令和3年9月7日、9月定例会の本会議初日が開催された。
行橋市議会の議長会派、朱白の会の解散が報告されました。
これは、会派代表である私が解散届を提出したことが要因であり、その主たる理由は議長会派代表の責務を全うするにあたって、私自身が能力不足を自認したためであり、全ての責任は私にあることを冒頭で申し上げます。
いまや3期生として中堅の立場にはなりましたが、まだまだ40代前半。当市議会は、与野党が拮抗しており、常に賛否が1~2議席差という状況でした。いわゆる市長与党系会派は、3会派で構成されており、議長会派の代表は、他2会派との調整を求められます。この重責は想像以上に重たいものがありました。
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(OGP画像)
この場を借りて共に与党会派を構成してくださった、田中代表・小原代表に感謝を申し上げます。また解散届を提出した日において、感謝の言葉を伝えますとともに、本日いっぱいは議長会派の代表であることを述べ、最後のお願いとして、今後も議長をお支え頂きますようお願いいたしました。
残る2会派の代表からも丁寧な言葉があり、また短い期間ではありましたが、本当にお世話になっており、なんらの異議はございません。
まだ未熟な当職に対し、深い慈愛の心をもって接してくださったと感じております。
拙い議会運営ではございましたが、様々な場面でご協力を頂きました。
両会派の代表は、私よりも期数も年齢も上であります。
また、朱白の会は3議席、議長を除けば2議席の議決権。他与党会派は、5議席と4議席です。意見書採択などの場において議決権の数は重視すべき項目で、自らは2であり、交渉相手は4と5ということを強く意識しておりました。
議長を守り、支える立場であるという認識をもっており、万が一にも不信任が出た場合などは3会派で支えて頂きたいと考えます。これは一般論としても同様で、議長会派の代表は、何がなんでも(議会”全体”の議決権の行使において)議長を守ることが責務となります。
いわば、最も発言力の弱い立場で、常に譲ることも求められます。
調整こそが責務であり、他会派との外交が責務ということもできます。
自会派が2で、議長を抱えつつ、
先輩議員が率いる4、先輩議員の率いる5と、対等に話していくというのは、やはり精神的な負荷もありました。
重責であるという苦しみ、自分なりの考えに基づくものでありますが、かなりの精神的な疲弊はありました。
「あれをしたら、どうなるだろう」「これをしたら、どうなってしまうだろう」と、常に先手を考えつつ動く必要があります。
もしくは、動くことそのものが難しくもなります。
常にフットワーク軽く、機動性のみに特化した、(大きな責任が問われない)諸派の議員の時代とは求められるものが違いました。
もっと気楽なものかと思いましたが、いざその立場に立てば想像以上の苦しさ、精神的な息苦しさはありました。刃を封印するような、そんな生き方を自らに課しました。
実は、この文章は、少し晴れやかな気持ち、誤解を恐れずに言わせて頂けば、すっきりした思いで書いています。
自己採点にはなりますが、議長会派の代表としては、他会派との折衝において(その大部分が他会派からの”配慮”によるものことは述べた上で)大きな失点もなく、振る舞えてきたという自負もございます。当然、100点満点ではありませんが、それぞれは、そう悪くもない決断であったろうという思いです。
事実として、私が他会派と揉めたのは委員会決めのみであり、本来は譲るべき議長会派としては珍しく、常任委員会の与野党構成のみです。これは自らの会派に利益をもたらす目的ではなく、単に数があわないという主張であり、最終的に(与党の他会派が)野党に譲ってくれることになってしまったのですが、数があわないという議会運営上の問題はのち顕在化しております。
その他、特別委員会も含め委員の選任においては全て譲っており、出せるものは全て出すという方針を堅持しました。
私は、自らへの利益、または自会派への利益的な誘導は行っておらず、これは唯一にして無二の、議長の守り方です。少数会派を率いる中では、いたらぬ点はあったかと思いますが、振り返って見ても、明確な失点はなかったのではないかと自らは考えております。
冒頭で述べましたように、議長会派代表の責務を全うするにあたって『私自身が能力不足を自認したため』であり、全ての責任は私にあることを繰り返し申し上げます。
私のミスは2点あり、いずれについても私の責任として述べるものであります。
一つ目は、初盆への参拝を怠ってしまったこと。
市職員の初盆も複数あり例年であればお参りさせて頂くのですが、一件も伺っておりません。私の親族も初盆であり、および地元で本当に知っている方のみへのご挨拶に留め、ほとんど伺っておりません。コロナ禍の対応です。
会派構成員のご尊父も亡くなっていたのでありますが、私はお参りに伺っておりません。
市職員親族への参拝をしておりませんが、こちらについては行くべきであったと反省しており、その理由は私自身が見落としていたというものです。
これは明確に私が申し訳ないと考えており、一切の言い訳はございません。
素直にお詫びいたしました。
併せて、会派構成員より”期数制に基づく当職の対応”に苦言が示され、その際に”会派離脱も検討”と伝えられました。期数制とは、当選回数で先輩・後輩を決するという仕組みであり、国政県政および政令市では知り得る限り普通に実施されているものです。
ただし、一般市や町村においては、厳格に運営されているかは例外もあるでしょう。
私自身が国政・県政・政令市とも関係性が深いため、通常のルールとして期数制を採用した振舞いをしています。
朱白の会は、議長、私、新人一期生の構成でありましたが、新人は私よりも年長であります。
足りていないかとは思いますが、少しだけ議会のことも教えたつもりです。私は、もともと議員とベタベタ付き合うタイプではありませんし、コロナ禍ということもあり会派での視察研修もなく、また会派としての食事会(実質の会議)も数回しか開催できておりません。
コミュニケーション不足はあったと思いますが、一応は、初回の質問は原稿にも手を入れさせて頂き、所管答弁のヒアリングでは有利な答弁が得られるようサポートもしています。二度目については、答弁調整の場で一言二言を述べるに留めましたが、これで充分とは思いませんが最低限のことはしたつもりです。
私自身も迷った部分はあったのですが、年長者であっても新人一期生であり、かつ若干の教育を行う以上は「君」付けで呼んでおりました。これは決してバカにしたり揶揄するものではなく、当然、命令口調で話したことはなく、(ため口でもなく)丁寧語で会話をしてきた次第です。
これが非礼にあたるという主張であり、それはそれとして私は受け止めました。
その上で期数制の説明を再度行い、その必要性については、議会の規律の維持の観点から私の意見も伝えました。
若輩者ながらも、議長会派の代表職を預かっている以上は、他会派の代表とも肩を並べて話をせねばなりません。失礼のないように振る舞ってはきましたが、私は期数制に準じた振舞いを堅持しており、これらに準拠する議会の規律を無視することは許されませんでした。
それを是認すれば、議長会派の代表は務めることはできません。
その場において(期数制の説明はしたことはあったと記憶しておりますが、)初めてする話として「議長会派の代表としての重責に苦しんでいたこと」も伝え、意識して年長者を小馬鹿にするような意思はなかったことも伝えました。当たり前のことですが、裏で悪口を吹聴したり揶揄したこともない。
実際、コロナ禍で公務もほぼなく、委員会も違うものですから同じ公務に立ち会ったことは残念ながらありません。市民の前で君付けで呼んだ事実はなく、また第三者がおらずとも呼び捨て・ため口で話していたわけでもありません。
これを伝えた時点で、私なりの覚悟は固まりつつありました。
でなければ話すべき内容ではないからです。
後半についても私に起因する責任であり、そちらは強く述べておきます。
議員個々人に考えはあり、それを拘束・強制することはできません。
期数制について私は重視しており、また遵守せざるを得ない立場でありましたが、それを他者に求めるならば徹底した教育と人間関係が必要です。
これは会派代表である私の指導力不足に起因するものであり、その責任は全て私に帰結いたします。こちらについては一切の意義を認めない。
かつて会派代表であった責任の果たし方として、会派構成員であった時代のことについては、全てが私の責任として処理されるべきであり、それは私の意思であり強い希望です。誇りと言ってもいい。
議会運営については口数ことは少ないものの、その決定・判断をもって示されるべきものと解しており、私は上記の方針を最後まで堅持できたことを誇りに思っております。よって、最後まで誇りを貫き通したいと考えております。会派構成員の悪口は、絶対に言わない。それでも受け取り方は様々だと思うので、名前については私の判断として記載していません。
決定までは速かったと思います。翌日に少し議論はあったのですが、私は私の判断で解散届を提出いたしました。
方法はあるにはあるのでしょう、例えば他会派や有力者などの調整を要請し、無理に会派を維持する道もあるにはある。
だが、それは私の考えとは異なる。
私には、議長会派の代表として”自分が見せてもらった後姿”を参考に、あるべき姿を目指してきました。
期数制を無視し、他者に無理強いをしてまで残すのは美学に反します。
個々の判断・意思決定において、行動をもって示すことが肝要であり、それは私のスタンスです。
その積み重ねにおいてミスはなかったものの、私のコミュニケーション不足によりこうなったのであれば、それは事実として受け入れるべきものであり、その責任の果たし方として決断することが正しい。
朱白の会の代表として、これは正しい。
それが朱白の会だからです。
コロナ禍ということもありますし、私がベタベタしないタイプ(もともと一匹狼)というのはありますが、議運・代表者会議の決定事項の報告程度での連絡しかとっておりません。ここが失敗であったのだろうというのが私の振り返りです。
難しい立場であったことは、他会派の代表らにも認識は共通であったとご理解は頂けると考えています。何度か企画しつつも、コロナ禍ということもあり、三会派の代表のみで懇親会(議会運営に関する会議)を行うことができなかったことのみ心残りであります。
まったく不足していたとは思いますが、議会ごとには個別に連絡もとらせて頂き、調整というレベルでもありませんが、ご厚誼を賜ってきたと理解しております。
その上で、私の指導力不足も含め、これ以上、本職に留まることは「適切ではない」という判断が私にありました。
かつての朱白の会の代表がそうしたように、会派内において構成員からの離反が示された際には、潔く自刃の道を選びます。
それは会派解散という方法以外にありません。
議長会派の代表という立場ゆえ、本来の”切れ味のある政治判断”は控えておりました。
我慢もありました。
そして、この場での判断の速さ、毅然とした振舞いは、朱白の会の名に恥じぬものであると自負しています。
実は二度目の朱白の会であり、一度目の朱白の会派、私と先輩議員の、意地の張り合い・筋の通し合いの結果、消滅しました。
私が二期目に当選した直後、城戸よしみつ議員と同じ会派となり、年齢を軸につけたもの。
青春・朱夏・白秋・玄冬。これら年齢を示す単語から、私と若手を含む朱夏、および先輩議員を示す白秋より一文字を頂き朱白。会派名称の多くは正式には漢詩から頂くことが通例であり、正規の手順に習ったものです。
まぁ、日の丸カラーという意味もあります。
かつて、朱白の会(初代)として議会に登壇した際の動画。
冒頭において会派の名称の説明をしています。
これは二期目当選直後であったと思います。
のち、私は爆破予告を受ける、市議を辞職せよというもの。
朱白の会は、これに対して毅然と振る舞ってくださいましたが、与党3会派の一角が崩れる。
共産党より決議が出され、私の個人名をタイトルに記し、被害者である私を批判する内容でありました。
当時の議長会派は、日本共産党の決議に迎合。
私自身は、議長選挙において精力的に協力しており、このことはどうしても許せませんでした。
結果、そのことを不服とし、私は与党会派の議員であるにも関わらず、議決の賛否において「与党から離反する議決権の行使」します。
その際には、朱白の会(第一回)の代表から度重なる説得を受けるも、私は頑として代表とは平行線。
反対討論を行い、その理由を公言したうえで議決権を堂々を行使する。
私は「会派離脱届」を胸ポケットに入れ、議場に臨みました。
結果でありますが、会派代表であった城戸議員は、私が提出するよりも先に「代表自らが会派離脱」を行いました。そして「これが会派代表の、意思決定と議決権行使に基づく振舞い」と述べられました。
私は悔しくて悔しくて、私自身も離脱届を提出。
2通の離脱届が受理され、結果、最小構成人数を下回ってしまい、会派が吹き飛んだと言うのが朱白の会の過去の歴史です。
【爆破予告】テロに屈した議会に討ち入り。忠臣蔵、切腹の美学。地方議員の覚悟【テロに屈しない人はシェア】
のち、私は長らくの流浪の民を続けました。
二期の後半部分については責任を感じつつ諸派を貫き、かつ先般の決議については、まず議会に、次に議員個々人にも異議を明確に述べて書面で送達したのち、最終的には名誉毀損であるとして訴訟に踏み切りました。
昨年4月の市議選後、かつての代表であった城戸議員と再度、会派を結成。
「あの時は意地の張り合いをしてしまい申し訳ありませんでした」とお詫びし、朱白の会は再度復活しました。
直後、城戸議員は市議を辞職、
人事案として執行部側に。いまは副市長に就任しています。
まさか会派が結成された直後、代表職を譲り渡されることになるとは思ってもいませんでしたし、途中にも色々あって、副市長人事は否決。与党会派が割れてしまい、城戸議員は二度目の提出で副市長就任に。
この頃も議長会派の代表とは「どのように在るべきか」などを自問自答した日々でした。
会派解散届を議会事務局に提出後、副市長室を訪問。
「今日は、副市長ではなく、元市議として、また前代表の城戸議員に報告にお伺いいたしました。」と報告。
お預かりした会派について、先ほど解散届を提出してきたこと。
その一切の責任は自分にあることを報告。
そのことについてお詫びいたしました。
そして、この判断、意思決定については、貴方の後姿を参考にしたものであること。
お譲り頂いた会派を解散したことについてはお詫びするが、その判断については、朱白の会としては間違ってはいないと考えていることも伝えました。
・・・ほんとは、つらかった、と。
泣き言は解散するまで言いませんでしたが、「いやぁ、なかなか難しかったです。」「重たいもんだったんですねぇ」と感想を伝えました。
城戸議員は、二カッと笑って、「まぁ、おまえらしいと言えばおまえらしい、か。」と。
少し寂しそうに笑い、誉めてはくれませんでしたが、叱られることもありませんでした。
「おつかさま」と優しくいい、たぶん”よぉ頑張った”と続けたかったのでしょうが、それを言えば私がキレると知っているので言いませんでした。
一度目の朱白の会は、ちょうど四年前の、同じく九月議会でありました。
改選後一年を経過、同じ九月議会で二度目の朱白の会も解散。
どこか運命を感じたところもございました。
併せて、各種の委員会の選任について報告がありました。
これはわざわざ言うことでもありませんが、事実として私はほとんどの役を会派構成員に振っていました。せめて、してあげられることはそれぐらいしかありません。
会派の消滅により、会派として有していた常任委員会以外のほとんどのポストも消滅します。
本騒動が、他会派からの引き抜きではないか?という見られ方は一部でされているようです。
私は違うと考えていることは述べておきますが、前述の元会派構成員は、すでに他の与党会派に異動をしておりました。
別に批判する意図はありませんが、本来の姿であれば議会一回は諸派で通すのが通例かと思います。このため、そのような邪推が生じたのでしょうが、私自身は何の説明も受けていないため分かりませんし、否定する論拠を持ちませんので断言できる立場にはありません。
5人会派が6人になる場合、議会運営委員会のポストが「1」から「2」に増加するなどもあり、与党会派での各委員会での議決構成なども遠因であるのでしょう。子供ではないので普通に理解できますし、怒るつもりはありません。
まぁ、”どこまで恥をかかせれば気が済むのか?”とか、”そこまでのことを私がしたか?”ぐらいは言ってやってもいいのですが、かつて二期目の私とは「違う道」を模索しており、思えば三期目の私はまったく違う振る舞い方、今までとは異なる選択を好んで繰り返してきました。思うところはあったのですが、本件については言及を控えます。
事実として、その後の推移についての報告などは一切なかったことは一応は述べておきます。
それはそれで別に構わない。かつてのように暴れることも考えていない。
私は、自分自身が身に着けた議会の「筋」を、自分自身が通すことを軸としています。
それは他者に強制するものではない。
”私は筋を通す”というのが、唯一の私の生き方であり、それが通じる通じないとかは関係ない。
相手に求めることも違う。相手の自由を侵害はしない。
ただし、その積み重ねは、私の行動に影響を与える。それは私の自由も維持されるという考えからだ。
私は、広域議会を辞任した。
これは事実上の会派選出枠であり、私が唯一もっていた役である。
かつては議会運営委員会にも所属していたが、一年の節目において(当該委員会が安定していることも踏まえ)会派構成議員に譲っていました。
広域については、行橋市が広域から脱退という話があり、近隣議会との調整作業があったため(ようは難航が想定されたため)それのみは私が就任した。
その他の全て、会派選出によるポストは(議長職が就くものを除き)、全て会派構成員に渡していた。
会派の異動により、それらが一旦消滅、のち選任が本会議において読み上げられていく。
議長による推薦という形で異議なし採決となる。
私は多くは語らないし、多く語りたいとも思わない。
事実と足跡のみこそが、指し示すべきものであり、議場において政治家が示すべき最大のものだと考えている。
私の広域議員の辞職が一つだけ読み上げられた。
こちらについては異なる議員が選任される。
それ以外は、異動後の会派名において、ずっと同じ名前が続く。
どれだけの数を出していたかは議場全体が知ることになったし、その数が非常に大きかったこと、つまり会派として新人には最大限に配慮していたことは、その他の議員には伝わったものと思う。
議長が「ご異議ありませんか?」と問う。
議場からは「異議なし」と発声する。
まぁ、これは誰かが言えばいいだけであり、少なくとも「異議あり」という声さえなければ粛々と進む性格のもの。
私の主観にはなるが、最初の「異議なし」の声から、声は小さかった。
何度も何度も続くうち、徐々に消え入るようになっていき、最後のほうには異議なしの声は(少なくとも)私には聴こえずほとんどの議員が無言だった。
それで、いい。
私は、自らの意思により、「自分の能力不足」の自認を理由に解散届を提出した。
私の意思である。誰の批判も行わない、それも意思であり、私の強い希望である。
その上で、私の生き様は、議場での振舞いで示すことができる。
この異議なし採決の空気をもって、私の「議長会派の代表」としての最後の決断としたい。
※ 本章項目は批判を意図して書いたものではないが、私が”一切は代表職たる私の責任”と述べる範囲は、自らの会派の構成員である期間のみである。
会派解散後の、異動後については(特に批判的に論述しているつもりもないけれど)通常の取扱いとして論評しています。ここには明確な差がありますので、もし(先ほどの主張と違うじゃないかと疑問を持つ方がいたらと思い)一応の注釈をつけておきます。
一部の方からは「議長会派が消滅、議長が諸派となってしまった」という事実に対し、「今後の(調整を含めてだろうか?)流れはどうなるのですか、どうなってしまうのでしょうか。」と言われただが、私は「分からない」と答えた。
珍しい事例なのかもしれないが、議長は会派に属さず諸派とするやり方もある。
私はすでに議長会派の代表ではないのだから、それに対してコメントする権限もなければ、そして責任もなくなった。
かつてのように、恨み・怒りでの諸派ではない。
よって「自由を謳歌」し、撃ちまくるみたいなことは考えてもいない。
今回は、私の責任において起きてしまったことであり、むしろご心配をおかけしたことについては申し訳なく思っています。
感謝もある。
与党の2会派でも、会派拘束できる議席数は計11議席。議長を除き10名の議決権。
当市議会は定足数20だるため、議長を除き19議席。
10議席が会派拘束議席数であるため、会派単位での議決権はギリギリ過半数が維持できている。
議長・副議長の不信任案が提出された場合には数が足りなくなってしまったが(本人は退席する扱いになろうかと思う)、まあ大丈夫だろう。
”まぁ、大丈夫だろう”というのは、
上記の背景(他者が起因ではなく、自分のこと)のため議決権の行使において与党系という振舞いを止める予定はないからだ。
当然、諸派となり会派の拘束が効かないわけだから、私には自由がある。
それなりにラフな動きもできるようにもなる。それは事実だが、わざわざ敵対する理由は存在しておらず、私が単に諸派になっただけというのが私の認識です。
(この一言は、多くの議員を安心させるであろうという意図をもって書いています。)
単なる諸派ですし、議決権のキャスティングボードを握っているわけでもない。それを振り回す理由もないため、ほどほどに扱って頂ければそれで結構です。
とは言え、自由がきく立場ではあります、
私なりの筋は通してきましたし、誠意も示したつもりです。ゆえに、最低限の義理と筋は通して頂きたいぐらいには思っております。ただ、これは特に何をしてくれというものでもありませんし、繰り返すますがほどほどで大丈夫です。
(期数制についてどう認識するか等も、異動後の会派が決めればよいことであり、それもアレコレ口出すつもりはありません。)
私は私の美学に基づき、市議というのみならず、政治家の在り方を模索しながら生きて行く。
あまり介入されることは好きではない、同じく他者にも干渉しない。
かつての朱白の会が解散してしまった際に、私は忠臣蔵になぞらえて論じたことを記憶している。
赤穂浪士は、引き際までが赤穂浪士なのであり(それが史実ではなくフィクションだとしても)、心をうつのは終わり方にある。
この会派は、どこまでも恰好をつけるのが本来のキャラクターであり、その結果としての速度感や破壊力が存在価値である。
当時の私(四年前の会派解散)は、討ち入りの姿に強く惹かれた。
いまは、討ち入り後の在り方について惹かれている。
「これが、あのとき、城戸代表が見た光景か」と思えば、どこか納得している自分がいる。
思えば手取り足取り教えてもらったことなんてないけれど、なんだかんだで一つ一つの決断の連続、その後姿は今の私を形作った。
この度は、共に議長を支えてくださった二会派の代表および会派構成員の皆様に対しては、突然のことで驚かせてしまい申し訳ございません。
議長の会派の代表として、解散届を提出したのちお伝えした「議長に万が一があった場合には、お支え頂きますようお願いします。」が、私の代表としての最後のメッセージです。
それ以上でも以下でもありません。
私は私の在り方、生き方を議場で示しました。今までの振舞いについても議場で明確になったと理解しております。
今までのご厚誼に深く感謝いたしまして、私からの、議長会派の解散の報告に代えさせて頂きます。
末尾になりますが、朱白の会を名付けた者として、会派をお譲り頂いた城戸よしみつ元議員に対し、解散という決断をすることになったことに対してお詫び申し上げますとともに、良い経験を積ませて頂いたことに対して感謝します。
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朱白の会解散のお知らせ通知記事なのに、すみません。
昨日、総裁選出馬表明を堂々とされた高市さんですが、離婚されていた事を全く知らなかったです。
元夫の山本拓衆院議員が「高市支持」を派閥の領袖・二階氏に告げられたらしいです。高市さんは重職の傍ら山本さんのご母堂を送り、御自身の御両親も看取られたんですってね。私人としての高市さんの一面を知りました。
拝読して思ったことは
朱白の会の構成員氏はお辛かったのだな、とそのお辛さを思いました。
これは決して小坪氏を批判している訳ではありません。
どんなに小坪氏に善意や配慮があったとしても「一緒にいると辛い」と言う関係はあります。
小坪氏にとって理不尽に思える部分があったとしても
これは理屈や説明ではどうしようも無いことだと私は思います。
様々なことを理由に、小坪氏から自由になりたかったのではないかと思います。
「縛って無い」「自由も何も最初から自由だ」と言う反論は置いておきます。
事実の問題では無く、心の問題、自意識の問題ですから。
小坪氏に非があったとしましたら、
それは、小坪氏が小坪氏であられることでしょうし
小坪氏が地方議員であられることかも知れません。
(そして小坪氏はこの二つを変えることは出来ません。変える必要もありません。)
袂を別つお二方の未来が、結果として幸多きものになることを願っています。
今後うっすらと理解し合えて協力出来ることも多々あると思います。
お二方にとって新しい出発であられます。
僭越な生意気を書かせていただきましたが
拝読させていただき感じたことを書かせていただきました。
差し出がましいこと、何卒ご容赦ください。
追記
コロナ禍での冠婚葬祭は非常に難しいと感じます。
配慮も善意も受け取り方が個人によって違いますし
コロナ禍での暮らし方の意識の違いも大きいです。
冠婚葬祭や地域行事においての行き違いは
議員氏でなくても庶民でも今後多発するのではないでしょうか。
以上 文責 BLACK
色々とあるのですね。行橋市の大事な歴史の一部ですね。よく良く考えて一番良い選択をされたと思います。
今は悔しいこと、憤る思い、悲しみ、寂寞、いろんな想いの中にいらっしゃるのでしょう。決してその背を打ちたいわけではありませんが、このブログは続けてください、お願いします。貴方が発信されるから私は繋がっていられるのです。涙を吹きながらパンチしています。
[…] ← 朱白の会の解散についてのご報告。 […]
行橋市市議会ホームページで会派について見ようとしたら、2020年7月13日(議会事務局)で更新がされていませんでした。「朱白の会」のあったことの記載も無く…
流石に古過ぎ、ヤバいですwww
小坪議員お疲れさまでした。
【テロに屈する議決】に反対された議員に対して、義理が果せたならば、むしろ自由な方がいいんじゃないの?と思ってしまいます。
大事な地域の決め事に会派所属の方が良いのかもしれません。
しかし、議会の1票は1票。
票を投じ、市政に対して権利負託してくれた住民の方々には、そんじょそこらの市議会議員よりはるかに仕事しているはず!!個々の案件は、ブログにはあまり書かれていないでしょうが、きっと応えているであろうことと信頼しています。
(ブログにも地元案件の仕事も、出せる範囲でもっと書いて欲しいです。)
地方行政、日本のすべて、変えていかねばならない。
この事実に対し、過去への総括も必要でしょうが、前に!!前に!!進んでいってもらうことが必要です。これからも変わらぬ姿勢で戦ってください。
感謝の気持ちと、良くしていこうとの強い意志への信頼を捧げ、応援しているファンとしては、「今後ともよろしくお願いいたします!」で、いっぱいです。