民主党政権における、ネット保守の戦い(激闘編)十二年前のあの日に始まった、一人の男の物語。

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古いエントリーになる。6年前に書いたもの。中川昭一先生の訃報について書いた記事の続きになる。
今回もうまくまとめることは、やはりできなかった。

もう干支が一回りするのか、麻生内閣が崩壊し、自民党が下野してから12年になる。
あの日、ネット保守は産まれたと言っても過言ではない。

いつか、あの日の思いを、しっかりと言葉にできる日は来るのだろうか。
自伝のごとく、昔話を詳しくしたことは、本ブログではないように思う。
少し振り返りたい。
赤旗撲滅作戦の際「左翼のほうは、私をよく知っている」と書いた記憶はある。

10月3日、中川昭一、急逝。
夜遅くのことだったのだろう、報道は4日のことだった。
12年前、我々はその訃報を知った。

12年前の、あの日。
泣き崩れたい気持ちを抑え、モニターの前。
私が目にしたのは、混乱する保守陣営、崩壊していく戦線であった。
崩れかけた仲間たち、その折れた心を支えようと、明るく気丈に振る舞う私がいた。

できもせぬことを、やれる自信もないことを。
大風呂敷を、何の保証もないのにぶち上げてみせた。
嘘でもいい、希望が欲しかった。
あの時、何もなかった。ただの一つも、一筋の光すらもなかった。

本当は、とてもとても、怖かった。
(無理とも思える目標を掲げたのだが、結果的には半分以上を達成することはできた。多くの方の協力のもとで。)

あの日、
12年前の、あの日。
ネット保守層において、中間管理職みたいな位置にいた私が何をみて何を思ったのか。
いまだ、言葉にすることは難しい。

そして、この12年の間に何があったのか。
徒然なるまま、書き散らしたい。
私にとっても必要なことなのだろうが、ゆえにこれはワガママの一種でもあるのだけれど、
きっと、これからの保守にとっても大事な歴史だと思うのです。

前編。

 

 

 

【日台友好緊急事業】台湾パイナップル(農林水産省検疫検査合格品)直販ルートの紹介

 

 

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(OGP画像)
minsyu

 

 

 

 

12年の間にあったこと。
今回は、私目線である。
自伝的な要素もあると思って頂きたい。

12年前、訃報が報じられた日。
中川先生を思うに、この12年を何と形容してよいかわからない。
激動のあの日を振り返る、良いことばかりではなかった。
むしろ悲しいことも多々あった。
失敗もたくさんあった、果たせなかった約束もある。

いまは。
ただただ、あの日々が懐かしい。

起きた出来事を、気持ちのままに並べ
論評をつけてみる。

 

 

 

12年前の出来事。
平成21年(2009年)、12年前のことである。

 

初春 ダボス会議とG7
2009年1月31日、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)
リーマンショックによる世界恐慌が予測される中、日本はこれを押しとどめることに成功。

2009年2月14日午後(ローマ)、G7。
中川財務大臣が、世界を救う。

この成果は、日本においてのみ報じられず、政権への打撃となっていく。

 

保守派の反撃
報じぬメディアに対し、ネット保守層は「伝える」という反撃を開始。
mixiで動画が貼れるようになったのが前年の冬だったように思う。
最新ツールであった動画による効果は絶大であった。

人数で言えば、現在のほうが遥かに多いのだろう。
当時はノイジーマイノリティに過ぎない。
ただし、あまりの危機的状況ゆえ、恐らくは私生活を犠牲にしたプロも多数戦線にあった。

以下は、歴史的大敗を喫する衆院選の前に公開されている。
麻生政権と、あの時、何があったか知らぬ方は是非、ご覧ください。

「危機をチャンスに変えろ」 (前編) ?G20サミットの舞台裏

本動画の後編
「危機をチャンスに変えろ」(後編) ?予算編成の舞台裏

 

夏 自民、歴史的大敗
平成21年8月30日、自民党、歴史的大敗。
麻生内閣はここに潰えた。

新自由主義に異を唱え、メディアと対峙した内閣が潰えた。
それは以降の自民政権において、同種の政策ができなくなった瞬間でもあった。

 

秋 政権交代
平成21年9月16日、民主党による鳩山内閣誕生。
報道の圧倒的な戦力の前に、保守勢力は敗退。
自民党は惨敗し、麻生政権は潰えた。

 

中川昭一、急逝
平成21年10月3日、再び立ち上がろうとした保守陣営は、完全に心が折れた。

 

冬 トラストミー
2009年11月13日の日米首脳会談でのこと。
(出典:鳩山総理の動き?日米首脳会談

数十年に渡る、汗と涙の調整は灰燼に帰した。
沖縄の問題は、あの時、暗礁に乗り上げた。

以後、普天間移設は迷走。
今もそのままだ。

政治とは連続性のあるものですからね。
ここの責任を問わぬメディアは、おかしいと思います。

 

 

 

11年前の出来事。
平成22年(2010年)、11年前のことである。
メディアが政権を守り、閣僚を倒しても打撃にならない謎の状況。
「どんなルールだよ!」と叫ぶ私がいた。

 

外国人参政権
政権交代を経て、最も警戒されたのがこれであった。
保守派は少ない陣営を率い、戦線を構築。
無理とも思える激戦の中、苦しい状況は続く。

これは、現在、立法不可な状態にある。
仮に自民党が政権の座を追われようとも、立法は不可能だ。
具体的には、総務省選挙課・あと確か内閣官房とのやり取りがあるため。
ただし、ネット上では検索不可だろう。

村田先生と共に省庁に要請活動、私も参加したのだが、答弁不能になる「法の矛盾」(官僚的に立法できない状況)に追い込むことに成功した。
検索不可と断定できるのは、その元ソースのテキストは、私が所持しておりアップしていないためwebでの閲覧が不可能。
(そのうち公開するかも知れない。)

 

春 口蹄疫
平成22年(2010年)、春。

ワクチンリング、殺処分。赤松氏の采配にはミスがあった。
のち誕生してゴリ押しされた韓国牛。

メディアは、これほどの事態にも関わらず
民主党を延々と持ち上げ続けていた。
ネットユーザーの心に鬼が棲み始めたのを感じた。

殺処分:29万7808頭
畜産関連の損失:1400億円
関連損失:950億円

 

秋 尖閣での後退
平成22年9月7日、中国漁船が海保の船に体当たり。

あれは仙石さんの時だったか。
勇気ある、愛国心ある、海上保安官を失う。

以降、東京都の買取り、国有化などなど。
様々な議論はあったが、結果的に対CHINAの交渉は大きく後退。
いまだにその影響下から脱出できたとは言い難い。

ネットは、その場では一色を褒め称えたけれど。
祭りの終わった縁日の寂しさというか、熱しやすく冷めやすいというか。
支持は、やはり瞬間的なものにとどまったな、それを寂しくも思う。

 

菅内閣、発足
平成22年(2010年)、9月17日。
菅直人が第94代内閣総理大臣に任命された。

民主党政権は、「故人」献金や(親からの)「子ども」手当が顕在化。
支持率は急降下し、鳩山降ろしに発展。

民主党の内紛、麻生降ろしを見てきた保守陣営は「これで倒せた」と安堵した。
管直人にバトンタッチ。
今思えば、暗黒時代の始まりだった。

 

尖閣請願、開始。
平成22年10月16日、尖閣の請願を開始。
4本目か5本目の請願になる。

これは国会法に基づくものであり、現職国会議員の紹介が必須であった。
いま思えば、よくもこれだけの事務所に話を通せた(相当に組織化して動いていた)ものだと不思議に思う。

先生方を納得させるだけの字句修正、現在の外国人扶養控除の意見書等のノウハウは、ここで実地で学んだ部分も多い。
(肩書は当時。最終的なもの。)

衆議院議員
北村茂男 (石川三区 衆議院議員)
田中和徳 (神奈川十区 衆議院議員)
新藤義孝 J-NSC初代代表 (埼玉ニ区 衆議院議員)
稲田朋美 (福井一区 衆議院議員)
古屋圭司 (岐阜五区 衆議院議員)
加藤勝信 (岡山五区 衆議院議員)
柴山昌彦 (埼玉八区 衆議院議員)
小池百合子 (東京十区 衆議院議員)
小野寺五典 (宮城六区 衆議院議員)
下村博文 (東京十一区 衆議院議員)
甘利明 (神奈川十三 衆議院議員)

参議院議員
島尻あい子 (沖縄選挙区 参議院議員)
山谷えり子 (全国比例 参議院議員)
大江康弘 (全国比例 参議院議員)
高市早苗 (奈良二区 衆議院議員)
佐藤正久 元一等陸佐 (全国比例 参議院議員)
熊谷大 (宮城選挙区 参議院議員)
義家弘介 (参議院議員 神奈川第十六支部長)
有村治子 (全国比例 参議院議員)
宇都隆史 (全国比例 参議院議員)
衛藤晟一 (全国比例 参議院議員)
鴻池祥肇 (兵庫選挙区 参議院議員)
岩井茂樹 (静岡選挙区 参議院議員)

【請願】尖閣諸島・沖縄への自衛隊配備と日米同盟強化を求める請願

私がロビイストとして率いた部隊は、立ち上がれ日本、日本会議とほぼ同時期に完成。速力においては、(小規模集団という)フットワークの軽さから既存政党にも負けぬ速さを誇った。

民間の政策シンクタンクには、速さも精度も負けたくなかった。
プロ顔負けと言わしめた、在野のロビー集団がそこに在った。

ネットとリアルの連携を訴え、政策と行政手段一本で、行けるところまで行く。これが私が訴えた内容。
本当は自信などなかった。大風呂敷だった。

リアルの政治に影響力を!
法に則った実力行使を!
集った仲間たちは、これほどの力を発揮した。
ネット上では、その実態を秘匿したままに。

 

冬 平成の壊国 ~ TPP
2010年 11月 13日 TPP「協議開始」を表明、「平成の開国」めざす=菅首相(ロイター)

菅内閣の「思い付き」から、本来の形と異なるTPPが出現。
儲かると踏んだ米国側より、現在とは違うアプローチや情報が多々もたらされる。

当時とは随分と形の違うTPPAだから、何がなんでも反対とは言わない。
台風が熱帯低気圧になったようなものだ、とも思う。
自民も難しい交渉を頑張ったのだろう。
ただ、賛成かと聞かれれば、私は新自由主義的な側面が強いため、今でもNOと言いたい。

 

 

 

10年前の出来事。
平成23年(2011年)、10年前のことである。
東日本大震災が起きる。
フジデモ・花王ショックを経て、ネットがメディアへの反撃を開始。

 

春 東日本大震災
平成23年(2011年)3月11日。
何もかにもが飲み込まれた日。

現実と思いたくないのだろう、映画のように別世界のことだと脳が受け入れない。
就職で東北に住んでいた私にとっては、見慣れた光景が沈んだ。

仮設住宅を韓国に発注、これは噂であったのか事実だったか。
地元雇用の創出にもつながる話で看過できなかった。
初期対応において、国道など主幹道路の計画に失敗。
いまだ被災地においては禍根を残す。

天災であったが、のち人災の色合いを濃くしていく。

 

TPP反対請願提出
平成23年7月26日 TPP反対請願(国会法)提出。
TPP反対請願提出のご報告(新世紀のビッグブラザーへ)

紹介議員
古屋圭司衆議院議員、高市早苗衆議院議員、西田昌司参議院議員、野村哲郎参議院議員、山田俊男参議院議員、衛藤晟一参議院議員

三橋さんの監修、制作著作は私。
いくつか請願は書いていたけれど、ダブルネームで準備したのは初めて。

 

夏 フジデモ・花王
平成23年8月7日 非公式デモ「散歩」
平成23年8月21日 フジテレビ抗議デモ

韓流ごり押しに対し、ネットが声を挙げる。
不買運動が、スポンサーを直撃する形で顕在化。
花王ショックとも言える現象が起き、コンプライアンス・ISOを盾にとった動きの最初期の動きとも言える。

この頃からか、報道の流れが少しだけ、変わる。
民主ゴリ押しから、世論の「民主っておかしい」の声に耐えきれず、報道による民主へのバリアが綻びはじめた。

 

夏の終わり 太陽光発電
平成二十三年八月三十日法律第百八号電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法

再生エネ法を最後っ屁のように設置。
いまだ日本を苦しめる。
本法は、8月30日のこと、自民が歴史的大敗を喫した日であった。

自然エネルギーのみの、綺麗な世界は。
ドラえもん等、アニメの中にしかない。
技術職であれば、いまだ人と共存するには早すぎる技術だというのは常識だと思う。

関連:
国民が知らない太陽光発電の実態??消防官の危険と出火リスク
国民が知らない太陽光発電の実態??水害時の危険性

 

初秋 野田内閣発足
平成23年9月2日 野田佳彦を第95代内閣総理大臣とする野田内閣が発足する。

あの管直人が退陣、今度こそ政権奪還か?と喜びに沸くも、そうはならなかった。
野田内閣へとバトンタッチ。

なぜ民主党政権を倒せない!
泣き崩れた者もいた、慰め励まし、戦線を維持。
陣営は疲弊は、すでに限界だった。

就任直後より、閣僚のスキャンダル。
発足より9日後、鉢呂経産大臣が原発事故に関連する不適切発言の責任を取って辞表を提出。
枝野さんが就任。

 

冬 徒労感とメディアの変化
民主のスキャンダルに対し、報道はやはり控え気味。
それをネットが延々と追いかける形。

倒しても倒しても。
どんなに閣僚を倒しても、金太郎飴のように次から次へと、さらにひどいものが出てくる。
あの時(麻生降ろし)のようなことは流れが「なぜか」起きない。

凄まじい数の閣僚を倒せど、報道のバリアもあり打撃とならない。
徒労感、疲弊。

フジデモ以降、少し見えた綻びが顕在化。
メディアが、民主党の批判を行うことが散見されはじめた。

 

倒しても、倒しても。
徒労感の続く日々。

限界だった、破断限界を超えていたように思う。
保守層の一部は、すでに心に鬼が棲み、動きは獣のようであった。
少なくとも私自身はそうであったように思う。

メディア側に綻び、必死の保守陣営。
戦線は拡大の一途、激戦は続く。
保守陣営の練度は最高度に達した。

 

 

 

あの日の、私。
私は、今年43歳の誕生日を迎える。
現在は42歳。

あの日、中川先生が亡くなったという一報を受けた際、
30歳であった。
ただの若者であった、むしろネットではDQNと言われても仕方ない人間であった。

29歳で市議選に挑戦、現職を抑える程度の得票を頂くも、届かず。
結果的に大量の死に票を産んだだけの、政治少年であった。

本当は、私だって逃げたかった、泣きたかった。
悲しかった、心に穴がぽっかりほげていた。
私だって、私だって、同じだった。

だけど、だけれども。
なぜか「できる」と思ってしまったんだもん。

曲がりなりにも上場企業に勤め、書類作成に埋もれた日々。
リアルに活かす、行政手法、あとは商談の延長と同様「なはず」だ。そう自分に言い聞かせて、信じ込むしかなかった。
全ては学びながら、無理やり進めたものだ。

逃げなかった理由、、、
それは、走り屋という、狼の群れにも似た小規模集団の頭を長らく務めていたからかも知れない。
いま退いてはダメだ、誰かが支えないと本当に終わる。
直管的にそれだけはわかった。

12年前のあの日、30歳の小坪しんやが涙した日。
政権交代はなされてしまった直後。
民主党政権が誕生、迫りくる外国人参政権。

麻生選挙の大敗は、保守陣営に凄まじい衝撃を与えた。
特に精神的なものは凄まじく、ショック症状と言っても過言ではない。

麻生選挙に全力を投じ、「これで終われる」と思っていた者は、泣きくずれ、真っ白になり。
自暴自棄になる者を押しとどめ、恐慌状態を落ち着かせ。

疲弊しきった仲間たちに、
「今から、四年間、私たちが日本を護る覚悟を持たねばならない。」
私は、残酷な言葉を吐くしかなかった。
本当は言いたくなどなかった。

民主党の分析を行い、体制を整えようとしていた矢先であった。
中川昭一の訃報が飛び込んできたのは、まさにそのタイミングであった。

英雄の喪失。
これはミッドウェーで艦載機を満載した空母が、敵機直上急降下からの、艦載機が誘爆していくに近い状況であった。

寸断していく戦線。
混乱、怒号、悲鳴。
保守活動自体をやめようとする者も多数。
もともと戦力など足りていない、一人抜ければ崩壊する戦線も多数。
そして補給などなく、指示もなく、援軍もなく。

どこにも希望なんてなかった。
嘘でもいい、希望が欲しかった。
あの時、何もなかった。
ただの一つも、一筋の光すらもなかった。
私が見た世界、まるで焼け野原のようだった。

あの日、私はウソをつきました。
できもせぬことを、やれる自信もないことを。
大風呂敷を、何の保証もないのにぶち上げてみせた。

中川昭一という存在の喪失。
崩れゆく戦線を前に、「私がなんとかする」「これより指揮を執らせて頂きます」
「大丈夫、我に策あり!」

そううそぶいた私は、実はノープランでした。
(無理とも思える目標を掲げたのだが、結果的には半分以上を達成することはできた。多くの方の協力のもとで。)

12年前の10月4日。
中川昭一という希望を、私たちは失いました。
代われるはずもないけれど、せめて小さな光になろうと誓った。
それがイミテーションだとしても。

嘘付きになる覚悟をもって、罵られることを覚悟して
小さな旗を掲げ続けた。
誰かの光になりたかった。

泣き叫びたい気持ちを抑え、半泣きになりながら
「大丈夫、大丈夫だから」「共に、立ち上がれ!」
そうキーボードを叩いた30歳の私がいました。

鼓舞し、支え、走り回り、連絡をとり調整し。
駆けずり回った日々。

とても、とても怖くて、
本当は逃げたかった。
これが12年前の、あの日、私が見たものです。

私だけじゃない、各所で多くの人が、様々なものを捧げ
それは時間だけでなく人生そのものを特攻させるようなやり方で。
そうやって今の、保守陣営は構築されていきました。

激動のあの日を振り返るに、
良いことばかりではありませんでした。
むしろ悲しいことも多々あった。去った者もいる。
失敗もたくさんあった、果たせなかった約束もある。

今は、ただただ全てが懐かしい。
もう泣いてもいいのかな、本当は怖かったって、言ってもいいのかな。
毎年、この日はそれを自らに問う。
そして「まだだよ」って、尊敬する政治家が笑うんだ。

 

 

明日の後編に続く。
残りの三年間。
保守の反撃と、実りの年。
いまの私に至るまで。

12年前、こんなことになるなんて、想像もつかなかったな。

 

 

 

 

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コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)

  1. 櫻盛居士 より:

    **********************************************************************
    共産党は2016年9月13日からの警告を無視し続けましたね。
    ならば、下記は決定事項と承諾したものと見做します。

     ・『テロを利用する共産党』
     ・『テロリストの味方である共産党』
     ・『テロに屈する共産党』

    **********************************************************************
     
     
    早、12年・・・。
    どうも、歳を取ると何もして無いのに、歳月の流れが早く感じます。
    まぁ、12年前には、既にその様に感じて居りましたが・・・。
    但し、2009年から2012年の約3年間は、やたらと時の経つのが長く感じたものです。

    あの約3年間の閉塞感と来たら、半端ないものでした。

    外国人参政権が現在は立法不可にして頂いた様ですが、その後民主党が何をしようとしたかを忘れる事が出来ません。
    外国人参政権が無理なら、「外国人を、日本人にしてしまえ」と動き出したのです。
    国籍法の改悪に向けて、頑張り始めた訳です。

    兎にも角にも、日本をズタボロにする事にかけては有能な政党で、アレを阻止すれば次はコレとばかりに、次から次へと碌でも無い政策や法案を出して来ました。

    野田内閣が閣議決定した、人権委員会設置法案なんてのは最たるものでした。
    この法案は、人権擁護法案→人権侵害救済法案→人権委員会設置法案とネーミング・ロンダリングを繰返して来たゾンビ法案で、反日勢力系の部落解放同盟だけでは無く、自民党と友好関係にあると言う自由同和会も推進する有様で、人権擁護委員に国籍要件は無いは、報道機関等による人権侵害については特段の規定を設けない方針としたり、よくもまあ、こんな法案を出しやがるなと感じたものでした。
    この法案が可決されたら、本当に日本は終わると、みんな理解して居ました。
    そして、この法案が可決後に有効性を帯び始めたら、覚悟を決めなければならないのかもと言う、一種の悟りの様なものも一部では醸成されつつありました。

    あの頃の保守層は、みんな殺気を帯びて居たのを今でも覚えて居ます。

    もー、その他にも細々と、兎に角いらん事をする政党で、民主党政権が誕生する迄、札幌国税局根室税務署の課税台帳に記載のあった南樺太と千島列島全島を、「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例」「財務省組織規則の一部を改正する省令」を改悪し、事実上勝手に削除したりもしてます。

    本当に日本人を苦しめる為にだけは精力的に尽くす政党で、あの暗澹たる思いは若い人には味あわせたくありません。

    • 波那 より:

      人権擁護法と外国人参政権は小沢一郎の長年の執念。夢でした。小沢の母親の墓は済州島にあったと聞いて、あ〜なるほどねと思ったものです。中でも小沢の大罪は陛下の御発言を利用して百済の姫の事を殊更に言い立て皇室が朝鮮人と所縁があるかのように日本人に思わせようとした事です。今半島に居る李氏朝鮮人は百済や高句麗の古代朝鮮人を滅ぼした民族なのに、何らの継続性もないのに。

      • 櫻盛居士 より:

        一般的には長引く不景気の方が深刻だったですね。

        『民主党ショック』とか『民主党恐慌』とか、名付けた方が良い位です。

        その他にも消えた年金で、年金追加支給額の約2倍の経費を浪費したり、派遣村なんてのもありましたね。

  2. 波那 より:

    中川さんは素敵な方でしたね。あの屈託のない笑い顔、男の色気があって爽やかで惹きつけられる政治家でした。あんなにも酷いバッシングされて、押し潰されるような思いで亡くなられた事を思うと悔しくて堪らないです。雲の間に中川さんが立たれている合成写真に「お前ら、日本を頼んだぜ」とスクっと立たれている姿を見ると、あっそうだった、私達は中川さんに日本を託されたんだったと、道半ばで逝かれてしまった中川さんの思いを偲びます。

    外国人参政権と言いますが要は参政権を狙っているのは在日の朝鮮韓国人ですよ。民主党が政権に就いた時、中には50人くらいの帰化人議員が居たらしいですが、あの政党は完全に特亜の為に、特亜に日本の富を差し出す為、在日朝鮮韓国人に日本を乗っ取らせる為の政党でした。あの時のスヒョン文書などで、あからさまになった在日朝鮮人の狂喜に乱舞、韓国ではイ・ミョンバクが竹島に上陸し、天皇陛下を侮辱する発言をし、日本乗っ取り宣言をしましたから。

    北朝鮮の復興は心配ない。日本にやらせるのだ。私が全てのカネを出させる。
    我々はすでに日本を征服しているからだ。やつらの金は我々が自由にできる。
    日本の連中は何も知らない!
    フジテレビが証拠。日本人はよだれをたらして見ている。
    私にまかせろ。日本にいるのは私の命令に忠実な高度に訓練された。私の兵隊だ。

    (注:「よだれをたらして」というのは、もちろん「犬のように」という意味)
    ………………

    ソフバンの犬CMに使われてる俳優も在日らしいですね。

    在日朝鮮韓国人は、元はと言えば戦前からの出稼ぎと密入国で不法に入国した密航難民でしかありません。自国民を引き取ろうとしない韓国政府に押しつけられたままで、当人達も自主帰国をしないからと置き続けて来た結果が、参政権をよこせと言うまでにさせてしまいました。もう強制連行で日本に連れて来られたの大ウソも悉く暴かれ、終戦後の日本各地での凶行、蛮行の加害者でしかない民族なのも知られています。奪われた土地も全国各地のパチンコ屋の土地だけでは有りませんね。民主党政権は文字通り悪夢の政権でした。ヘイト法とか…在日はまだ被害者のフリしてられると思ってるみたい。被害者のフリして日本にしがみつこうとしている。

    ところで貸してやった金を返さない韓国に直接貸してやるのをやめ、IMF を通すようにされたのは中川さんらしいですね。IMFの取り立てからは逃げられませんから。日本に見限られた韓国はもう、お終い。今や世界最速で借金を増やし続けてる国になったそうです。

    • 常磐本線 より:

      >ソフバンの犬CMに使われてる俳優も在日らしいですね。
      皮膚の色が黒井アフリカ系の方を出しているのも意味があるんでしたよね・・・・・
      ここに集う諸氏は既知でしょうが。

  3. 氷河期の隙間世代 より:

    台湾のTSMC問題は大樹総研の矢島義也にたどり着きつつあります。

    矢島氏は政界と官界のタニマチとして絶大な影響力を持つロビースト。

    大樹グループは政界と官界に人脈を張り巡らし「口利き商売と補助金ビジネスを売り物にしている」ことで有名。

    あまりにも大物なため小坪さんが安易にTSMC問題に口を紡がざるを得ない理由が分かったような気がします。

    TSMC(台中マフィア)と矢島氏の関係を紐解く必要があります。
    TSMCは日本の補助金と半導体技術、矢島氏は台中利権で繋がっているのかもしれません。

    https://t.co/FBwxKr9fq1

  4. 波那 より:

    長くなりますが、中川さんの功績を偲ぶ記事です。

    🔻中川昭一の功績~IMFへの融資や拉致問題 生きていたら総理だった?
     https://topic-show.net/politician/4412/
    2020/6/10

    中川昭一氏が亡くなって10年以上経過しました。

    中川昭一氏というと、2009年(当時、麻生内閣)のG7記者会見が大きく取り上げられ話題となりましたが、会議の中で中川昭一氏は大きな功績を残していたのです。政策通と評価されていた通り、個人的にも彼は素晴らしい政治家と思っていました。改めて、素晴らしい方を失いましたね。

    中川昭一氏が生きていたら、総理大臣になっていたかもしれません。

    出典:http://hoppojournal.sapolog.com/e245273.html

    【目次】
    1 IMFへの融資で功績を残した中川昭一
    2 拉致議連会長も務めていた
    3 生きていたら総理になっていた可能性も

    🔸IMFへの融資で功績を残した中川昭一

    2007年のアメリカ合衆国の住宅バブル崩壊をきっかけとして2008年に起きたリーマンショック。そんな中で、中川昭一氏は10月に先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議に出席した際にIMF(国際通貨基金)に新興・中小国向けの新たな緊急融資制度を設けることを提案しました。この緊急融資制度は「中川構想」とも呼ばれています。

    この「中川構想」に基づく制度は各国から高い評価を受け、実際に救済された国があります。ウクライナ、ベラルーシ、パキスタンが、緊急融資を受けることで救済されたのです。

    そして、2009年2月13日。中川昭一氏(当時、財務・金融相)は日本政府が表明していたIMF)へ1000億ドルの融資を実施する合意文書に正式に署名しました。1000億ドルは、日本円にして約9兆2000億円です。

    これがまさしく例の記者会見が話題となったG7での出来事。結局、会見時での様子ばかりが報道され、肝心のG7で何が行われたのかがあまり報道されていませんでした。しかしこの時、中川昭一氏はとてつもない国際的貢献をしていたのです。

    このIMFへの融資というのは、簡単に言えばIMFが経済危機に陥った国への支援を後押しするのもの。これだと、国が多額のお金を国家予算から寄付したと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、厳密にはそうではありません。

    中川昭一氏は、IMFに対し「日本は、自国の外貨準備(米国債)を使って、IMFに融資する用意がある」と通達しました。一方、当時の首相・麻生太郎氏は「IMFが市場で資金調達をするための担保として米国債を提供し、日本政府は財政負担なしに利益だけを得られる」と説明しています。

    これは、米国債をIMFに貸し付けたということ。つまり、融資をしたのは9兆2000億円ではなくあくまで1000億ドルということです。

    このIMFへの融資に対し、IMFのストロスカーン専務理事は「人類の歴史上、最大の貢献だ」と称賛。しかし、この部分もきちんと報道されないまま、結局辞任へ追い込まれました。

    ですが、後にアジア経済研究所・国宗浩三氏は、「G7以降、日本の提案を受けて いくつもの改革がIMFで実現した」と当時の麻生政権を評価していました。そして、「これには担当した財務官僚や当時財務大臣の 中川昭一さんの功績があったことと思います」とも発言。

    辞任以降に取り上げたものの、結局在任時は会見ばかりが話題となってしまった中川昭一氏。ですが、彼はIMFへ融資をしたことで、IMFの改革実現に海外への支援を日本の財政負担なしに実現させたのです。

    🔸拉致議連会長も務めていた

    日本人が北朝鮮に拉致されたことは、日本人なら周知の事実ですね。2020年6月5日、拉致被害者である横田めぐみさんの父・横田滋さんが老衰のためお亡くなりになりました。

    結局、めぐみさんとの再会を果たせないまま天国へ旅立たれてしまいましたが、拉致された方の中では帰国された方もいます。2002年10月15日に帰国された蓮池薫さん、祐木子さん(旧姓奥上)夫妻、地村保志さん、富貴恵さん(旧姓浜本)夫妻、曽我ひとみさんです。

    この当時、拉致議連会長を務めていたのが中川昭一氏でした。

    これだけでも大きな功績ですが、もう1つ重要な仕事をしました。歓迎会のスピーチのためその場を後にした中川氏は同じく拉致問題に取り組んでいた西村真悟議員にカメラを渡しました。帰国した拉致被害者を乗せた飛行機の中にまだ誰か隠れていると確信していたからです。

    中川氏からカメラを渡された西村氏はそこで待機。すると、中川氏の予想通り、2人の男が出てきました。その男らの正体は拉致被害者を連れ戻そうとついてきた北朝鮮の監視役だったのです。

    西村氏はその二人を写真に撮影。それを受けとった中川氏は、2人の顔写真とその人物についての説明文をマスコミ各社に送りました。

    2人が宿泊していた銀座のホテルにはマスコミが集まり、隠密行動ができなくなった2人。結果、監視役の2人は被害者を再び拉致することなく北朝鮮に帰ったのです。

    もし中川氏が監視役の存在に気づかず、帰国した時点で安心していたら再び拉致されていたでしょう。それどころか新たな被害者が出ていてもおかしくありませんでした。

    横田めぐみの帰国を待たずに滋さんが亡くなられてしまったのは残念ですが、監視役を帰国させた中川氏は非常に大きな功績を残したと思います。

    生きていたら総理になっていた可能性も
    中川昭一氏が生きていたらなぁ、といつも思う…

    間違いなく総理だったと思うし、間違いなく日本は踏みとどまる事が出来てたと思う

    だからこそヤラれたんだと思う

    奴らにとって脅威だと思われたのだろう…

    あー😭悔しい pic.twitter.com/ZhPMk99zcF

    — 🇯🇵ふむふむふむふむ2 (@JvuqXPBWXkj3BMM) March 13, 2020

    円盤人@怪談系YouTuber
    @enbanjin
    中川(昭一)さんがもし生きていたら、財務大臣か金融大臣をやって、麻生さんの激務も和らいでいたかもしれないが、ようよう考えれば、その場合中川さんが最も就いていそうなポストは「総理大臣」だ。
    午後9:11 · 2013年1月3日

    例の記者会見もあり、2009年8月の第45回衆議院議員総選挙で中川氏は落選してしまいました。そのわずか2か月後の10月4日、東京都内の自宅で急逝してしまったわけですが、もし中川氏が生きていたら総理大臣になっていたのではないかと思います。

    もちろん再び当選すればの話ですが、生きていたら再び政治家へ復帰していたのではないでしょうか。

    2009年は例の会見があった年だったため落選してしまいましたが、スキャンダルは時間が解決してくれるものもあります。よって、2012年の第45回衆議院議員総選挙で当選できれば第二次安倍内閣で財務大臣に復帰していた可能性もあります。

    生きていたら…というのはたらればに過ぎません。ですが、生きていたら更なる功績を残したことは間違いないでしょう。

    コロナ不況がリーマンショック超えとなる可能性も懸念されている昨今、もし中川昭一氏が生きていたら…何か違っていたかもしれない。そう考えると、56歳という若さで亡くなってしまったことはとても残念です。

  5. sana より:

    民主党は、外国人参政権と人権擁護法案推進を隠していませんでした。
    それなのに、日本の有権者は子供手当他に買収されて民主党を選択しました。
    国のことより、自分のふところを潤すことを優先したのです。
    その卑しさに絶望的な思いでした。

    それ以前、わたしは自費でネットから、外国人参政権反対のビラを購入し、
    ある文学研究会で配布したことがあります。
    そのとき、かなり年輩の男のかたが、一読するなり
    「これはたいへんな問題ですよ」と言ってくださいました。
    わかってくださる賢明なかたがやはりいらっしゃるとうれしくなりました。
    たいていの人は、国家存亡につながる大変な問題だとピンとこなかったのです。

    中川昭一さんをはめてアメリカに高跳びして逃亡した
    読売新聞の越前谷知子のことは生涯忘れません。

    中川昭一さん、中村燦先生、渡部昇一先生のことはわすれません。
    訃報をきくたびに身を削られる思いでした。

  6. […] ← 民主党政権における、ネット保守の戦い(激闘編)十二年前のあの日に始まった、一人の男の物語。 […]

  7. ほねなし より:

    リーマンショック、IMF融資その後。何故解散のタイミングを逸したか。

  8. 大保守(柏城耕介) より:

    悪夢としかいいようのない民主党政権に対する事実を突きつけても現政権および
    安倍政権よりましだなどと巫山戯た主張すら目にするものはありますしそれを
    認めなければレイシスト認定してアカウント剥奪する、みたいなことのどこが
    自由なんだというものもあり人生辞めたくなるものしかありませんけど自民党
    自体よくも悪くも多様性はあるため結果として現政権も親中派の二階の傀儡に
    されていたりセクシー小泉みたいな頓珍漢な大臣も出てくる始末だといえます。

    そんな実態に目をそむけているような存在も多数いるどころかフェイクだ陰謀論
    だなどと面白半分に真剣味の欠けるような発言も多数見受けられることはある
    ため多勢に無勢で劣勢に感じられてなりません、そういった存在も幅を利かせて
    いることに対して指を咥えて眺めるか座して死を待てというものしかないの
    でしょうか…

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