【今日は何の日】通州事件を忘れるな(閲覧注意)【覚悟を決めた人はシェア】

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本日、7月29日は「通州事件」が起きた日です。ネット保守においてはある程度の市民権を得てきたように思いますが、これほどの凄惨な事件を、多くの日本人は知りません。
当時の報道・軍の資料・海外でのソースなど、完全に証明が可能な事件です。CHINAが主張する南京大虐殺の虚構など、後世において外交上、作りあげられた歴史ではありません。

当然のことながら、本エントリは18禁とさせて頂きます。
強姦・殺害・虐殺のオンパレードであり、特に女性の方は直視できないと思います。自信のない方は、読まないでください。それでも歴史を直視する方のみ、ご覧ください。

謝辞
メディアなどの「報道しない自由」や、歴史を改竄してきた日教組などの勢力により、「日本人が被害者」である通州事件は、歴史の表舞台から消え去ろうとしていました。今一度、日本人の記憶に刻み込んだのは、ねずさんのひとりごと・小名木善行氏の功績は大であると考えています。本日のエントリーは、ねずさんより許可を得て紹介しています。

 

 

 

 

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通州事件の概要
以下は、<出典>しらべかんが著『天皇様は泣いてござった』の書き起こしで、ねずさんのひとりごとからの転載です。
冒頭部分は、通州事件に至るまでの(事件を目撃した者の)エピソードが続きます。
時代背景も踏まえ、ご覧ください。

 

【Sさんの体験談】

私は大分の山の奥に産まれたんです。
すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんというシナ人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、
「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

そのときは全く驚きました。
冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。
でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

シナの人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。
でも、無事結婚式が終わりますと、すぐにシナに帰るというのです。
でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。
自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

それで仕方ありません。
私はTさんに従ってその年の三月にシナに渡りました。
長い船旅でしたが、シナに着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。
私はシナ語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれどシナ語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。
通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いてシナ人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

 *

それは昭和九年の初め頃だったのです。
Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、シナ人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこのシナ人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。
通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。
私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、シナ人の服装に替えておったのです。

すっかりシナの服装が身につきシナの言葉も大分慣れてきていました。
それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。
遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私がシナ人の服装をしているのでシナ人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。
そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。
Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、シナと日本は戦争をする。
そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。
それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

 *

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。
只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口をシナの人達に言いふらしているのです。

私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。
そして日本は今度はシナを領土にしてシナ人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。

そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。
するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々もシナ人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。
Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。
私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。
道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。
目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。
日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。
大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。
この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍がシナを立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。
行商に歩いていると日本人に出会います。
私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。
すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、
「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」とシナ人達に言うのです。

最初の頃はシナ人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、シナ人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。
特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

 *

私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。
それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうしたシナ人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。
それはシナのあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうしたシナ人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。
そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。
こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

でも何も変わったことはありません。
これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。
そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、シナ軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

日に日に日本に対する感情は悪くなり、シナ人達の間で、
「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。
その当時のよく言われた言葉に、
「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのはシナだ」という言葉でした。

私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。
シナの子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔をシナが滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。
そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

 *

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
私はびっくりしました。
それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いやシナという国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本ではシナ撃つべし、シナ人は敵だという声が充満していたそうです。
そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。
それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。
でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。
しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。
そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。
この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
でもTさんはそれを許しません。
それで日本人の居留区日本人と話すときもシナ語で話さなくてはならないのです。
シナ語で話していると日本の人はやはり私をシナ人として扱うのです。
このときはとても悲しかったのです。

それとシナ人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人がシナ人に対して優越感を持っているのです。
ということはシナ人に対して侮蔑感を持っていたということです。

相手がシナ人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くのシナ人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
このことが大変悲しかったのです。
私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいるシナ人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。
でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

こうした日本人の傲りとシナ人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。
Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
それだけにこの通州のシナ人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
「困った、困った、こんなに日本人とシナ人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
と言うのです。

 *

そしてシナ人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。
いやむしろシナ人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。
Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。
今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。
そして「危ない」「危ない」と申すのです。
それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、シナ人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。
だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、シナの国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

それが七月になると、
「日本人皆殺し」
「日本人は人間じゃない」
「人間でない日本人は殺してしまえ」
というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。
鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。
シナ人達が大騒ぎをしているのです。
何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍がシナ軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したのでシナ人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

私はびっくりしました。
そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。
でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

この頃でした。
上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。
蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

 *

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。
突然私はTさんに烈しく起こされました。
大変なことが起こったようだ。
早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
町には一杯人が出ておりました。
そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

でもまだ辺りは薄暗いのです。
何がどうなっているやらさっぱりわかりません。
只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。

私はTさんと一緒に逃げながら、
「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。
でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

それが八時を過ぎる頃になると、シナ人達が、
「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。
突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。
そして、
「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
と私を抱きしめるのです。

それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。
それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
私はTさんと結婚してシナ人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。
それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

 *

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。
誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。
私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。
只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。
何か生臭い匂いがするのです。
血の匂いです。
人間の血の匂いがして来るのです。

しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
沢山のシナ人が道路の傍らに立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。
その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
体はぶるぶると震えておりました。
その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。
そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。
シナでも七月と言えば夏です。暑いです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。
しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。
そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。
娘さんは「助けてー」と叫びました。
と、そのときです。

一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。
すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。
何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。
娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。
そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破けます。
肌が出ます。
血が流れます。
そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。
その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
又腹を突きます。
胸を突きます。
何回も何回も突き刺すのです。

沢山のシナ人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
暴虐無惨と申しましょうか。
あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。
この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。
その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。

シナ人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。
ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。
そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。
こんな姿を見ながらその近くに何名ものシナ人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
目をしっかりつぶっておりました。
するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。

するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
見てはいけない。
見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
それから剣で首を切り落としたのです。
その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。

投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。
そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

私は立っていることが出来ない程疲れていました。
そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。
この残虐行為をじっと見つめていたのです。
腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
そしてその首はないのです。

何とも異様な光景です。
想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。
ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

私はハッと自分にかえりました。
すると何か私の胃が急に痛み出しました。
吐き気を催したのです。

 *

道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。
でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。
私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。
若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

しかしシナ人のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
だから黙って通してくれたと思います。

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。
私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。
痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
とても人間のすることではありません。
悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、シナの学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識はシナ人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることがシナ人の常識だったのかと初めてわかりました。
集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

シナでは老人は大切にしなさいと言われておりますが、このシナの学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。
この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。
十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。
こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

そしてそれだけではなかったのです。
学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
そして勿論裸足にしております。
その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

でも倒れることは出来ません。
外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

私は思わずTさんにしがみつきました。
Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

そして私の耳元でそっと囁くのです。
「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。
勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

そして私とTさんの周囲には何人ものシナ人達がいました。
そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般のシナ人は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。
しかしようもまあこんなに沢山シナ人が集まったものだなあと思いました。
そして沢山集まったシナ人達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

勿論これはいろんなことを言えば同じシナ人ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

これも又異様のこととしか言いようがありません。
こんな沢山集まっているシナ人達が少しづつ移動しているのです。
この沢山の人の中には男もいます。
女もいます。
私もそのシナ人達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。
旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

二人とも真っ青な顔色でした。
一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
どうしてやることも出来ないのです。
言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
いやその一部からは出血さえしております。
髪はバラバラに乱れているのです。
とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。
女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。
そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。
私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。
そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。
そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。
そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。
それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。
そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。
それがシナの悪獣どもが充分満足したのでしょう。
何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くのシナ人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くのシナ人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。
しかしこれを見ていたシナ人達はどうすることも出来ないのです。
私もTさんもどうすることも出来ないのです。

もうこんなところにはいたくない。
家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
沢山の日本人が殺されています。
いやまだ殺され続けているのです。
あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
耳を覆ってみても聞こえるのです。

又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。
旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。
お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。
お婆さんは仰向けに倒れました。
学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。
私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

そして、「くやしい」と申すのです。
「かたきをとって」とも言うのです。

私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
「いちぞう、いちぞう」
と人の名を呼びます。

きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。
するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
そして息が止まったのです。

私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。
そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。
するとシナ人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。
そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

何とその女の人はお腹が大きいのです。
七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。
学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

この女の人は何もしゃべれないのです。
恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。
学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっているシナ人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。
一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。
そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで事態が一変しました。
若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。
学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。
学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
すると今度はそこにいたシナ国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。
七名も八名ものシナの兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。
するとどうでしょう。
この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

それでもシナの兵隊や学生達は乱暴を続けております。
そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。
それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。

私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
これはもう人間の行為ではありません。
悪魔の行為です。
悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。
目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。
人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

私はTさんにすがりついたままです。
何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。
地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

そしてそれだけではありません。
別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。
一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
残った腸の細切れを見物していたシナ人の方へ二つか三つ投げて来ました。
そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

しかし見ていたシナ人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。
この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

そんな人間でない連中のやることに、流石にシナ人達は同調することは出来ませんでした。
まだ見物しているシナ人達は人間を忘れてはいなかったのです。
そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。
そして一生懸命逃げようとしたのです。
見ていたシナ人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
妊婦はバッタリ倒れたのです。
すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。
私は何をするのだろうかと思いました。
そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

だがシナ人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーッと飛び散りました。
私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。
妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。
お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あまりの無惨さに集まっていたシナ人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人のシナ人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

「日本人が処刑されるぞー」
と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
しかしそれはシナの学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんがシナ人であったということです。
そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちはシナ人の嫁さんだから私もシナ人だと思い込んでいたのです。

そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私もシナ人だと思うようになっていました。
そして早く本当のシナ人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

そしてこの一、二年の間はシナ語も充分話せるようになって、誰が見ても私はシナ人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私をシナ人としか見ていないのです。
それでシナのいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方をシナ人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはりシナ人です。
私の心は通じておりません。

そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはりシナ人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。
そこには兵隊や学生でないシナ人が既に何十名か集まっていました。
そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。
ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。
何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。
私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。
引き金に手をかけたらそれが最期です。
何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。
日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。
するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

バタバタと日本の人が倒れて行きます。
機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。
そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。
五十数名の日本人は皆倒れているのです。
その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。
こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。
見物しておったシナ人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

これは一体どういうことでしょう。
私には全然わかりません。
只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。
その近水槽の近くに池がありました。
その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人ものシナ人がいるのでそれは出来ません。
若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外のシナ人達はおかしく思うに違いありません。

国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どのシナ人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいるシナ人達からあの人はおかしいではないかと思われる。
Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。
そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

そして首を前の方に突き出させたのです。
そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。
この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。
そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。
Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。
そして見たくはなかったけど池を見ました。
真っ赤な池です。
その池に蓮の花が一輪咲いていました。

その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。
しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人もシナ人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

 *

昼過ぎでした。
日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。

ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。
でも日本軍が来たというだけで逃げ出すシナ兵。

とても戦争したら太刀打ち出来ないシナ兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
このときシナ人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。

私は今回の事件を通してシナ人がいよいよ嫌いになりました。
私はシナ人の嫁になっているけどシナ人が嫌いになりました。

こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。
でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

<出典>しらべかんが著『天皇様は泣いてござった』
本文の文字起こしは、徳島の保守のみなさんによります。

 

 

 

 

なぜ、通州事件は起きたのか。
私は、歴史家ではないため、学術的な観点は、この際すべてを排除します。
ですが、付け焼き刃の知識であったとしても、確実にわかることはございます。

 

国家としてナメられたから、です。
為すべきときに、為すべきことを為さなかったから、です。
中途半端な対応を繰り返し、その場その場を凌いだ結果、より酷い結果を産む。

通州事件が生じる前、背景なども含め「日本側は把握していた」というのが一般的な研究成果のようです。流石にここまで「対日感情が悪化」しておれば、把握はしていたのです。それを、事なかれ主義でしのいだ結果、むごたらしい虐殺につながりました。

「撃たれる前に撃て!」とは言いませんが、
相手が、ちょこちょこジャブを打ってきているときに、
(相手に)「たいしたことない」と錯覚させるような、中途半端な処理はしてはならない。

 

その背景、前後について、ねずさんの分析。

 

 

 

いま、求められること
通州事件は、単に過去の事件とは考えておりません。
むごたらしい虐殺があったことを理由に、例えば某隣国のように被害者ビジネスをしようとも思いません。
まずもって、哀悼の意を持つこと。
大切なのは、その次に何をするか、何を学ぶか、です。

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言いますが、私たちはどちらでしょう。
過去のこととして、歴史の忘却の彼方に置き去りにするのか。

いま我が国を取り巻く環境は、実は通州事件が勃発する前夜に近い。
かつて、我が国は「誤った対応」をとり、結果として国民の血を流した。

当時、国内では「自らの選挙区に関連する」内容ばかりで政争に明け暮れ、
在外邦人の身に危険が迫りつつも、政府・国会議員らは、「国防と外交」という国家の一大事を放置。

アジア圏の利権、また西欧列強に対抗するという大きなテーマも背景にはあったのでしょうが、
CHINAなどのご機嫌を伺い、「暴発するまで」放置するという罪を犯した。

 

翻って国民はどうか。
当時の報道資料を読み込んだわけではないが、メディアは「どうでもいい政争」ばかりを報じ、国民もそれに一喜一憂していたわけだ。

ここで「国民」に話題を振ったのには理由があり、政治家は「思っても」、「世論がなければ決断できない」ことを忘れないで欲しい。
思いある政治家は多数、いる。だが、見える形での「声なくして」動けば、メディアに撃ち抜かれて散るだけだ。国民が声をあげねば、動けぬ。

 

 

関連

 

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口を開けて、そこでゆでガエルになるのか。

 

誰かがやってくれる、政治家は「勝手に動く」と盲信し、

 

自分は何もしなくていいと、そのように思い込むことで

 

自分ではない、【どこかの誰かが悪い】と、

 

免罪符でも得たいのか。

 

政治は、見える形での、国民の声がなければ、

 

動くことは【絶対にない】と言わせてほしい。

 

大メディアの報道は、確かにひどい。

 

ただし、政治家が見ているのは、国民世論だ。

 

このまま、第二・第三の通州事件を起こすのかい?

 

私は、嫌だね。

 

だから、こうして名を明かし、堂々と主張する。

 

強制はしない。

 

だが、通州で犠牲となった日本人、

 

婦女子、子弟らを思うに、

 

果たして黙ることができるのか?

 

私にはできない。

 

貴方がどうするかは、自分で決めるべきだ。

 

「シェアするかどうか」「Twitterで拡散するかどうか」は、個々人で考えてください。

 

 

 

 

重要
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・ミサイル攻撃時の、J-ALERTの音源
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コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)

  1. medakanoon より:

    【今日は何の日】通州事件を忘れるな(閲覧注意)【覚悟を決めたらシェア】 本日、7月29日は「通州事件」が起きた日です。ネット保守においてはある程度の市民権を得てきたように思いますが、これほどの凄惨な事

  2. 月光仮面 より:

    最初の5行くらいしか読めていません 中国人が嫁さんに来てくれないかと
    声をかけられた ここまでしか読んでいません 皆さん 中国人から
    言われた言葉が 中国人を信用するなでした
    後で 読ませていただきます そしてですね 皆さん これからの日本の
    政治家は 戦いを決断する時が来ると思ってほしいのです そうないと
    日本を滅ぼさせてしまいかねないからです 安倍総理 トランプ大統領
    近いうちに攻撃命令を決断する時が来ると思います 安倍総理には
    超法規的な決断になるかも知れないと思います。

  3. つむぎ より:

    小坪先生、今日7月29日に通州事件についてお書きいただきありがとうございます。私も最初は、ねずさんのひとりごとで知って、(15年ほど前です)その後図書館で、「天皇さまが泣いてござった」を取り寄せて読みました。去年2016年自由社から500円のブックレットが出たので買い求め、毎年衝撃の部分、佐々木テンさんの証言の部分を読むようにしています。辛くっても、吐き気を押さえてでも読むようにしています。それが供養だと思うし、日本人の義務だと思うから。通州事件は、事実ですから学校でもちゃん取り上げ、女性でも辛くっても吐き気がしても読むべきです。そして、国として、広島長崎のような慰霊祭をすべきですよね。

  4. 鳥海山たろう より:

    通州事件(wikipedia)
    ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    パソコン通信の時代から、歴史の一次史料にあたった多くの有志により検証が積み重なれて、多くの日本人にいろんな史実が知られてきました。

    九死に一生を得た日本人女性の発言
    「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」

    東京裁判(極東国際軍事裁判)でも通州事件は証言されました。
    けれども、日本側の外務省スポークスマンの証言は「証拠価値無し」との理由でウェッブ裁判長に却下されました。

    東京裁判の目的のひとつは、(はるか上空の安全な高高度から行った広島や長崎への原爆投下や東京での大空襲で)何十万人もの非戦闘員を虐殺したという米国の戦争犯罪を糊塗することでした。

    そのために持ち出された「南京虐殺」(証拠なし)の陰に通州事件は完全に隠されました。

    日本人は朝鮮人や中国人と違って「弁解することを潔しとしない」という気風がありましたので、「真実は神のみぞ知る」という形で、蒸し返さずに戦後は国家再建と経済復興に専念しました。

    でも、それはまともな日本人に限った話です。

    共産主義に呪われた極左の歴史学者などは、狂ったように東京裁判の結果にさらに尾ひれをつけてデマを拡散しました。

    専門家を自称する連中ですらそうなのですから、そのため反日左翼は、通州事件の写真を「南京虐殺」や「731部隊」の証拠写真として流通させました。
    日教組教育で脳みそをやられてしまった日本人も信じこまされました。

  5. 鳥海山たろう より:

    このコメント欄でもときどき紹介される「ねずさん」。
    たしかに「天才的な歴史の語り部」と思われますが、あまりに中国人や朝鮮人への敵愾心が強い論考が多いので積極的に拡散するのはやめたほうがよいと感じます。

    藤岡信勝氏が理事をなさっている「新しい歴史教科書をつくる会」の関係者のなかでも、中国人・朝鮮人への敵愾心を煽る文章は(悪い意味で)群を抜いているように思います。

    「新しい歴史教科書をつくる会」は、基本的には「来るもの拒まず」に近い形でやっているかもしれませんが、この会は、中山成彬・中山恭子ご夫妻も参加されたような立派で品位のある勉強会であると思いますので、(ねずさんも宣伝に積極的に協力されたので排除はできないでしょうが)中枢の関係者にはいれてほしくないです。

    • ピーナツ県民 より:

      >あまりに中国人や朝鮮人への敵愾心が強い論考が多いので積極的に拡散するのはやめたほうがよいと感じます。

      この話を知って尚このような寝ぼけた事を書く者には、日本人の血は流れていないのだろうなあと感じます。

      • 東北の日本人 より:

        ピーナツ県民様へ同意します。
        東日本大震災時、銃剣は使わずとも相も変わらず津波の浸水を利用し同様の所業を行った。死体の腕や指を切り装飾品を奪った。空き巣なんてまだましな方とさえ思われる。
        拡散するのをやめるべきではなく、全日本人に知ってもらうべき!!
        全日本人に覚悟を持って立ち向かう姿勢を持ってもらうべき!!
        やられっぱなしでは悔しすぎる!!

      • 命を守れる政治の実現を より:

        私も、ピーナツ県民様に同意します。

        そして、世界中にいる日本人への注意喚起の意味も込めて世界に英訳文を添えて拡散すべきだと思います。

  6. 鳥海山たろう より:

    四至本八郎著『支那人街』太陽閣(昭和12年)

    四至本八郎は近衛ブレーンにもなりアメリカ通であり、戦後の講和条約のときも吉田茂首相に請われて事前の下調べなどした人ですが、上記の本に通州事件のことが記載されています。
    当時から、日本人のしわざとして、通州事件の惨事の写真が拡散されていたことが書かれています。

    「日本人を惨殺しておいて、不埒(ふらち)にも、その惨殺された写真を逆用して日本兵が支那人をかくのごとく虐殺したと海外に逆宣伝したではないか。ところが、幸か不幸か、その写真のー枚には日本足袋をはいていたものがあったために、逆宣伝が暴露して物笑いとなったじゃないか。それでも彼等はー向平気でいたというから全く底知れぬ人種だ 」

  7. araigumanooyaji より:

    “政治家は「思っても」、「世論がなければ決断できない」ことを忘れないで欲しい。 思いある政治家は多数、いる。だが、見える形での「声なくして」動けば、メディアに撃ち抜かれて散るだけだ。国民が声をあげねば

  8. 梅一枝 より:

    小名木善行先生は、中山成彬議員の選対委員長でしたが。
    JRにも乗車拒否された慰安婦問題論破、口蹄疫解決の国士への風当たりは強く、
    ねずさんくらいしか、務まらないように思われます。

  9. かみやま より:

    事実は事実です。鳥海山たろうさん。
    事次第によって敵愾心が高揚することはあっても、
    敵愾心を煽るために事実を取り上げている訳ではない。

    戦争を煽る朝鮮人、支那人、ロシア人が如何に凶暴か。戦争は犯してはならない。そうさせてはいけない決意をなぜ持てないのか。

    綺麗事ばかり、知識ばかり晒して持論に酔っているばかり。いつもテレビのコメンテーター気取りで他人事。

    もう、ウンザリですよ。

  10. テロ指定共産党 より:

    小坪さん、ありがとう。

    ねずさん読んだとき、怒りに震えて泣いたよ。
    無惨な姿の妊婦に、新聞紙・・・

    怒りのベクトルが狂った。

    言いたいことは沢山あるが、小坪さんがまとめてくれたので、まずは声を届けるよ。

    小坪さんは、政治家として戦い
    余命さんは、レジスタンスとして戦い
    ねずさんは、歴史で戦う

    本物は応援するよ。
    .

  11. たわし より:

    小坪議員様、新規投稿ありがとうございます。

    通州事件。私は今50歳ですが、政治blogランキングを日々読み始める様になった僅か4年ほど前まで、南京事件は学校やテレビで見聞きしていても、この通州事件の事は名前すら知らず、その事実を知るにつれ、日本人として途轍もない衝撃を受けました。
    今日、妻に尋ねてみても当然知りません。恐らく私の廻りでも知っている人は皆無でしょう。

    絶望的な気分になりますが、こんな私でも出来る事、amazonではなくリアルの書店で藤岡先生の通州事件の本を注文し購入する事、公立図書館などにこの本を注文して書棚に並ぶ様に働きかけるなど、少しでもこの悲惨な歴史の教訓が多くの日本人の目に留まる努力を続けるしかないと考え、行動します。

  12. あき より:

    兎に角、朝鮮人はどうしようもないほど屑で、支那人は本当に残虐なんです。 事実なんですよ(他の国同士でもこういうの有るんでしょうけど)これをきちっり頭に叩き込んで連中と対峙しないと、とんでもないんです。  子供の頃から朝鮮人大っ嫌いで、それ言うと親に叱られてた、理由はあるんだろうけど、あいつらを野放しにし過ぎたんで此処まで祟るんだよ、本当に馬鹿馬鹿しいし、綺麗ごとばっか言ってる奴は、心底糞野郎だと思うわ。  規則法令節度守れない朝鮮人、凶悪犯罪者朝鮮人、今、どんどん増えている支那人(こいつらは本当に絶対油断できない、本当に危険だ!)気がめいるわ。  役所警察政治家マスコミ他此処まで潜り込ませて、駆除しないと大変なことになる・言いたかないが、通州事件の様な事が日本国内で起きない事願う。

    • 命を守れる政治の実現を より:

      あき様に同意します。

      残念ながら、国内の支那朝鮮人が増えるほど、日本国内の何処で通州事件クラスの日本人虐殺テロが起きても不思議ではないというリスクが日増しに高まり、その事には自衛隊の中にも大変危険視し警戒している方々がいらっしゃるとのことです。
      もしもの時は、その他の在日外国人は便乗するか無視して逃げるだけですから、在日に日本の味方は居ないと見た方が良いでしょう。所詮、祖国を捨てた脛に傷のあるような連中ですから、日本の将来に害毒でしかありません。

      前は不運にも親の仕事の都合で、朝鮮学校のご近所で朝鮮人やらがウヨウヨいて、私達日本人が通う学校にまで不遜鮮人の不良が通って荒らす酷い所に住んで居ました。
      母は「ああいう悪い子は今に天罰が降って酷い目に遭う」と口癖のように言っていました。

      今は引っ越して、元海上自衛隊の方が犬の散歩も兼ねてパトロールして下さる所にいますから、だいぶ安心して暮らせるようになりましたが、

      前にいたような、支那朝鮮人だらけの所では、奴等、誰が日本人か物色しているでしょうから不安です。

      個人情報になりますから、詳しい場所は言えませんが、ハングル文字だらけの鉄道、駅周辺、共産党の多い住宅街、やたら人権、9条、反安部、自衛隊反対だの騒ぎ立てる地域、総連や朝鮮学校のご近所、在日外国人が多い所等は要注意です。

      「日本人なら誰でもいいから殺そうと思った」
      こういう恐ろしい輩が心神喪失だの精神疾患だので不起訴処分になったり、過失致死扱いになるのが日本です。

      本気で抗わなければ、日本人に生まれたというだけで明日はないという事になりかねません。

  13. 櫻盛居士 より:

    **********************************************************************
    共産党は2016年9月13日からの警告を無視し続けましたね。
    ならば、下記は決定事項と承諾したものと見做します。

     ・『テロを利用する共産党』
     ・『テロリストの味方である共産党』
     ・『テロに屈する共産党』

    **********************************************************************
     
     
    前回のエントリーである北朝鮮のミサイル発射と、今回のエントリーである通州事件は、実は繋がった同一線上の歴史の上で起きている事です。
    つまり、先日の北朝鮮のミサイル発射は通州事件の延長上に起きた事件なのです。

    > 国家としてナメられたから、です。
    > 為すべきときに、為すべきことを為さなかったから、です。
    > 中途半端な対応を繰り返し、その場その場を凌いだ結果、より酷い結果を産む。

    答えはとうの昔に出ているのです。
    っと言うより、答えは昔から変わっていないと表現する方が正しいでしょうか。

    停戦後70年余り日本が表面的にも平和を享受出来たのは、日本が戦争を放棄したからではありません。
    日本との戦争に勝った米国が「何かして来やがったら俺様が代わりにぶっ殺してやるから、日本お前は戦うなや!」と表明していたから平和を享受する事が出来ただけで、平和の為には戦争も厭わないと言う態度によって、憲法9条も維持されて来た訳です。

    米国が「何かして来やがったら俺様が代わりにぶっ殺してやるからな」っと表明して来たのは、米国にとって日本が利用価値のある存在であったのと、図らずもそうあり続ける努力を日本人が怠らなかったからです。
    そして、また日本が刃向かって来たら厄介だから、刃向かえる状況は排除しておきたいと言う心理も在った筈です。

    大東亜戦争の頃と現在との違いは、情報システムが日本軍と米軍とでは個々別々に確立しているのに対して、自衛隊の情報システムは米軍に依存している事です。
    これは当時の日本は何時でも米国に刃向かえる国防体制であったのに対し、現在の日本は米国に刃向かえない国防体制である為、兼ねてからの利用価値と合わさって米国は「日本さぁ、そろそろ戦争放棄とか止めろよ」とあからさまに態度に表してしているのです。
    もうどうせ米国には刃向かえ無いのだから、「俺様が直々に痛い目に遭う必要も無いわな」と言う態度がミエミエです。

    こう言った特殊な事情を除けば、世界の原始的な力の根源は何も変わって無い訳で、圧倒的な武力と、危害を加えて来た際の徹底した報復こそが、犠牲を最小限に抑え、且つ紛争地を局所に留める為の唯一の手段です。

    また変わらぬものとしては、民族性や思想もあります。
    支那人や朝鮮人の民族性や思想も例に漏れず、そうそうと変わるものではありませんし、共産主義者の性質や思想も変わるものではありません。

    支那人や朝鮮人、共産主義者の本質を正しく理解し、正しく警戒し、場合によっては正しく報復を行う事を怠ってはならないでしょう。
    但し、あれらは必ずアレやコレやと理由を付けて、正しく報復を行う事を阻害して来ます。
    今までの様に、その阻害行為を真に受ける事が如何に愚かな事かを、理解する事から始めなければならない所が、現在の日本人の厄介な一面でもあるのですが・・・。

  14. 琵琶鯉 より:

    もうすぐ終戦記念日・・・
    「通州事件」は歴史の教科書に載せるべきものと以前から思っておりました。世界は日本人が思っている程、公平で優しくはないのです。
    そして、夏休みの課題図書として百田尚樹氏の「カエルの楽園」を読んでほしいと思います。

    私達、日本人は理解しなければなりません。外国は世界は、「妬み」によって動いています。
    欧米はそれを法律や条約によって制御していますが、支那、朝鮮人はそうではありません。
    ある民話を教えて頂きました。

    ある日、村人が雪の中で動けなくなっていた大蛇を見つけて、かわいそうに思って家に連れ帰りました。いおりの近くに置いて温めてやっていると大蛇は気が付き、そして村人を襲い食べてしまいました。

    この民話で私たちは、大蛇を責められるでしょうか?これが、自然なんです。朝鮮半島や中国大陸では優しいく、公平では生き残れなかった。こういった民族性だと理解すべきなのです。

    マスゴミによる倒閣運動、北からのミサイル、支那貨物荷からのヒアリ、支那公船による領海侵犯・・・私達は安倍総理を信じて支える。共に日本を守るという思いが大切だと感じております。

  15. 助さん、拡散 より:

    小坪先生、今日のこの日に取り上げていただいて、ありがとうございます。
    「かたきをとって….」この言葉を忘れません。ずっとそのつもりで生きています。

  16. 一郎 より:

    CHINAがさらに力を持てば、いずれ日本が【見るも痛ましい残虐行為】を受ける事は、必須と思いました。ウイグル、チベット、南モンゴルや南シナ海でのCHINAの現在の行為やこれまでの歴史が物語っている。

    7月2日、CHINA軍が日本海にしゃしゃり出て、日本領海に侵入し、津軽海峡・夏景色を楽しんだ。徐々に、日本がCHINAに取り囲まれている。

    北京を一瞬で消滅させられる抑止力を開発したい。

    • 一郎 より:

      津軽海峡・冬景色の歌詞の一部は、「さよならあなた、わたしは帰ります」。

      津軽海峡・夏景色は、軍艦で「ニイハオ日本、また来るアル」。

      CHINAの挨拶は、日本をなめきっている。

  17. 旧新人類 より:

    「北朝鮮は孤立している」というイメージの醸成も印象操作なんでしょうね。孤立どころか、技術や資金の後ろ盾や闇市場のネットワークがあるから、ここまでミサイル開発できたんでしょう。つまり、北朝鮮は他のrogue states と組んでいるんです。もう、半島有事どころか、第三次世界大戦勃発の可能性だってあると思います。本来ならば、事前にリスク想定して予防策を講じたりするのが当たり前ですが、おそらく何か発生しないと日本は動かない。その何かが発生する場がどこになるのかは、わかりません。国内かも知れないし、半島か大陸の在留邦人の身に降りかかる災難かも知れません。抑止力増強が間に合わなければ、せめて事後策のシミュレーションくらいはしておく必要があるでしょう。そこからの決死の反撃が新しい日本の出発点になるのかも知れない。

  18. NHK嫌いの爺 より:

    通州事件を取り上げて頂き、有難うございます。
    様々な分野に潜り込んでいる特亜工作員が、日本憎しの形相を露わに、日本弱体化工作をしている現況下、丁度80年前起きた盧溝橋事件、通州事件こそ、今まさに、日本人が学ぶべき歴史と思っております。
    特亜プロパガンダの拡散拠点となっているNHKには、そういった歴史を正しく報道することは期待できず、早々に解体して欲しいものです。

  19. 北九州市民 より:

    通州事件、残酷過ぎると思います。

    しかしながら、地球上で最悪の残虐事件は原爆投下であることも忘れてはいけません。

    原爆も通州事件と同様、非戦闘員20万人以上を無差別に殺害したものです。真珠湾とはレベルが違いすぎます。原爆の他にも東京はじめとした各都市への空襲で100万人以上が亡くなってます。ほとんどが非戦闘員です。

    鬼畜米英という戦時中の表現は、正に言い得て妙なのです。

  20. べこたろう より:

    この通州事件に関するSさんの証言は、何度読んでも正視に堪えない凄惨な内容です。
    ただし、シナ人とは、朝鮮人とはどんな人種なのか考えるのに非常に示唆に富んでおりますし、国民の安全を守るにはどうあるべきか考えさせられる証言と思います。

    現在の韓国外交でも見られる朝鮮人の事大主義と蝙蝠さ加減、一族郎党を皆殺しにして政権交代を繰り返したり人間も食糧としてきたシナ人の残虐性、巧みに情報操作するシナ人の狡猾さ、そして弱きに強く、強きに弱い点とか見てとれます。

    また、当時の日本人は列強国民としての誇りとともに奢りがあったのでしょう。
    その奢りからSさんが感じた通州の空気の変化を感じられなかったのか、それともシナ人が巧みにその空気の変化を隠したのか、この証言だけではわからない部分ではありますが、何かあればすぐに軍が来て鎮圧してくれるというという考えが居留民の大勢だったのではと感じます。
    実際は面積も兵数も膨大なシナに対して展開できる兵は圧倒的に足りていなかったのですが・・・・

    小坪先生は当時の世相についても触れられておりますが、北朝鮮のミサイル問題に絡めると歴史は最悪の形で繰り返す可能性があるのではないかと感じます。
    くだらない政争然り、ミサイル防衛体制が不十分ではないのに、どうせヘタレの北朝鮮だしな、ってどこか奢りがある人々。
    そして、朝鮮スパイやシナ共産党の命令一つで国民皆兵にできる法律があるシナ人が大量に日本国内にいる現実。
    小坪先生も憂慮されておられるでしょうが、北朝鮮のミサイル+朝鮮人スパイの暗躍+シナの暴発という最悪のシナリオが発生した時、この日本国内において通州事件の比ではない多くの日本国民の血が流され、臓物が撒き散らされる事になりはしないでしょうか。

    通州事件は風化させてはいけない事実であり、このような凄惨な事件が起こらないようにするにはどうすべきか今を生きる我々が真剣に考え、実行する事が、当時無念の中で無残に殺されていったご先祖様に対する最大の供養なのではないかと考えます。

  21. 読点 より:

    Tさんのような「中国人」がいた事実は忘れてはいけない。
    しかしその一事を持って、起きた現実を抹消してはいけない。

    2012年国を挙げて大々的な日系企業襲撃を起こしながら、中国人は平然と日本へ渡航していた。その数、なんと前年同月の9.8%増(2011年9月112,493人→2012年9月123,500人*)。これが中国人のメンタリティーだ。以来、生活スペースで中国人を見かけるたびに、より緊張の高い有事においてこの人はどんな行動を取るのだろう、国防動員法が発令されたらどうするのだろうかと不安になる。

    現在安倍政権は移民政策を進めていて、違法合法混ざり合い中国人が日本国内で自治区を築き始めている。例え中国に住まわなくとも、第二第三の通州事件は起こりうる。多民族共生なんて、絵空事ですよ。

    *http://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/data_info_listing/pdf/121019_monthly.pdf

  22. ppng より:

    通州事件の体験談、読破致しました。やはり、正視に堪えない残虐非道なものでした。
    国家としてなめられていたから、必要な対応をしてこなかったから、より残酷な結果につながったという小坪先生のご指摘は、正にその通りであると思います。北朝鮮がミサイル発射実験を行う度に、政府は非難の言葉を並べ、米国は「諸国と連携して圧力をかける」などと言いますが、なぜこんなにも悠長なのだろうと思わずにはいられません。北朝鮮・韓国・中国は約束を守らない国、自分達の利益のためだけに他国の領土や国民をいくら蹂躙しても良いと考える国なのですから、交渉など不可能なのです。多少の反撃を覚悟してでも、北朝鮮の軍事拠点などを攻撃・制圧しておかなければ、日本や米国の本土に核ミサイルが着弾し国民におびただしい犠牲が出ることは容易に想像がつきます。日米両政府にも、憲法の呪縛や政権批判への懸念など、様々な事情もあるのは分かりますが。

    以前、こんなことを言っている人がいました。「奴ら(朝鮮人や中国人)に文明は早すぎる。約束とか契約とか、よその事情を考えるとか、そんなのは人間にしかできないことだ。奴らはまだ人間と呼べる段階まで進化していないから、約束とか契約なんて高度なことが理解できるわけがない」。私は福祉従事者としてこのような言葉に賛同したくはありませんが、まともな反論ができないのも事実です。それほど、通州事件や、朝鮮人・中国人の振る舞いというのは、この言葉通りであるからです。

    以前にも一度書いたような気がしますが、日本社会において優しく正義感がある(とされる)方ほど、「(北朝鮮・韓国・中国とは)国は仲良くないけどいい人もいるよ」と主張される傾向があります。外国がどんな差別表現や挑発行為をしてきても、ご自身は差別表現をせず冷静な言葉を述べられる姿勢には敬意を表します。しかし、外国人に対する理解が乏しいと言わざるを得ません。
    外国人と接する時、「いい人」「悪い人」というのは所詮私達の主観であり、相手には関係のないことだという認識を持たねばなりません。例えば約束を守ることは、私達日本人や欧米人にとっては当たり前のこと、あるいは美徳とされますが、一部の国では正直に約束を守る人は間抜けで、相手を出し抜いて狡猾に立ち回る人こそ賢いとされます。価値観や精神性というのは国や民族によって180度違うことも珍しくなく、自分達の主観に基づいて「いい人もいるよ。全員を悪い人だと決めつけないで、仲良くしよう」と主張することは、あまりにも無警戒な、いかにもお人好しな日本人らしい考えだと言えます。「いい人」という価値観を相手に押しつけることが、そもそもある種の暴力だということに気がつかないのですから。

    他の方も書いていらっしゃいましたが、現状に油断していれば第二、第三の通州事件が起こることもあり得ると私も思います。
    北朝鮮はミサイルを発射し、中国は津軽海峡を武装船に航行させて、「日米相手にどこまでやって大丈夫か」と探っている状況です。現憲法下では武力攻撃を受けるまでこちらから反撃はできないのですから、ミサイルの着弾位置の不運により漁師さんなど日本国民の命が失われでもしない限り、こちらは武力行使できません。それを分かっているから、あちらもこのような挑発行為を繰り返しているのです。今の状況こそ、正に「国家としてなめられている」状況ではありませんか。

    日本の治安は、これだけ不法入国者が多い現在でさえ、規律正しく法や約束を守る日本人しかいない社会を前提としているために穴だらけと言って良い状態です。
    第一に、外国ではそうそうできない不動産の完全な取得が可能です。わざわざ入植地や前線基地を作って下さい、と言っているようなものです。第二に、入国管理法で規定されているにも関わらず、政治活動目的の環境テロリストが観光と偽って入国し放題。生活保護目当ての外国人も野放しで、最近では中国人が日本の医療を受けるために国民健康保険にフリーライドしているという話も聞きます。小坪先生が大々的に扱われていた、扶養家族がいると申請して税制優遇を受けるやり方もこの一部です。入管法では、生活基盤が築けない外国人には入国を許してはならないはずですし、生活基盤が維持できなくなったら滞在し続けることはできないはずです。

    一条校ですらない朝鮮学校への補助金支給と、不支給に対する大阪地裁の朝鮮学校側に味方するかのごとき判決。不法入国者が起こした強姦事件では、被害者の体に加害者の体液が付着していたにも関わらず「性行為以外の可能性もある」などと無罪判決。二重国籍者が国会議員になることができ、何の処分も情報開示義務もない。そもそも、外国人が公務員や法律家になれることが異常です。
    このまま彼らの思い通りにことが運べば、我が国は憲法や法律に基づいて堂々と合法的に日本人を差別することが許され、殺人や強姦をしても被害者が日本人ならば無罪となり、日本人に生まれただけで悪とされ虐げられる国に変えられてしまいます。外国人を見たら悪魔と思え、などとは言いませんが、自分達の利益や快楽のために私達を利用したり虐げたりする者達が実際に存在するということは、この通州事件を通じて知っておく必要があります。

    このような悪逆非道の行いが私達やその子供達の世代、それも日本全土に再現されることは、絶対に許してはなりません。通州事件は、あまり小さな子供達に教えるのは内容が内容だけに良くないでしょうが、中学生にもなれば必ず学ばせるべきです。この事件を隠して無理に外国と仲良くしようなどと言うのではなく、「こんな恐ろしい歴史を持つ世界で、文化や精神性の違う人達と付き合うにはどうしたらいいだろう?」と考えてもらうことが、これからの子供達のためになると私は信じます。
    安易に移民受け入れや多文化共生を謳う人々には、自分達の大切な妻や子供がこのような目に遭う可能性が高まるとしても同じことが言えるのかと問い質したい。外国人との付き合い方を考える時、家庭環境や貧困などが原因で問題を抱えることになった自国の人達と同じように考えてはなりません。「多文化共生」という新時代を象徴する暴力が、一日も早く過去の流行になることを切に願います。

  23. 東京都56歳 より:

    >いま我が国を取り巻く環境は、
    >実は通州事件が勃発する前夜に近い。

    小坪さんの認識に同感です。

    Chinaが日本の周りで、
    今現在、
    何をしているのかという事実を、
    正しく国民に伝えれなければ、
    現在の日本が置かれている状況について、
    国民は正しく認識できません。

    残念なことに、
    今のマスメディアには、
    その「本来的機能・目的」は、
    どうやら望むべくもない。

    問題ですらないことを、
    ワイドショー的に繰り返す、
    すでに、
    マスメディアは、
    ゴシップメディアに、
    なり下がったのでしょう。

    「通州事件前夜」であることを、
    正しく認識し、
    正しく対処しなければ、
    歴史は繰り返されてしまうのか。

    それだけは避けなければならない。
    そのために、今の私にできることは、
    安倍政権を支持することしかない。

    頑張れ!安倍晋三!

    ゴシップメディアは、
    必ずや、駆逐されるであろうし、
    日本国民も、必ず、覚醒するはず。
    そう、信じています。

  24. スレチキジコピ@失礼します より:

    仙台の市長やその他反日日本人やその他反日害国人にも教えてあげないといけませんね。
    そして総務省がこの方針を崩さないでくれるならいいですが、来月には手のひらかえしそうで不安です。(NHKは9月から徴収したいようなので)

    高市早苗総務相、NHKにクギ 「ネット徴収という以前に、NHKが公共放送として適当か検討すべき」
    ttp://blog.m.livedoor.jp/dqnplus/article/1934182

    「お願いですから 障害者はこの世からすべて消えてください」→NHKが障害者を全否定する意見を紹介し物議
    ttp://blog.m.livedoor.jp/jin115/article/52185984

    【動画】獣医師養成には臨床実績のある教員が必要だが、獣医師会が協力を拒否 ⇒ 加計学園側「海外などから70名以上確保しました」@テレ東
    ttp://blog.m.livedoor.jp/honmo_takeshi/article/51787722

    茨城県の中3生女子が自殺→学校や教育委員会が「思いがけない突然の死」「死亡事故」と、いじめを隠蔽していた事が発覚・・・
    ttp://blog.m.livedoor.jp/jin115/article/52185998

    加害者を罰してたらかなりの数になるから隠蔽したがる気持ちは分かります。
    でもやれ。そいつらは犯罪者なのだから。っと思います。

  25. たつまき より:

    47年も生きてきましたが自分の認識の甘さに愕然とします。 っと言うより今まで受けたきた教育や得てきた情報に欠落か多い事に気付かされました。

  26. スレチキジコピ@失礼します より:

    今月は戦争関係の話題が多いでしょうが、メディアのクズさにも拍車がかかるのでしょうね

    朝日新聞、また訂正お詫び 読者投稿「終戦時引き揚げ女性の“中絶手術”」に関する記事 読者が指摘、投稿者の記憶違い
    ttp://blog.m.livedoor.jp/honmo_takeshi/article/51804907
    4: 名無しさん@涙目です。(佐賀県)@?(^o^)/ [ニダ] 2017/
    これも
    確認に一層注意します 声・「語りつぐ戦争」:朝日新聞デジタル
    http://www.asahi.com/articles/DA3S13065448.html

    30: 名無しさん@涙目です。
    >「ご主人であろうと」を削除

    これが入って無かったらまったく別の意味になるよね

    82: 名無しさん@涙目です。
    >>36
    これ
    なぜ伝聞の体験談の間違いを読者は指摘できて
    新聞社はどうやって誤りを確認したのか?
    何もかもが意味不明すぎる

    民進党・姜英紀「韓国を含め、アジアのほとんどの国は戸籍制度を廃止しています。日本でも廃止すべきか、議論の余地がある」
    ttp://blog.m.livedoor.jp/honmo_takeshi/article/51804358
    9: あなたの1票は無駄になりました@?(^o^)/ 2017/08/01
    アジアの戸籍が廃止されてる理由を上げずに、そうですよと言われても。

    25: あなたの1票は無駄になりました@?(^o^)/ 2017/08/01

    厳しくするべき

    全てが最悪の想像を絶する地獄
    ttp://syouji.m.blog.jp/article/1066597515

    日本でもコンクリ事件ありましたが、それを彷彿とさせる韓国の事件です。
    特に被害者攻撃、加害者擁護を見る限り加害者はもちろん、加害者擁護者も処分しないといけないと思いました

  27. Tanaka より:

    私は47歳で、通州事件自体は今更珍しいとも思えませんが
    それでも知らない事が未だにあること、
    更には当時の人物の再評価が必要と考えています。
    例えば東条英機氏ですね。

    日米開戦時に、日本に滞在中の移民していた青年たちに
    『アメリカ人として戦いなさい』と送り出した事や
    刑執行直前の遺言とされる、世界情勢に言及した言葉とか。

    高校時代に社会担当の教師から
    『中国人はとことん話し合うが、解決できなかれば
     とことん殺し合う』といった感じの言葉を聞いたのを覚えています。

    当時の同級生たちの殆どは、大東亜戦争(という言葉自体も知らない)も
    兵器関係の事も全然知りませんでしたね。

    中学時代には、従軍経験者の方々が書いた軍での体験談などを
    読み漁っていた私には、何故無関心でいられるのかが不思議でした。

    数日前に改めて【通州事件】というキーワードを目にして
    尼港事件や葛根廟事件についてもWikipedia等を閲覧していました。
    気力があれば、英語版の方も漁りたいのですが。
    今は自動翻訳がありますし、十分ではないにしても
    他国がどのように見ているかも参考にはなりますので。
    沖縄戦や特攻に関しても同様ですね、
    見方が全然違う部分があります。
    まあ米国人は【俺たちは正しい】といった考えが
    ベースにあるのでしょうが。

    知らない方もいらっしゃると思うので
    自身の未熟さ・知識の無さを棚上げした上で
    今回の内容を書いた事を明記しておきます。
    ちょっと書くタイミングが遅かったのかも、と思いますが。

    さて脱線しましたが、一番聞き捨てならない部分が以下の文言です。

    当然のことながら、本エントリは18禁とさせて頂きます。
    強姦・殺害・虐殺のオンパレードであり、特に女性の方は直視できないと思います。自信のない方は、読まないでください。それでも歴史を直視する方のみ、ご覧ください。

    注意喚起・警告明記は大事ですし配慮が必要なのも当然です。
    特に、画像が含まれる場合は18禁とならざるを得ないのも納得できます。

    ですが、どのような悲惨な最後であれ、どこの国の方々のものであれ
    それは亡くなった方々の最後のお姿です。
    目を背けていいものではありません。

    心臓関係や精神的に負担が大きすぎる方々に
    無理矢理読ませるのは言語道断ですが
    日本人として、知らずに済ませていい事柄でもありません。

    同様に九州大学生体解剖事件(相川事件)についても
    直視しなければいけないもの、知らずに済ませていい問題ではないと
    考えております。

    【代用血液】というキーワードから、当事者は真剣に研究をされていたのでしょうが
    現時点からの視線では許されるものではないのは当然ですが
    当時の国民感情や取り巻く状況も含めて考えるものであり
    当時の人々の視点で【許されることなのか?】という点も
    知らねばならない事だと考えます。

    日本人として以前に、人として知らなくても良い事なのか?
    様々な方々の感想を知りたいと思料しました。

    以上です・

  28. […] トを英訳してカナダ州議会に送ってやれ https://samurai20.jp/2017/07/tuusyuujiken-2/ […]

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