「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言がある。
いま有事すら警戒せざるを得ない情勢下において、私たちがなすべきは過去に学ぶことではないだろうか。
日本人なら知っておくべき、戦後動乱時の状況です。
朝鮮半島からの引上げにおいて、どのような悲劇を日本人は受けたのか。
有事勃発のリスクが高まる昨今、紙媒体で綴られた当時の情勢を振り返りたい。
これは令和の世の私たちに託された、
先人たちの、戦中戦後世代からの贈り物です。
(前篇)
【過去に学ぶ有事の民間被害①】日本人なら知っておくべき、引上げ時の被害~先人の財産
こちらは出版物をweb検索より資料化、amazonのリンクをもってISBN等の書籍情報を出典として掲示したエントリです。
※ 本記事は2015年5月20日が初出、2017年4月18日に再掲したものの再投稿になります。
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(OGP画像)
私の三十八度線突破記録
福岡県 梶山緑
ある日私は、週に一回通っている病院の待合室で、順番がくるまでの時間つぶしに何気なくテーブルの上にあった、「TVガイド」をめくっていた。その時、稲妻の如く私の目に入ったのが、NHK特集の「北鮮紀行」という番組が放送されるという記事だった。まだ数日先のことだったが、それからは気持ちの落ち着ない時間を過ごし、その日、その時間の来るのを異常な期待感を持って待っていた。
そしてその番組を、はやる心を抑えながら食い入るようにして見た。家族の者にも見るようにと言って、TVの前に集めた。
最初の画面には、現在の北鮮と中国との国境地帯を流れている鴨緑江の様子が出た。五十数年前のあの悲劇の数々を生じたことなどは、どこのことと言わんばかりに、両岸の大地を抱き抱えるようにして、昔と変わらない雄大な流れを見せてくれた。それだけを見ていても、私の胸は高鳴ってきた。次いで画面には、白頭山の姿が映し出された。そして石川、福井、富山の各県に跨りそびえ立ち、北陸の屋根といわれている白山とのかかわりや、類似点を対比しながら語るナーションが、私の過去を掘り起こすような感情にさせた。次いで金剛山の遠景、近景であった。金剛山は、全朝鮮人の信仰の聖地であるとしてその幽遠なたたずまいが映し出された。
そして心の中で期待していた、古城の開城の名が流れたころから、画面を見ながら涙が流れていた。あの苦しく、悲しかった、避難生活を体験した者にとっては、あまりにも悲惨な思い出しかない国境地帯のイメージと、映し出されている現在のそれとは、別世界のことのようにも思われてきた。画面には、李王朝時代の華やかな歴史を偲ばせるように古都の風景が次から次と映し出されていた。
五十数年前の出来事は、まったく認識外のことのように思われ、何ともいいようのない寂しさと悲しさに襲われて、そっとTVの前を離れた。
戦後、朝鮮半島三十八度線の国境といえば、小学生でもすぐに板門店と答えるように、板門店があまりにも有名になってしまった。私の頭の中でも、国境の町、開城という名はだんだんと薄れ去っていた。そんなときにNHKが再び呼び起こしてくれた。
それからしばらくの間、私の頭の中では、「北鮮紀行」が、五十数年前の出来事と重なって映し出されいた。
長かった冬の眠りから四囲の万物が、ようやく目を覚まし始めた昭和二十(一九四五)年の四月に、父の仕事の関係で、朝鮮咸鏡南道文川郡文坪という町に一家は引越してきた。文坪は元山の郊外にある工業地帯で、住友系の工場が群立していて活気のある町で、日本人も多く、治安も良好で生活しやすいところだった。
もうそのころになると、内地ではあちらこちらの都市は、B29爆撃機による無差別の爆撃で焼土と化しているというニュースが伝えられてきたが、それを聞いてもよそ事のように聞いているくらい平和で穏やかな毎日だった。
食糧品も比較的に豊富で、「内地の人は、かわいそうだね!」と、家族で話し合っていたほどであった。
また、永興湾に面した良好な海辺でもあった。海岸は遠浅で押し寄せる波も静かで、白砂青松が続いていた。甘い香りを発散するフリージアに似た草花や、河原ナデシコなどが咲き乱れていて、乙女心を十分に満たしてくれる景勝の地でもあった。
あの大戦争の、しかも戦局が次第に悪くなってきているときに、どこで戦争をしているのかと、まったくよそ事のような気持ちの毎日で、八月十四日までの四カ月を過ごしていた。
しかし、それでも厳しい世相はじわじわと押し寄せてきた。文坪での穏やかで、平和な生活にもかかわらず、戦況は日一日、一日と悪くなっていた。元山に近い葛麻半島に飛行場が設営されて、陸海軍の飛行機が飛び交い、兵隊さんの姿も多く見受けるようになってきた。
元山市内では、万が一に空襲があったならば、被害を少しでも少なくするために、鉄道線路の沿線にある建物や住宅の密集地の家屋が、強制的に取り壊されるようになってきた。
そのうちに、文坪でも防空壕掘りが始まり、米軍機による偵察行為も行われるようになってだんだんと周は騒々しくなってきて、前途を心配するようになった。内面的にはそれでもまだ、穏やかでのんびりした日常生活を続けていたが、それも八月十四日までのことだった。
八月十五日を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、行く先の運命はだんだんと暗くなっていった。
八月十五日、終戦の詔勅も雑音がひどくて、天皇陛下のお声が大きくなったり小さくなったりしてはっきりと聞きとることができず、内容も理解できなかった。しかし、午後になって町中のあっちこっちから沸き起こってきた、「ジョソンドクリツマンセイ、マンセイ」と言う、現地人の叫び声でやっと事態を改めて認識した。
これまで見たこともなかった太極旗や赤旗を振って、口々に叫び声を上げていた。敗戦により、国家としての権威が一瞬にしてなくなったことをしみじみと実感したし、遠い異郷に放り出されてこれからの生活がどうなるのだろうかと考えると、頭の中は真っ白になっていた
文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激派分子の跳梁が始まってきた。元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。
私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一カ所に集め、集団生活をさせることとなった。二世帯か三世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。
態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。
そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪しはじめた。そのうちにめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。
私たち若い女性は、頭髪をぶっつりと切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して堀った穴に身を潜めた。ときには敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家にかくまってもらったりもして難を逃れていた。
こんなに恐ろしいことになったのも、それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。
命を削り取られるような不安におののく毎日であった。男の子のような姿になっていても、顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。
私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。その手口は、まず門を自動小銃の台尻でドンドンとたたき壊し、そこから長靴を踏み鳴らしながらドヤドヤと乱入してくるので、この音を聞くと男の子の姿をした女性は、何をしていても、台所の床下にある食糧品貯蔵庫に入って息をひそめている。しばらく彼らは室内を物色していてめぼしい物が見付かると歓声をあげながら出て行く、期待していた物がないと室内を銃でたたきながら、靴で激しく床を踏みつけなら大声を出してわめき散らして出て行った。ひどいきには銃を上に向けて二、三発撃ちながら退去して行った。出て行く様子を床下で知ると、ほっと胸をなでおろしてはい上がった。
ソ連兵は、時計やカメラや貴金属を一番欲しがっていた。中にはいくつも腕に時計を巻き付けている兵隊もいた。
そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪地区にもやってきた。十数日間、食べる物も食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。
しかし、文坪地区でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。
九月の中ごろだったと思うが、自動小銃を構えたソ連兵に両側から監視されながら、日本軍の服装をした長い隊列が北に向かって歩いて行くのに直面した。付近にいた日本人が集まってその隊列を見送ったが、その中に肉親の姿を見付けて声を出して泣き叫びながら一緒に歩いている家族もいて、顔を背けたくなるような情景もあった。この隊列はシベリアに連れて行かれたのだろうか。
こんなことをしていては、一家みんな犬死にになってしまうということで、父は家族を内地に帰す決心をした。地元の親しい朝鮮人に頼んで母と子供四人の朝鮮服を縫ってもらい、それを着て朝鮮人になりすまして列車に乗るという筋書の脱出計画をたてたが、この脱出計画がどうしてか保安隊に漏れてしまった。だれかが密告したのかどうか分からないが、保安隊によりすぐに家宅捜査が行われてめぼしい衣類などを持っていかれてしまった。もちろん父は、保安隊事務所に連行された。私たち家族は今更の如くに後悔をしてしまった。こんなことで父は殺され、残された私たち家族は今より一層惨めな生活を強いられることを考えると、脱出計画を思いとどめさせるべきだったと母は嘆き悲しんでいた。
父は、保安隊事務所で数日取り調べが行われ拷問も受けていたようだったが、朝鮮服の縫製を頼んだ知人が親身になって弁護をしてくれたおかげで、ようやく釈放されて随分と弱った姿で帰ってきた。それでも殺されずに五体満足で帰されたので、家族一同、手を取り合って無事を喜び涙を流した。
秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵との行動に一喜一憂していた。各家のめぼしい財産も底をついていたので略奪行為は幾分下火となったが、時計探し、貴金属探しは熱心だった。こっちもほとんど出してしまったので気が楽だったが、それでも彼らはどこかに隠しているのではないかと疑いの目をもって探し回っていた。
あるときは、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後三時までに、駅前広場に身の回りの最少限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した。
大人も子供も、自分の体に合ったリュックサックの中に、当座必要な衣類や食糧を詰められるだけ詰め込んだ。いままで重たい物をあまり持ったことのない私なので自分のリュックサックを背負う練習もした。重いリュックサックを背負って立ちあがるとすぐに後にひっくり返ってしまう。少しでも多くの荷物を持って行こうというので詰められるだけ詰めているので重くなり過ぎるのだった。これでは駄目だと背負って歩けるぐらいに少しずつ出したが、背負ってちょっと楽だと思うとまた少し詰め込む、するとまたひっくり返ってしまう。こんなことを繰り返しながら出発準備をした。泣き笑いの状況だった。
両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。もう帰国することだけが頭にあった。
元山駅に向かって歩き出した。ナチスドイツがユダヤ人を相手に行った残虐行為の映画を見たが、あのホロコーストへの道に向かってユダヤ人が延々と列をなして歩いている様子とまったく同じで、あの映画を見たときに五十年前のことが昨日のことのように思い出されたものだった。
数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。しかしここで座り込んでいてもどうにもならないので、お互いに励まし合って、また元の道をトボトボと引き返して家に戻った。
戻ってみてびっくりした。家の中がひっくり返ったように荒らされていた。タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。
実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。そのうえに今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が押し込められてしまった。リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった。こんな偽の命令で数回も歩かされて、今度こそは本当に日本に帰れるかと、その都度、夢と希望を持って家を出たが、すべてそれは無駄であった。布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。
激寒の冬になると、集団生活をしている者のなかにも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次と死んでいった。虱のたかることは、秋が深まってくるころから心配していたが、消毒する方法も無く下着の着替えもできなくなり、虱は繁殖し放題だった。発病すると高熱が出て一週間ぐらいで死んでしまう。薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。
ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人のなかには自ら死を選んだ人も多かった。
このまま、ここで越冬していては座して死を待つばかりだと考える人もあった。少人数でグループをつくり、夜陰に乗じて収容所から脱出して、元山に向かって逃げたグループもあったが、大半は途中でソ連軍に捕まってしまい、他の所に連れていかれたとのことだった。ほんの少数のグループが無事に元山にたどり着き、東海岸から小舟を雇って南下したようだった。
死者が出ても葬式をだせるはずもない。文坪には町外れに戦前から火葬場はあったが、使えず、その周辺には何体もの遺体が置きっぱなしになっていた。なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た。体の動ける者が交代で火葬場の横に、深さ一・五メートル、幅二・五メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘に付した。家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ悲しく、かつわびしい有様でした。鼻をつく異臭が町中にまで風で流されてきて、残っている人々もただ、明日は我が身の上かと思い涙も出なかった。
風倒木は火力が弱いので、次々に薪を放り込んでも遺体は完全には灰にならなかった。どうにか原形をとどめないぐらいに焼けるのが精いっぱいだった。保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。付近には、あちらこちらに新しく土が盛られていた。いわゆる土饅頭という墓である。火葬ができずに、ただ穴に放り込んで埋められた遺体が多かった。火葬をされた人はまだよい方ではないかとも思った。
満州の方から脱出してきた人の話によると、避難行の途中における死者の大部分は、そのままの状態で置き去りにされたか、川に流されたか、どちらかの方法で処分されたそうだ。その話を聞いたら文坪で火葬にされた人は、まだ人間扱いでよい方だったと思った。
昭和二十年の暮れになると、文坪地区の残留日本人もようやく諦めの心境になり、日常の生活にも慣れて落ち着いてきた。このまま個々に、ソ連軍や保安隊員といろいろ交渉をしていても、何も得ることがなく無駄だということになり、日本人世話人会をつくり代表者を選出し、いろいろな交渉・要求をソ連軍の代表者、保安隊の長などにぶつけることとなった。その代わりにソ連軍側からは、住友工場等に残置されている工作機械や各種の設備を、ソ連本国に運び出すための作業員の差し出しの要求があった。
毎日、男性は作業に駆り出された。作業はソ連兵の監視のもとに行われた。重労働であったが作業が終わって帰るときには、多少の食糧品や賃金ももらえたので、それで必要品を買うこともできて、最低生活を維持することとなった。
日本に帰れる日までは、何とか生き延びようとお互いに励まし合い、助け合いながら働き、昭和二十一年の正月を収容所で迎えた。
そのころになると、満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難して来る人が増えてきた。文坪地区でも、寺や学校などに集団収容され、さらにここから三十八度線を突破して南下するために、体力の回復を図る目的で、しばらくとどまる人々が増えてきたが、風呂に入ることもならず、着替えがあるわけでもなく、それこそ真冬だというのに着の身着のままの姿で収容されていた。私たちも気の毒に思っていたが、どうにも助ける手段がなかった。
相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどりついたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。
ここで少しでも体力の回復を図り、南下を試みるのであるが、これから先も半分以上が山道なので、早く日本に帰りたいという気持ちはあっても、力が沸いてこないという避難者も多く、収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。
それからは、何日となく計画を立てては直し、直してはまた、新しい計画を作り、やっと綿密周到な、「集団脱出計画」が完成した。決行日は、昭和二十一年四月三日の夜と決定された。その夜のことは余りの緊張により頭の中に入らなかったのか、記憶がほとんど薄れてしまい、今になっては思い出せなくなった。
三十八度線以北からの日本人引揚者は、満州奥地から避難してきた人たちより、ある面では苦労が大きかった。それは、満州からの引揚げは昭和二十一年の春、葫蘆島からの正式な引揚げが始められたが、北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行われていない。命からがら三十八度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって三十八度線という関所を、ソ連兵や保安隊員のすきをみて突破・脱出してたのである。
それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まって送り返されたりしてしまった。いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。
元山から多額の金を払って舟を雇い、集団で脱出しようとしたが、途中の三十八度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。それこそ死を覚悟しての三十八度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。
私たちの脱出グループは七十人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。以前、保安隊にだまされて何度も歩かされたころのリュックサックの重さに比べると、半分ぐいしかなかった。それでも今度は、三十八度線を突破するという気持ちの張りで、ずしりと肩にかかっていた。
ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した。全員がそろったところで、日本人世話会の指導者から、改めて脱出計画について細かい説明があり、注意事項が示された。闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。三十八度線突破行の第一歩がこうして始まった。元気な若い人が列の前と後ろを歩き、老人や女、子供がその間に入って、東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした。好意的な朝鮮人には食糧を分けてもらったり、炊き出しをしてもらったりしたこともあった。山間部にいる朝鮮人の中には、まだ日本人に対して親切な人も多かった。準備したお金や、貴金属はだんだんと少なくなって心細くなってきた。
大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。通行料は十円ぐらいだったと記憶している。そのほかに荷物検査料とか、何とかと名目をつけては二、三十円は取られていた。このお金は、日本人世話会で準備をしていたようであった。
三十八度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。
四月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかったが、お互いに励まし合って何とか、落伍者もなく歩いていた。
一日約二十キロメートルぐらいの行程であったが、数日すると予定の半分も進まなくなった。行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査をされたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。あるところで保安隊員に止められたが、寄付金を渡しても解放してくれない。世話会の幹部が交渉をしたがそれでも駄目だった。理由は、列の中に日本軍の憲兵だった者がいるというので、全員の顔検査をすることになった。そして、その憲兵だったといわれる人が、連れ出されて殴打され、あわや殺されるのではないかという事態になったこともあった。ただ、顔が似ているというだけの理由からであった。
連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積してきて歩くのも困難になった人が出てきた。前後を歩いていた若い元気な人が、支えたり時々は背負ったりして励ましていた。ある女性は、二歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上は歩けないからここに残ると言い出した。しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いたときに、とうとう二歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。
みんなも、自分のこと、家族のこと、子供のことだけで精いっぱいの極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。致し方ないことであった。私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。
母は、文坪の収容所で協同生活をしていたときにマラリヤにかかっていて、脱出する前にやっと起き上がれるようになったので、重い荷物を背負うなどということは当然に無理で、父が母の分まで荷物を持っていたので、それだけで手いっぱいだった。三歳になったばかりの妹は私が背負い、十歳の弟と一緒に歩いていた。父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。歩いている人の中には、藁沓を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。
三十八度線に近づいた山間部で、ちょっとした渓谷があり、そこに架かっていた丸木橋を一列になって渡ったが、そのときに私は不注意にも足を滑らして背負っていた妹諸共に川の中に落ちてしまった。幸いにあまり深くはなかったのですぐに立ち上がることができたが、下半身はびしょびしょ濡れになり、寒かったとは今でも忘れられない。
国境近くになると警戒が一段と厳重になって、保安隊員が組をつくってあちらこちらに立っていた。検問所のような建物も見受けられるようになった。
疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射されたときは、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終わりかと観念したが、相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっとあんどの胸をなで下ろした。
三十八度線上の山々は、標高が四百メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出はできないと思うと、苦にはならなかった。一日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。
いよいよ明日は、三十八度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。そしてさらに、「背中に背負っている子供は、体の前に抱いてひもで結ぶこと。最後は走るようになるから履き物が脱げないように上から結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。
荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。
父からも、「ここを突破して開城に行けばなんとかなるだろうから、全部ここに置いて行こう」と言われた。ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけがすべてであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。どの人の顔を見ても必死の形相で、それはそれはすさまじいものがあった。
その日は、北朝鮮の四月にしては割合に気温が高かった。体力をつけるために、それぞれ木立の間に入って仮眠をすることになったが、なかなか寝つかれなっかった。
夜半の十二時に行動が開始された。やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視・激励していた。
深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。ただ、サクサクと踏みつぶして行く霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。息をころして歩いていたが、三十八度線の山の頂上にはなかなか出ない。歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた。そのうちに今まで黙って歩いていた人の中からボソボソと声を出す人も出てきた。世話人が、口に手を当てて注意をしていった。
そんなときに、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足にも力が出てきた。無言の行進が続いた。
しばらく歩いているときに、家畜商人が「あの丘の向こうが三十八度線だ」と、指さした。勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。初めてだまされたことに気付いた。
みんなはそれを知って、一遍に疲れがでてその場にへたへたとして腰をおろしてしまった。今までの張りつめていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。その夜は特に寒さが厳しかった。腰をおろしている間にも霜がおりてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。
世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。私に抱きかかえられていた妹は、死んだようになって目もあけずにいたので、心配になってゆり起こしたが、目はうつろになっていた。
夜はもうとっくに明けて、太陽が上ってきた。幸いもこの辺りは山のなかの辺鄙な所のようで、監視の目も届かないようであった。
しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。山頂に出たのだ。見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。紛れもなく三十八度線を流れている川であった。
一同は、何の抵抗もなく急いで渡った。弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、力なく手を振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。
岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはそのすき間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。
自動車の音で、みんな我に帰って立ち上がった。よく見ると赤十字のマークのついた車だった。最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。
とうとう三十八度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。いま渡った川の向こう岸を見て、ここ十数日のことが思い出された。心のうちでは、万歳! 万歳! と叫んでいたが、まだ口に出しては言えなかった。時間がたつにつれて気持ちが落ち着いてくると、何かしらあっけない気持ちにもなってきた。
アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せて行った。母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。歩ける者は歩いたが、今までの行軍とは全然違って、足もなんとなく軽くなり、さっさっと歩けた。米軍の日本人収容所に入った。そこでまず、DDTの洗礼を受けた。初めてのことで随分と戸惑った。みんな顔から真っ白くなってお互いに顔を見合わせて笑った。笑うということは久しぶりだった。
二、三日収容所で過ごし、再びトラックにゆられて京城(ソウル)の収容所に入った。そこでも三日ばかり生活をして、釜山行きの列車を待った。京城の収容所には立派な救護施設があって、ソ連兵などによって陵辱された多くの女性が治療を受けていたと、母が言っていた。収容所の周囲には鉄条網が張られていたが、行動は自由で文坪での顔見知りの人にも会うことができた。
釜山では、再び厳重な身体検査があり、検疫が行われた。内地への帰還船が来るまで数日、抑留された。もうここまでくれば日本に帰ったようなもので、みんなの顔色もよくなり、母の体調も快方に向かった。
待ちに待った帰還船に乗り仙崎に向かった。
仙崎で下船し、汽車で故郷の博多に着いた。文坪を脱出して約一カ月たっていた。汽車から眺めた沿線には、レンゲの花が満開だった。これを眺めながらこれからの生活がどうなるのかと考えていた。しかし、どんなに苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、あの文坪からの脱出行を経験した者にとっては、何でもできる自信を持っていた。
私には、姉と兄がいた。姉は敗戦の時に、たまたま南朝鮮にいた親類の家に遊びに行っていたので、そのまま親類の家族と一緒に早く帰国して県庁に就職していた。また、兄は海軍の予科練に入っていて内地で終戦を迎えたので、これもすぐに福岡に帰り銀行に勤めていて、私たち親子が元気で帰ってくることを祈りながら生活をしていた。この二人がいたので他の引揚者の人たちより随分と恵まれた受け入れ態勢だった。
作家の五木寛之さんは、やはり北朝鮮からの引揚者であるが、ある本に、「三十八度線を無事に突破した人は、必ずしも体力があったからではなく、足に合った履物を履いていたからである」と書いているが、まったくそのとおりだと思った。私たちの家族は、地下足袋やゴム長靴を短くして足に合わせて履いていた。だから歩くことに大きな低抗がなかったのだろう。
戦争は、本当に怖く悲しいものである。アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。
帰国が果たせなかった多くの人が、異境の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。謹んで哀悼の意を表したいと思う。
▼『紙の力』
ネット全盛の現代でありますが、紙には紙の力がある。
書籍として刊行されれば国会図書館に収蔵され、かつISBNを始め付番が振られます。
いまでは入手困難になった物も多数あるかと思いますが、
それでも、困難であったとしても、それでも。
どこかの屋根裏、倉庫に眠っているのです。
少なくとも国会図書館には、一冊は存在する。
一度、発刊された書籍。
「紙」を全てなかったことにすることは、極めて難しい。
かつて独裁者ら、また近代においては共産主義者らが「焚書」を行いました。
それほどに紙には紙の力があるのです。
▼紙の優位性
スマホと異なり、電池がなくとも機能を満たせます。
パソコンより軽く、携帯性に優れ
パソコンより衝撃に強く、頑強な情報メディアであり
発火しない限りは熱への耐性も強く、「機能」を満たす。
冗談で言っているのではありません。
これは本気で言っております。
理系の、元技術屋として、事実として本心から述べております。
特に、ソースとする場合は優位である。
ブログ等の電子媒体と異なり、「誤字修正」すら受け付けぬ。
出版社・著者ともに法的責任を負う。
出所が確かで、追跡可能であり、
かつ、確認の手段は(ネットメディアに比較し)煩雑とは言え、誰しも確認が可能。
紙には紙の、優位性がある。
▼先人からの贈り物
日本人なら知っておくべき、
戦後動乱時の状況です。
書籍情報をご覧ください、どれほど古い本をソースとしているかを。
カテゴリが古書となっているものもある。
これは令和の世の私たちに託された、
先人たちの、戦中戦後世代からの、贈り物です。
我が国には、祖先がおります。
誇るべき祖先がおります。
いまの世を生きる者として、
多くは鬼籍に入ったやも知れませんが
先人らの思いを、託された物としてしっかりと受け取りたく思う。
▼孤独な戦いであったと思います。
左派メディアが全盛、ネットの援護もない時代。
見向きもされずとも、記した先人たちがいる、著者の意地。
多くは採算を度外視して刊行されたのであろう、出版社の意地。
戦場に倒れた戦友を思ってだろうか。
戦火に焼かれた家族を思ってか。
孤独な戦いであったと思う。
それら出版社の意地、執筆陣の意地。
報いるため、いま私たちができることやろう。
それぞれの立場で為すべきことを為そう。
為すべきことを必死に行った先人らが、私たちにはいるのだから。
時代を超えて、一人じゃない、と。
孤独じゃないと、ありがとうと、思いを込めて。
一人でも多くの方に、血の滲むこれらのテキストを伝えるため。
拡散をお願いします。
(前篇)
【半島脱出?】日本人なら知っておくべき、引上げ時の被害?先人の財産?
こちらは出版物をweb検索より資料化、amazonのリンクをもってISBN等の書籍情報を出典として掲示したエントリです。
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【支援要請】戦うための、武器をください。
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皆様大変です。アメリカが日本政府と言うか、安倍総理を怒っています。
安倍さんが今井補佐官と二階幹事長など親中波を切らなければ、アメリカは日本を中国よりと判断すると言ってきました。
ttps://youtu.be/dm4meRVJ_jo
至急、官邸メールと自民党へメールを送って下さい。
流石アメさん、国賊2Fはともかく、今井某が糸引いていたのは、バレバレだったんですね。
政府は、外圧(あめさん)には滅法弱いんで、ある意味願ったり叶ったりですね。
※媚中の連中の処理を間違えなければ・・・・・・・
全く根拠のない、都合のいい、私の妄想ですが、
親中派を切るにしても、言い訳が出来て良いのかもしれません。
敗戦とは、人権を失う事なのでしょう。
何をされても逆らえず、命の保証も失います。
憲法で侵略戦争を完全放棄しているにもかかわらず、防衛力まで放棄するなど、日本人の人権は砂上の楼閣のようなものです。
それでも平和が保てるとの自信は、何処から出てくるのでしょうか?
多分、国会議員が責任を持って保証しているのでしょう。万が一の事が有れば、責任をとり自決する覚悟であると・・・
国会議員のお役目は、国民の生命と財産を守る事とだと思っていますが、将来、その生命と財産に被害を及ぼす可能性に進む国会議員さんは、一体何者になるのでしょうか?
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葛飾区の鈴木信之区議が入官庁に【特段の事情】の裏口入国について陳情にいって下さいました。
https://youtu.be/3sbXNrqV368