に日本は安倍政権になった。それ以来、経済回復する日本と悪化する韓国という構図が発生したのです」

     経済が下降線をたどったことで韓国国内の矛先は反日批判に向けられていく。
    「反日がエスカレートするのは、それだけ経済が困窮して国内に金がないという証拠。困っていない人は大騒ぎしない。お隣は“お困りの国”なのです。実際、18年の平昌冬季五輪はすでに開催が危ぶまれています。立候補時には国際空港から会場までの高速鉄道での接続計画を予定していましたが、資金不足により白紙になった。メイン会場のアルペンシアリゾートは実質破綻していて、施設を建設できない状況に陥っています」(前出・渡邉氏)

     それでも“オネダリ体質”は、資金援助だけではなくなっていると五味氏は言う。

    「経済的にかなり発展したと自負している韓国は、次は国際的な地位や発言力を狙っています。慰安婦問題でも国際的な場面でアピールして、日本のネガティブキャンペーンを展開。また最近では、『日本海』と記載されているアメリカの教科書に『東海』と併記させるため、アメリカで積極的にロビー活動をして、日本の評価を下げ、自国のイメージを確立しようとしています」

     今までの日本政府なら、こうした韓国の“反日暴走”を黙って見過ごしていた。だが、安倍政権になってから、姿勢は変わってきているようだ。

    「実は、かつては韓国を支援するメリットもあったんです。朝鮮半島全域が共産勢力に奪われた場合、日本から見て日本海を挟んだ国家が全て敵になってしまうので、韓国に支援することで日本海防衛の役割をしていたのです。しかし、冷戦構造が崩壊して中国やロシアが自由化したことで、韓国の価値は暴落しました」(前出・渡邉氏)

     もはや韓国に金を無心されても、日本は財布を開くメリットが格段に小さくなっているというのだ。

    「安倍総理はロシアのプーチン大統領と会談し、飯島勲内閣官房参与は北朝鮮を訪問しています。これで国交正常化すれば、防衛上安全になるので、韓国のわがままにつきあわなくていいのです」(前出・渡邉氏)

    ◆アサヒ芸能2/18発売(2/27号)より

    ttp://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/agp-20140221-20584/1.htm

    >「このリストは、ネット上で“反韓”の人たちの間で話題になり、資料として出回っているものです。1966年から90年までの韓国へのODAが終了するまでの項目が掲載され、現在の価値に換算すると、総額で23兆円もの税金が韓国のために使われたと指摘しているのです」

    このことについては、ネットには動画があり、ネットの掲示板には多くのコメントがあります。

    【動画】

    【嫌韓】日本が韓国に援助してあげたお金
    ttp://youtu.be/QVLl5lOUKco

    55 :名無し:2014/02/23(日) 20:14:41.15
    ●●●事あるごとに日本から金をむしりとり続ける強姦国●●●

    譲渡(あげたお金、資産)
    1965年 60兆円相当のインフラ設備譲渡(日韓基本条約締結)今後一切の韓国の請求権の解決
    1965年 800億円+α譲渡(当時の韓国の国家予算の約2倍の金額)
    1983年 特別経済援助 4000億円譲渡
    1997年 韓国通貨危機(経済混乱多くの財閥が倒産) 10000億円譲渡
    2006年 ウォン高救済支援 20000億円譲渡
    ●●●(その後、日本の経済援助は迷惑であったと声明を発表)●●●
    2008年 リーマンショック危機 30000億円譲渡
    ●●●(日本は出し惜しみをしていると不快感を発表)●●●

    その他(貸したお金で返ってきてないもの)
    ●2002年ワールドカップ 融資300億円未返済●
    ●IMF援助8400億円、その前の14000億円、それ以降の12000億円未返済●
    ●ODAの有利子負債及び利子未返済●
    ●●●貸出金合計13兆円のうち、未だたったの1円も返済していない。●●●
    韓国へのODA一部(1990年以降も継続)
    ttp://earlgrey2.iza.ne.jp/blog/entry/2749252/

    ●これだけしても国連では足りないと非難し続ける強姦国
    日本は強姦国に犯し続けられるのである。
    強姦国と付き合うメリットはなく、害でしかない。
    ●●●強姦国のGDPは東京のそれよりも低いどうでもよい国である。●●●
    もうそろそろ日本国民は意志を見せないといけない。

    ?後半にはアジア全体を何百年も支配していた欧米国が何処も行わなかった、日本だけが行った海外資産無償供与が書かれています。

    • 草莽の団塊です! より:

      波那 様、情報ありがとうございます

      >韓国に吸い尽くされた日本の血税“23兆円”「支援しても感謝はなし」
      上記、せめて、日本の産経新聞、読売新聞は、何百回でも日本国民に周知徹底していただきたいものです。いや、もう、怒りで頭が阿曽山大噴火状況でございます。

  4. 余命愛読者 より:

    黒幕は韓国の裏側に居ますぜ!
    有本香さんがツイッターで黒幕を白状しましたぜw
    https://twitter.com/arimoto_kaori/status/1100070116383846405
    有本 香 Kaori Arimoto @arimoto_kaori
    2月25日
    「江沢民派」が日本にとって最悪であり、そこと深く繋がってきた米国民主党系や金融勢が日本をいかにいたぶってきたか、など皆、承知している。しかしだからと言って中国の現体制が「良き味方」なわけはない。日本の現政権が今、中国と「関係改善」して見せる理由はそんな単純な話でないのも当然。

    • 琵琶鯉 より:

      まさに米国の民主党政権は要注意です。アメリカの歴史においても常に戦争を始めるのが、民主党政権。戦争を終わらすのが、共産党政権。
      失礼議長が会いに行っているのが、民主党の要人。
      アメリカは、二つの政権によって、同じ国がごろっと変わりますから、私達日本人はアメリカの世論の真意などをしっかりと把握していかないと、WW2の間違いをします。

      ほんとに歴史教育は大事です。

  5. 名無しの案山子 より:

    昨日と今日の記事で色々な本や文献を紹介して頂き有難う御座います。こういった本や文献は他にも有るだろう事は想像できますが、一般人には探す事が困難なので助かります。今後も多くの本や文献を紹介して頂けると良いなあと思います。

    既に覚醒された方は、本くらい自分で探せよ、やる気あるのかよ、と言って、未覚醒の人々を馬鹿にするでしょう。でも、少し未覚醒の人々の弁明をさせて下さい。

    一般人の多くの人々は忙しいです。サラリーマンは朝早くから夜遅くまで仕事をしています。休日にもやる事が一杯有ります。自営業の方も同様です。主婦の方も色々とやる事が有ります。学生だってそうです。なので、覚醒が遅れる人々が居るのは理解して欲しいと思います。

    まあ、それでも、今日の事態に至っても無知で有るというのは罪で有る、と断言しても良いとは思いますけど。

  6. さぬきのゆめ より:

    韓国への渡航注意喚起が外務省から出るようです。ネットでは随分前から危ないと言われていましたが、やっと現実が追いついてきたようです。

    外務省 韓国渡航者に注意喚起へ あさって独立運動100年で
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190227/k10011829531000.html

  7. 余命愛読者 より:

    これをどうぞ!余命ブログの読者投稿にも紹介されていました。
    北朝鮮を背後から支配していた人々は誰か。
    安倍首相、トランプ大統領、そして習近平氏は、誰と戦っていたのか。
    そのあたりを考察していきます。
    https://twitter.com/ssomurice_round/status/1007972820960272384

    • 宮崎マンゴー より:

      ご紹介、拝読させていただきました。
      ありがとうございました。
      自分自身、薄雲に覆われていた戦前戦後の
      日本が抱えていた闇を小坪議員様Blogや余命三年時事日記にて[真実]を学び受け止めさせていただいた事でございましたが…。やはり、闇のバックの存在は途方もなく巨大なのだと。戦後74年経っても[真実]を前に塞がれている平和、我身に起きていた異変や恐怖の日常を察知させていただきました。
      此処でコウベを垂れ、嘆き諦める訳にはいかない…日本再生を切に希望致したく存じます。立ち上がれ!日本!祈

  8. 小坪さん、毎日ありがとうございます。

    時宜を得た、再三再四にわたるいわば「警告」ですね。
    知らんかった人には拡散、と。
    そしてついに渡航注意喚起ですか。
    いよいよ動き始めそうですね。

    私ら日本国民は、しっかり状況を把握しとかなあきませんね。
    ん?余命さんは死んだふり?ww
    わかりませんけど、今日、明日、トランプさんのツイッターに注目、ですね。
    マスゴミはあてになりませんからね。

  9. 草莽の団塊です! より:

    小坪先生、情報ありがとうございます

    日本の若い人たち(高校生、大学生、20代から30代)に小坪先生のブログをみてもらいたい!
    そのためにも、拡散!拡散!拡散!します

  10. 花札大統領 より:

    生田署襲撃事件・直江津駅リンチ殺人事件・阪神教育事件等々…、
    「戦後」「朝鮮人」「事件」で検索しただけでも、終戦直後朝鮮人たちが日本で起こした数々の事件の名前が山ほど出て来ます。
    これだけの事件を起こしておきながら、彼らは反省や謝罪をするどころか慰安婦問題や徴用工問題をでっち上げてこれらの事件を誤魔化し、逆に日本に謝罪を求めてくる始末です。
    彼らには罪悪感というものがまるで無い。今朝の虎ノ門ニュースでもケントさんや北村弁護士が仰っていましたが、彼らはまさに「サイコパス」です。

    戦後日本に住み着いたサイコパスの皆さんには、早々にサイコパスの楽園である彼らの祖国にお帰り頂いた方が彼らもお喜びになるでしょうし、サイコパスの皆さんと結託して反日工作活動に従事してこられた左方面の皆さんには外患誘致罪による告訴で永久に反日活動が出来ないようにして差し上げるのが親切というものでしょう。
    我々日本国民は人に親切を施す事に躊躇はしませんよ。

  11. ミカンの実 より:

    統一するのなら、日本にとってもメリットは大きいですね。韓国に援助をしなくてすみますし、在日朝鮮人(在日韓国人)のみなさんも統一した素晴らしい国へ帰国できます。そして、拉致された日本人も帰国ということになれば、本当に本当に素晴らしい。日本国防衛費用は、今まで韓国へ援助していたのをそっくりそのままスライドさせればいいですし、スパイ防止法をきちんと制定していけば、国民もさらに安全安心。統一費用の援助はもちろん紐付きで。
    とにかく日本人は、大いに豊かにそして幸せになる事です。結局それが不幸を背負ってお亡くなりになった先祖に対する最大の供養になります。

  12. ミカンの実 より:

    訂正→統一費用は最低限度で、もちろん紐付き。一番いいのは無しにしてこちらが負った損害を計算して、賠償請求をする事ですかね? まぁ色々と見守りたいところです。

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