今日は、阪神淡路大震災から20年目を迎えました。
私はあの日のことは今でも鮮明に覚えています。
平成7年(西暦1995年)1月17日 火曜日。
私は今36歳ですので、当時は16歳、ちょうど高校生の頃のことでありました。
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あの日。
インフルエンザにかかってしまい、病院の混み合う待合室の中、茫然とテレビを見ていたように記憶しております。
(別の災害ではないと思います。)
まるでアニメのような、衝撃的なシーン。
どう言っていいかわからず、言葉にすることもできませんでした。
最初は、子供だからでしょう、それこそ漫画のワンシーンのようでワクワクもしたのです。
その映像を前に、徐々に不気味さが忍び寄り、怖くて怖くて、泣きそうになっていました。
高校生にもなって泣きそうになっている(インフルエンザの)私を見て、「なーに半泣きになってるの?注射こわい?」と看護婦さんが優しく声をかけてくれました。
あまりに茫然としているので「僕、大丈夫?」と心配もされました。
看護婦さんやお医者さんから見れば、職場でありますから、ゆっくりテレビなど見ていなかったのでしょう。
(特に初報は大きな扱いではなかったように思います。)
「だって、地震が、、、地震があって、大変なことに」と。
インフルでぐったりしていて、それ以上は言えませんでした。
お医者さんも「そっか、ちょっと揺れて見えるか・・・。」と。
ただただ、不気味で、怖くて。
あそこに人が住んでいて、火の中に人がいて
車があって、建物があって、それが壊れていて
その中に人がいて、、、
そのことが、ただただ怖くて
誰かなんとかして、助けて、と思いました。
病気でぐったりしていたこともあり
(涙こそ出ていないと強弁しますが)
本当に不気味で怖かった、のです。
これが、阪神淡路大震災に
(モニターを通してですが)触れた
あの日、少年であった私の姿です。
あの震災において、多くの方が亡くなりました。
ご冥福をお祈りすると共に、哀悼の誠を捧げます。
ご家族を亡くされた方もおられます。
その悲しみ、孤独、苦しみは察するに余りあります。
<阪神淡路大震災>
死者 : 6,434名
行方不明者 : 3名
負傷者 : 43,792名
住家被害 : 全壊104,906棟
半壊144,274棟
全半壊合計249,180棟(約46万世帯)
一部損壊390,506棟
火災被害 : 全焼 7,036棟
焼損棟数 7,574棟
罹災世帯 8,969世帯
その他被害 : 道路7,245箇所
橋梁 330箇所
河川 774箇所
崖崩れ347箇所
<一人の政治家として。>
今日、この日ゆえ、振り返ることがございます。
いま、一介の市議会議員ではございますが、
一期も務め上げておらぬ新人の身ではございますが
政治家として皆様の前に立たせて頂いております。
私の責務とは、政治家の職務とは。
あの日、ただの子供であった私が感じた恐怖を、そそぐのが私の仕事になります。
人々を導き、安心させ、笑顔を守る。
「自助・共助・公助」と申します。
これは命を長らえる上でのフロー、システムになります。
自助とは、自ら頑張って命を長らえること。
被災直後は、周囲の人も行政(警察力・自衛隊を含む)も手助けができません。
最初の数時間、長ければ一日近くは、自らの力で生き抜いて頂かねばなりません。
共助とは、家族・地域コミュニティの力に頼り、
共同体で身を守って頂くことを指します。
自ら命を永らえたのち、共に力をあわせて九死に一生を得た命を守りあって頂きたい。
長ければ数日かかります。
公助とは、行政サイドによる保護を指します。
できる限り3日以内には、このフローに到達したく思います。
しかし行政力にも限りがあり、万全の体制を整えたとは言え「すぐ」とはいきません。
仮設住宅・継続しての安定した炊き出し、警察力または自衛隊の助力を願い、治安の維持・確保。
残念ながら、大規模災害ともなれば、ここまで数日かかることも想定せねばなりません。
<市議会議員として>
地域を護る防人として。
これは市議の仕事でもございます。
?自助
まず九死に一生を得てもらわねばなりません。
火元の確認、防災意識の向上、私の所属する総務委員会では消防を所管しますゆえ、救命処置の市民への案内・指導を徹底して参ります。
また、行橋市では遅ればせながら「海抜○m」の表示を市内各所に設置、防災マップを策定し市民に広報。
委員会でも委員らより指摘を受け、配布・周知に工夫を凝らしていっております。
?共助
・自主防災組織を各校区に設置。
実態としては、区長会(自治会)と組織は似ているのですが、被災後、数日にわたって地域単位で身を守って頂くための組織です。
災害発生時に必要な装備・資材についての説明、また保管場所を説明すると共に、「自助・共助・公助」についての説明を講師を呼び徹底しました。
私も出席させて頂き、不明点については質問すると共に独自で勉強。
・地域コミュニティの強化
さらに小学校を中心にPTA等、「父兄(及び子弟)」に周知、
区長会を中心に、祖父母の世帯に周知、
これらの連絡網をさらに強化・徹底して頂くと共に、
運動会・祭り・各種アメニティ(いきいきサロン等も広義では含む)
世代を超えたふれあいを通して、コミュニティのシナジーを強化してきました。
・・・シンプルに言えば、公務のみならず、
できるだけ一緒に参加し、楽しく和気あいあいと過ごす。
・防災上の危険箇所の点検・整備の提案
防風林の老朽化などもあり、山崩れの危険個所を区長会と共にピックアップ。
なにぶん多額の予算が必要とはなりますが、なんとか事業化を執行部に打診。
長い計画にはなりそうですが、実現を目指す。
また他校区にはなりますが、砂防ダムの必要個所については県を巻き込んで、実施を求めております。(同じ会派の井上議員)
・予算処置と保守活動
これら予算処置が必要な(本来、新人であれば「対応不可」な)案件につきましては、各種保守活動で知り得た先輩議員らの政治力を少しだけお貸し頂く場合もございます。
知識面・能力に劣る我々ではありますが、多大なフォローを頂くことで「それでも諦めず」予算獲得、及び事業化を目指して参ります。
えぇ。
これら(人によっては激しく映る)保守活動も、地域の活性化に大きなパワーとなっていることを、地域住民・後援会は理解してくれています。
ゆえに、ここまで無茶苦茶な、政治活動が許容されております。
ある有権者からは「(保守活動の)危険手当で予算とってきよるようなもんやな」と笑われました。
私は「一枚しかないコイン(命)ですが、倍率の高いところに一点張りしてる博徒に過ぎません。」と笑って返しています。
私の後援会は、最悪の場合、「何かある」ことも覚悟で支援してくれている方もおられます。
だから、こうやって働くことができます。
?公助
・福祉部との情報連携
私は昨年まで文教厚生委員会において副委員長を拝命しておりました。
当時の福祉部長らと委員会において協議し、逃げることの難しいお年寄りをサポートするため、地域の情報と福祉情報の一部を連動。
いまは総務委員会(消防を所管)に異動しましたが、今後は福祉のみならず消防とも統合管理されていくと思います。
市民の皆様からは「え?」と思われるやも知れませんが、個人情報保護法の兼ね合いやシステムの作成年度が異なるため、行政側にある情報の全てが連結されているわけではありません。(でした。)
今後も完全統合は(法的な兼ね合いもあり)不可能かと思いますが、防災面から必要な情報の統合については、システム面のアップデートも含め、執行部に強く訴えて参ります。
・自衛隊について
激甚災害の場合は、自衛隊の出動・助力を仰がねばなりません。
自衛隊は防災組織ではなく、国防力であり、災害救助のため存在しているわけではありません。
しかし、それでも最後は頼らねばならない。
常日頃より、自衛隊の必要性や有難さ。
国防とは何か。
国が亡びれば、行橋も滅ぶのだと訴え続けております。
現在は、基地対策特別委員会 副委員長を再度、拝命いたしましたので・・・
「少しでも自衛隊が働きやすい」環境づくりを政治面より強力にバックアップさせて頂いております。
ここは「頂きます」という未来形ではなく、「頂いております」という現在完了形・進行形で表現させて頂きます。
地元代議士が防衛政務官・安全保障委員長・防衛副大臣を拝命してきたこともあり、国政においてのご助力を賜ることで、「自衛隊を具体的に支えたい」と全力で邁進してきました。
また、当自治体執行部が、団司令を始め各郡司令らと緊密な人間関係を築けるよう、できる範囲のアクションを起こしてきました。私個人も徹底した人間関係を築くことで、国防の現場を知ると共に、自らの職権において何がなせるかを真剣に考えてきました。
未だ勉強中の身ではありますが、少しでも一つでも、役に立ちたいとアクションを継続して参ります。
私は、このような活動に「反論できぬ自衛隊」に、
反論できぬことをわかってこのようなことをすること、許せません。
心を傷つけ、痛めつける以外の目的はあったのでしょうか。
甚だ疑問です。
何が言論の自由か。
ただの人でなしではないか。
日頃、守られる国民として何が恩返しできるだろうか。
許せないと思ったらシェア。
おかしいと思ったらRTしてください。
ひとつひとつの声は小さくとも、積み重ねれば世論を動かす。
物言えぬ自衛官に代わって
物言う政治家として、「おかしい。」と言いたい。
<築城基地>
行橋市が面積の多くを占める築城基地。
我が第八航空団は、朝鮮有事・対CHINAを睨む「日本の矛」であります。
沖縄にF15を送り出しますが、世界最強の対艦攻撃機ともいわれるF2と15、二種の戦闘機を運用していた唯一の基地です。
制空戦闘機の15と、艦船に強いF2を共に運用、シンプルに言えば「うちからだけは、戦爆混合」であがれるということです。
専守防衛とは、やられっぱなしではなく。
最初に手を出せないだけであって
「撃たれたら、ちょっと考えて、撃ち返す」だと認識しております。
緊迫する東アジア情勢においては、防空の要のみならず「専守防衛」に基づき、「撃ち返す」基地だと認識しております。
ゆえに、旧称コミンテルン日本支部こと、日本共産党からの政治的なアクションも非常に強く、地盤としても左巻きの者も多い自治体です。
これらに対し、正面から対峙し、自衛隊を少しでも活動しやすくする、日本を物理的に守る職務を、気持ちよく行って頂けるよう、、、
私も命を懸けて、戦います。
自助・共助・公助に基づき、市議として職責を果たす。
そして、公助の最後の要である、自衛隊について、気持ちよく仕事に励んで頂けるよう、着実な歩みを進めてまいります。
これが、あの日、病院で半泣きになっていた少年の、いまの姿です。
最後に有名なコピペを掲載して、本稿を締めさせて頂きます。
【女子高生の怒り
?ここの人らは歩いて来てくれはったんや?】
http://kokorodo.net/e1080
2年前旅行先での駐屯地祭で、例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生と思しき少女が向かっていく。
少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で…云々」
少女「で、何しに来たんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる…云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や!!
寒い中ご飯作ってくれて
風呂も沸かしてくれて
夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのも…ここの部隊の人や!!
私は、その人たちにお礼を言いに来たんや!
あんたらにわかるか?
消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が…
ここの人らは歩いてきてくれはったんや…」
最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった…
団体は撤退・・・
彼女が門をくぐった時に守衛さんが社交辞令の軽い敬礼ではなく、直立不動のまま敬礼していた・・・
=========
地方議員とは、地域の守り神。
土地神のようなものだと思う。
最近では、遠方にばかり出ていっているが、力をつけ故郷を守りたい。
激甚災害ともなれば、死者・負傷者は出てしまうだろう。
しかし、一人も死なせたくはないのだ。
ゆえに、俺はなんでもやってやる。
そう思って、心の底から思って、だからあの日、立候補したんです。
これが、地方議員の矜持。
地域を守り、人を守ることの重み。
だから私は、この町の市議会議員になったのです。
ゆえに戦うのです、守るために。
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最後に。
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記事を書くたび、こちらでも投下します。
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コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)
私は当時、生後四ヶ月でした。当時のことは覚えていませんが、震災の報道とともに年を重ねました。とくに印象的だったのは、最期の仮説住宅退去者です。ちょうど2000年でしたから、時代が一区切りついたような気がしました。しかし、絶対風化させてはならないと思います。
さて、この画像の人々ですが。。。
えーっと、、、あなたがたは自衛官に何か個人的な怨みでもあるのでしょうか?
例えば、あなたがたの家族や恋人が自衛官に危害を加えられたとか、、、
それなら何となく分からないでもないですが。
ないですよね、、、多分。
当時、二十代後半の私でもショックで泣きそうでしたよ。
当時私は大学生でした。神戸に友人がおりました。
海を隔てた香川県でも、今でも思い出します。
あの、下から突き上げるような揺れを。
布団から体が飛び上がったかと思うような感覚を。
幸い、私の友人は試験勉強中で別の部屋で寝ていたので助かりましたが、
後日「寝室でいつも通り寝ていたらブラウン管TVが頭を直撃していたと思う。」って言ってました。
母の友人の息子さん(同じく大学生)は、震災後連絡が取れなくなりました。
携帯電話の普及していなかった当時。
「どこかへ避難して助かっているだろう」と言う親の希望もむなしく、数日後、亡くなっていることがわかりました。それからの親の落胆ぶりは言葉では表せません。
阪神大震災後、私は3つほど大きな震災を経験しています。
東京にいる時は子供と東日本大震災も経験しました。
しかも自分、当日にインフルエンザ発症。40度の熱で眠れず、夜中大きい余震が来るたびに、「この建物が崩れたら死ぬだろうな」と考ていたことを思い出します。
電気とインフラが止まると、首都であってもなんて脆いんだろう。と言うことを体感しました。
だから、余計に昨今の選択と集中という考え方は危険だと思います。
集中部分が破壊されたらどうするのか。
そんなわけで我が家のパントリーの中は、いつも10日分の食品のストックがあります。東日本大震災の時、普段の食品ストックがあったおかげで半月ほどしのげたので。(買い物に行ったところであのヨーカドーが開店後1時間後に閉店したほどですが。・・・本当に何もなかったので。)
最近の「何でも人頼り、人任せ」という風潮には違和感を覚えます。(特に50代以上に顕著です)
家は全壊して両親を失いました。私の部屋は離れた所にあったので傾いただけで助かりました。近所の方がすぐに部屋まで来てくれて助け出されたので、そのまま通りがかりの車を止めて芦屋警察署に行きました。住所を言っておいたからだと思います。消防のレスキュー隊が二人来て父と母は(ほんの)3時間ほど後に出して頂きました。何日も埋まって助け出されなかった方達がいたのを知ったのはずっと後になってからです。そんなこと全く知らなかった私は「だから直ぐに来てと言ったでしょう!」と食ってかかりました。随分後になって、助けることが出来なかったと心身症になられた救助隊の方達のことを聞きました。ごめんなさい、本当にごめんなさい。あの時のレスキュー隊の方達にずっと申し訳なく思っています。村山首相が直ぐに自衛隊を被災地に入れなかったとか、貝原知事が県庁に行くまでに時間がかかって出動要請出来なかったとかも後で知ったことです。
あの爆撃を受けて破壊されたかの様な街を歩いて自衛隊車両を見かけると私達は守られていると有り難く安堵したものです。自衛隊は日本の宝です。救助隊の皆様にも感謝申し上げます。
神戸からお礼に来た女子高校生についてのは、私も以前読んで、目頭が熱くなりました。
「チャンネル桜」 、掲示板より。
(=まともなTV) が出現した喜び。
町工場の親方 2004-10-21 20:54:08 No.75874
平成13年に出版された、夏見正隆著 「僕はイーグル.2」 徳間書店 は面白い小説でした。航空自衛隊、小松基地に所属する、F15・Jイーグル戦闘機乗りの若い二人の女性パイロツトを中心に、北朝鮮からの攻撃に対する、空自の防衛の物語が展開します。内容は面白いものの、日本政府、関係諸官庁の実情に対する、ブラツクユーモアと言える、風刺がきつく、読んでいて可笑しさと同時にやりきれなさを強く感じさせられます。
また、中国、韓国、日本のマスコミが激怒するような筋と描写も多く、もし 「朝日(チヨーニチ)新聞」 が書評をしたとすると、最近出た、前野徹氏の 「亡国日本への怒りの直言」 PHP と同じ、最悪の書、と決め付けるのは間違いないと考えます。この中で印象深かった部分をご紹介いたします。これを読むと 「チヤンネル桜」 の開局がいかに大切なことかと、いうことを改めて感じます。
夏見正隆 「僕はイーグル 2.」 第三章 <西日本海TV> より 徳間書店
・・・・・「でもさ、沢渡さん、小松基地を取材出来たのはいけれど、自衛隊員を少しほめ過ぎだって、デスクがいっていたよ」 「ほめ過ぎ?」 「うん、あなたが取材で留守の時、ラッシュを見て言っていた。自衛隊員というのは、何か一つ間違った存在として描かなきゃいけないのが業界のルールだって。ヒーローにしちゃいけないって」
「ねえ道振君。それ、おかしいとおもわない?」 有里香は、缶を口から離して言う。 「おかしいってーーうーん」 有里香は日頃の疑問を吐き出すように、年下の道振カメラマンに 「ねえ」 と質問をぶっつけた。 「ねえ。だって、日本の安全保障を担って、体を張っている人たちなのよ。なぜ自衛隊員たちを 「何か一つ道を誤った人達」 として報道しなくちゃいけないの?日本がどこからも邪魔されずに海外と取引して繁栄していられるのは、いられるのは、誰のお陰だと思っているの?
まさか周辺諸国が全部平和を愛する良い国ばかりだから、この国は戦争に巻き込まれずに済んでいるとでも言うわけ? 自衛隊も安保も米軍も、騒音の元凶と税金の無駄遣いだから要らないとでも言いたいわけ? 」 「沢渡さん。まずいですよ」 長身の道振は、声をひそめ 「そんなこと言っちゃ駄目ですよ」 と有里香にかがんで言う。 「どうしてよ」 口をとがらせる有里香に、道振は小さな声で、「いいですか。報道部員は、自衛隊をほめちゃ駄目です。「どうしてよ」
「昔からこの業界ではそういうことになつてるんです。いいですか、自衛隊をほめたり皇帝したりすると、そこいらしゅうの市民団体とかPTAとかが怒りだして、ニュース番組のスポンサーの商品を集団で買わなくなるんです。」 不買運動ってことーー?」 「そうです。報道の内容が原因で不買運動なんか起こされたら、民放のプロデューサーなんか、これもんですよ」 道振は、自分の喉を掻き切る振りをした。 「僕だって、苦労してようやくTVの仕事につくことが出来たのに、そうなりたくなんかないですよ」 あなただってそうでしょう? という顔で、道振は有里香を覗き込んだ。
「沢渡さんも、もう少しおとなしくしたほうがいいかも知れませんよ」 「じゃ、道振君訊くけどさ。この間の日本海のエアバス撃墜事件で、捨て身で旅客機を護ろうとして、撃墜されたパイロットのことどう思う?」 「どうって・・・・」 「彼今ーー」 口に出すと感情が高ぶるような気がして、有里香は思わず一呼吸する 「−−かれは今、警察にあらぬ疑いを掛けられて、不当に拘束されているわ。命懸けで人を助けようとしたのに、業務上過失致死傷だなんて、ひどいと思わない?」 「うーん・・・・。でも、しょうがないんじゃー」 「どうして」 「だって、自衛隊員に同情したら、この業界で干されちゃうかも知れないしーー県警のやることを批判なんかしたら、記者クラブから追い出されて記事も取れなくなっちゃうだろうし・・・・」 「−−もういいわ」 有里香は鼻をすすると、コーヒーの缶をゴミ箱にカンと放った。 「仕事に戻る」 と道振に背を向ける 「あ、沢渡さん。一緒に食事しませんか」 「「食欲ないわ。仕事する」 ・・・・
早いもので、もう20年ですね。
あらためてお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りします。
私は自治会役員の端くれとして地域のお手伝いさせて頂いています。
役員会などの会合などで何時も頭を悩ましネックとなるのが、個人情報保護法です。
まさかの時の共助、その為に会長初め役員の方々が活動されています。
にも関わらず、個人情報うんぬんと言って名簿を拒否される方が一概には言えませんが、若い方に多いいようです。
また、私達の地域でも高齢者の一人暮らしが年々増加しているのが現実です。
高齢者の方を守るのも地域、まさに共助ですが、困った事にその個人情報保護法を楯に名簿拒否される高齢者もおられるのが現実です。
しかし、中には遠く離れて暮らすご自分の息子さんの住所、連絡先まで記載される方もおられます。
拒否されるもされないも、それはそれで個人の自由でしょう。
私が一番言いたいのは、災害時しかり、福祉しかりですが、ボランテァで動く役員の事はさて置き、名簿拒否されたその様な人に限って
何か事があれば、「なぜ救助に来なかったか」などと言われます。
自分の都合で拒否したのにも関わらず、「被害者だ、被害者だ」と叫び、要は原因があって結果があるのに、、、。
挙げ句の果てには訳のわからない弁護士までつく破目になってしまうのが落ちです。
北星学園と植村問題を彷彿とさせられます。
横の繫がりが薄れ、立ての繋がりしか見えて来ない、横の繋がりがあってこそ共助なのに、もはや共助という言葉さえ薄れていく気がしてなりません。
そら恐ろしい物を感じます。
戦後70年の日本おいての問題噴出の原因は、戦後において教育の分野で捨ててはならない部分まで捨ててしまったつけが
今、回って来ているのではないかと思います。
女子高生の怒りは私も以前拝見した事があり、胸に込みあげてくる物を感じました。
たくさん言いたい事はあるのですが、そもそも自衛隊の存在さえも拒否している人達は自衛隊の意味すら理解していないという事です。
まあ、日本に事あらば、どこの旗かは知りませんが、旗持って横断幕持って行進している勇気ある皆さんがきっと
矢面に立って日本を護ってくれる事でしょう。
極論、要は世界が見えてないと言う事でしょうね。
311の時もでしたがそれ以外の災害の時にも、かならず自衛隊が助けに来てくれると思っているから、なんとか頑張れました。
彼ら、彼女らはどんなに苛酷でも助けに来てくれます。
国民の安全を護るための日本における最上級のプロフェッショナルなんだと思っています。
何か起きたとき、彼ら彼女らは私達も反対派も必ず助けてくれます。
災害でも有事の際でも素人がボランティアでにわかで動けるものではありません。プロだから的確に動けるんだと思います。
故に大切な自衛隊を侮辱するのは悲しいことです。
反対派は言葉のマジックに酔いしれ現実をみていません。破綻しています。
それでも災害から有事から自衛隊の方々はみな助けてくれるんですよね。
本当にありがたい。拝みたくなります。
3.11以降、芦屋基地に間借りしていて訓練が満足にできなくて困っていたブル?に築城基地の司令が救いの手を差し伸べてくれたんですよね。
304SQの移動は三沢にF?35Aが配備されてからになるんでしょう。
一昨年は地域の自主防災隊の消防隊に参加していましたが、防災訓練の参加率は
東海地震が来ると言われている地域でも高くないのです。
自宅から津波避難タワ?までのルートの確認とか危険な所の確認なんてこういう
訓練がないとやらない人の方が多いですからね。
備えあれば憂いなしです。
阪神大震災のときは大学生でした。期末試験の勉強を夜中までやっていて
明け方に寝付いた途端の出来事でした。夢か現実か分からず夢中で逃げました
焼野原になった神戸の街。自衛隊への出動要請が遅れたことは、後から知りました
村山政権だったこと。「自衛隊からの食糧はもらうな」というデマが飛んだこと。
救助体制が整わず、山口組の配給トラックにみんなが群がったこと。
あれから20年、気が付けば鬼女になってました(笑)
上京後は東日本大震災にも遭いましたが、しぶとく生きていますよ。
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