昨日6月8日は、祖父の乗っていた艦が沈んだ日であった。
伝わりやすく言えば、艦の命日とも言えるだろう。
艦と共に命を捧げてくださった多くの水兵の命日である。
艦の名は、重巡洋艦足柄。
▼同じ艦をルーツに持つ二人の政治家
実は、隣接選挙区の西元県議(確か一個下)の祖父も、同じく足柄に乗っていた。
私の祖父、西元県議の祖父共に生還、戦後を生き抜いた。
没した今となってはわからぬが、恐らくは交友もあったのだと思う。
祖父がともに戦った者同士が、市区町村を跨いでとは言え、こうして双方議員となっているのは数奇な運命だ。
▼西元県議はこの日が誕生日である。
海軍とは、自らの艦を非常に大切に思う。
戦闘艦とはひとたび砲火を交えれば、全員が一蓮托生の家族であり、そしてその大事な仲間の総称が艦の名であるからだ。
彼の祖父は、艦の生まれ変わりのように彼をかわいがったという。
2人で片道3時間、佐世保へ。
▼佐世保へ。
西元県議のほうが離れているため、早起きして行橋の我が家まで。
そこからは2人で片道3時間、長崎は佐世保まで自走で行った。
激しい雨の中、日帰り・往復の運転はそれなりに疲れた。
※以下、道中の話です。
本論にまったく関係ないため折り畳んでおります。
私の車は、ER34型スカイラインである。
車高を落とした(合法の範囲内)スポーツカーである。
かつてに比べれば控え目な仕様。
デフこそ入っているものの大人のフォードア。
ポン付けタービンで武装し、元々はATベースの車体をMTに換装、公認車検を通している。
足回りはアラゴスタ、スプリングはスイフト。
いずれも中古パーツ。大半の作業は自宅で行っている。
(チェーンブロックが自宅にありエンジンの脱着も可。)
驚かれるのは燃費で、街乗りでリッター8~9を叩き出す。
高速での出張を企図し、ハイギアード化(ファイナル変更)、コンピュータで絞った結果である。
いま欲しいのはロールバー(10点式以上、サイドバー必須)かなぁ。
▼乗り心地は、よくはない。
運転席・助手席ともにRECAROに換装されている。
大人な仕様で、らくらくのリクライニングシートである。
が、はっきり言えば、乗り心地は悪い。
※シートについて
新品は一脚あたり15万ほどするので、10年落ちのボロボロのシート(ただ同然)をリペア。
知人宅の業務用のミシンで縫って、全席を張り替えたもの。難しい部分は手伝ってもらったが、1か月かかった。
▼護衛艦仕様
フロントグリルには菊の御門。
リアには国旗と旭日旗が交差して掲揚。
右翼カーと呼ばれたり、DQNと呼ばれることもあるが、
私は軍艦仕様、もしくは護衛艦仕様と呼んでいる。
ちなみに、一台しかないため議会にはこれで行っている。
セカンドカーをもてるほどの財力はないため、燃費向上計画に命を懸けたのだ。
(議員会館(国会)にも自走で行って地下駐車場でバンパーがひっかかった。)
▼そんな乗り心地のよくはない私の車ですが。
早起きしたであろう西元県議は、時折すやすやと意図しない形での休憩をとっておられた。
誕生日でなければ叩き起こすところであった。
しかしよく寝れたなぁ、と。
とは言え。
行橋も翌日を本会議(初日)に控えていたが
県議会も同様で、西元県議も連日の徹夜対応である。
この日を半日あけるため、かなり前から業務調整をかけていた。
彼の方が実際、きつかったと思う。
まぁ、許す。
(今度、なんか奢ってくれると思う。)
片道3時間、往復6時間。
もう年なのだろうか、以前なら平気だったのに。
慌ただしい中での慰霊の旅であった。
帰宅のち資料整理と議会準備、朝より準備して本会議。
本日は(慰霊は昨日であり書いているのは今は慰霊の翌日)議会初日を無事に終えた。
▼佐世保東山海軍墓地
「墓地」とあります。
ここには戦死された、我が国を守るために戦ってくださった方々の墓地があります。
そして我が国の、大事な大事な、軍艦たちのお墓があるのです。
以下の碑文をお読みください。
大きな文字であるため、読めるはずです。
我が国が閣議決定した正式な名称は、「大東亜戦争」です。
戦後、GHQにより禁じられた名称であり、大東亜という言葉に込められた「アジアのためにという願い」は、いまの時代を生きる私たちには、ものの見事に引き継がれませんでした。
(WGIP:ウォーギルトインフォメーションプログラムで検索)
祖父たちが戦ったのは、大東亜戦争です。
▼重巡足柄 慰霊祭
護衛艦足柄からも艦長以下、多くが参列されていました。
元乗組員の方が、足柄の最後について詳しく語ってくださいました。
魚雷4本を受けての撃沈、水深の浅さもあり渦が巻かず助かることができた、とのこと。
艦と運命を共にした戦友のこと、その最後の瞬間。
祖父より何度も聞かされた、のだと思います。
忘れていた幼少期の話が鮮烈に蘇ってきます。
あの時、祖父はどのような顔をして話していたろうか。
悲しそうな顔であったか、真剣な顔であったか。
どこか遠く、遥か遠くを見据えて話していたような気もする。
10年は経たぬが、祖父が亡くなってより随分になる。
もっと生前に話を聞いておくべきだった。
▼軍艦足柄 戦没者鎮魂乃碑
護衛艦 足柄の乗組員の方々が準備をしていきます。
なんとも言えない気持ちになりました。
総員、本当に見事な立ち姿でした。
その写真を載せたいところですが、私自身も手を合わせていたため
準備中とか献花後、移動の直前しかございません。
▼重巡洋艦 足柄
妙高型3番艦。
川崎重工業神戸造船所にて建造。艦名は箱根の足柄山より。
海上自衛隊のあたご型護衛艦の2番艦「あしがら」に受け継がれている。
できるだけ短くまとめましたが、どうしても長くなってしまうため、
読みたいエピソードについてはクリックしてください。
1937年のジョージ6世戴冠記念観艦式の際には、招待艦としてイギリスへ派遣。
その際、「飢えた狼」というニックネームを頂戴するが、これは質実剛健という意味であるか簡素(完全な戦闘艦)な飾り気のなさを揶揄したものかは、ちょっとした議論がある。
当時の軍艦には、外交官のような側面があり外交儀礼としての(戦闘艦にしては)華美な装飾も施される場合があったようだ。
また英国などは多数かかえる植民地間を長距離動くため、水兵の共住環境を相当に整えていた。
我が国は、お金がなかったからというのもあるだろうし、機能美を優先した完全に戦闘艦であったようだ。
(このあたりの議論は歴史学者など、その道の方に委ねたい。)
第四艦隊旗艦として台湾周辺海域で行動中、台湾東南洋上の火燃島に座礁した米国豪華客船「プレジデントフーバー号」の救援に赴く。「足柄」乗組員は米駆逐艦が到着するまで火燃島に上陸した米国客船乗客を保護。
(開戦前の話である。)
姉妹艦3隻と共にイギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」、駆逐艦「エンカウンター」、「ポープ」を共同で撃沈。
戦闘終結後、高橋第三艦隊司令長官の命令により連合軍将兵の救助活動を行う。
足柄は志摩艦隊所属で出撃。
戦艦「扶桑」も、「足柄」の傍で「山城」と共に沈んでいる。
レイテ特攻の話は、以下で触れています。
【今日は何の日?】神風特攻隊 敷島隊、突入に成功。連合艦隊、壊滅。【10月25日】
第二水雷戦隊司令官木村昌福少将座乗の駆逐艦「霞」や軽巡洋艦「大淀」などと共にカムラン湾から出撃。
途中、被弾・炎上するも消火に成功。
マンガリン湾に突入し、湾内の停泊した輸送船や上陸地点の物資集積所に向けて砲撃を行った。
礼号作戦は成功、これは太平洋戦線における帝国海軍の組織的戦闘における最後の勝利であるとも言われる。
6月4日、陸兵1600名、及び物資輸送のため、駆逐艦神風と共にシンガポールを出港。
潜水艦の哨戒を神風が行ったが発見ならず、第一戦闘態勢となる一つ前の警戒態勢。
水測が潜水艦らしき機関音をキャッチ。
潜水艦であるかを確認中、魚跡を発見。
イギリス海軍潜水艦「トレンチャント」が発射した8本の魚雷であった。
転舵、回避を試みるも、4本が命中。
潜水艦はさらに後部発射管から2本の魚雷を発射し、1本が命中。
12時37分に転覆し、艦尾から沈没した。
合流を試みていた駆逐艦神風が救助に。
艦長三浦速雄大佐を含む乗員853名と陸兵400名を救助。
(wikipedia:足柄 (重巡洋艦)を参考に、実際の乗組員から聞いた内容を付記しています。戦史と完全に一致するかは保証しません。)
祖父たちは、戦いました。
大東亜戦争を戦い抜きました。
▼軍艦のお墓 ~ 東山海軍墓地
この表現が正しいのかわかりませんが、ここには佐世保鎮守府を母港とした多くの艦艇の慰霊の碑がございます。
航空母艦 加賀
戦前より活躍した一航戦。
ミッドウェーで没す。
赤城、加賀、蒼龍、飛龍。
正規空母4隻を同時に喪失するという、戦局に多大な影響を与える甚大な被害を被った。
航空母艦 雲龍
ミッドウェーにて正規空母4隻を失った日本は、
早期に戦力を補充するため(新規設計ではなく)中型空母として理想的であった飛龍をベースに量産体制に入る。
飛龍・改とも呼ばれる雲龍型1番艦。
大東亜戦争末期に竣工したため、空母として戦闘に参加する機会はなかった。
フィリピン方面に特攻機「桜花」を輸送中、潜水艦より雷撃を受け沈没。
傾斜時に受けた二発目の魚雷が桜花に次々に誘爆、のち火薬庫に誘爆。
「軍艦雲龍戦闘詳報」の戦訓によれば、『空母は発着甲板を有する故 練習機一機なりとも搭載し対潜哨戒に任ぜしめば昼間攻撃を受くる事なきものと認む。各基地よりの哨戒機のみにては極めて不充分なり。』と嘆いているそうだ。
空母ゆえ飛行甲板を持つが、一機の哨戒機も搭載せずの最後であった。
軽空母 瑞鳳
特務艦(給油艦)「高崎」として竣工、のち空母に改装。
ロンドン海軍軍縮条約により航空母艦の保有制限されているため、
航空母艦に改造しやすい艦船を整備した。
レイテ沖海戦で、小沢機動部隊(囮部隊)として特攻、最後を迎える。
重巡 妙高
妙高型1番艦です。
足柄のお姉さんになります。
重巡 那智
同じく妙高型2番艦。
足柄が三女なら次女にあたります。
重巡 羽黒
妙高型4番艦。
妙高型は1~4番艦で全てですので、妙高型全艦の碑がここに眠っております。
軽巡 矢矧
沖縄への軍艦特攻作戦、坊ノ岬沖海戦において、「大和」と運命を共にした。
いずれも足柄の碑からの帰途、瞬間的に撮影したものであり(時間が限られていた。)
東山海軍墓地にはまだ多くの慰霊碑・鎮魂乃碑があります。
金剛型1番艦 金剛
金剛型3番艦 榛名
金剛型4番艦 霧島
(2番艦の比叡は別のところ)
航空母艦 飛龍
航空母艦 千歳
航空母艦 大鷹(たいよう)
重巡洋艦 鳥海
軽巡洋艦 阿武隈
駆逐艦 杉
駆逐艦 若葉
駆逐艦 秋月
駆逐艦 初霜
駆逐艦 初月
駆逐艦 涼月(私の後援会の名称は涼月より。)
駆逐艦 蓮
第二十二駆逐隊(長月・文月・水無月・皐月)
第二十四駆逐隊(山風・江風・涼風・海風)
第二十七駆逐隊(夕暮・有明・白露・時雨)
他、特務艦、伊号潜水艦、海軍陸戦隊、ビルマ方面軍、海軍施設部軍人軍属慰霊碑
ラバウル戦友会、志願兵戦没者鎮魂碑。
▼軍艦一隻の単位と重み
私たちの世代は、戦史で、ゲームで、触れるよりない。
ゆえに「艦の単位をただの1」と誤認識しがちであります。
その一隻一隻には、多くの水兵が乗り込んでおり、多くの命がそこで失われております。
艦船一隻の単位を、単純に「1」と呼んではならぬと思うのです。
心から日本を愛し、その身を捧げ水面に消えた数多の先人に思いを馳せて。
そこは静謐な空間、凛とした祈りの場所。
誓いを新たにする場。
写真の一枚一枚に、気持ちを込めた清掃活動の跡が見てとれます。
▼軍艦島の喧騒を思う。
実は、時間があえば軍艦島も視察したいと考えていました。
雨天ということもあり(中止になることもあるそうだ)時間の調整もできず、今回は見送りました。
web上で旗振りを務めるようなポジションにある私ですが、
この場所と同じように、静かで大切な場所だと思うのです。
喧騒に巻き込まれていく今の状況は、望ましいものではない。
とは言え、ここで防戦しておかねば、祖先の残した大事な足跡が汚されていく。
何より恐れるのは、後世に禍根を残すこと、まだ産まれ来ぬ子らに誤った歴史を背負わせてしまうこと。
怒号は抑え、静かな目線で。 粛々と、淡々と。
小雨舞い散る東山海軍墓地。 祖父と祖父の戦友らに、身体を張って、守り戦う誓いを新たに。 あなた方がそうしてくださったように。
静かにつぶやく。
大日本帝国陸海軍、万歳!
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共産党の二枚舌はすごいですね!
岐路に立つ日本共産党――第22回党大会をふりかえって
自衛隊活用論の正当化と補強(3)――正当化論の混迷
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・自衛隊の引継ぎと活用
・軍事同盟と核武装も肯定する論理
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【艦のお墓参り】祖父の乗っていた艦の慰霊祭 昨日6月8日は、祖父の乗っていた艦が沈んだ日であった。 伝わりやすく言えば、艦の命日とも言えるだろう。 艦と共に命を捧げてくださった多くの水兵の命日である。 艦
ご冥福をお祈り致します
足柄にほど近い地より
私の身内は陸軍でした
陸軍航空隊所属 昭和20年7月1日 死歿 於イテ スマトラ
私の曾祖父も日本帝国海軍の一員であり、駆逐艦夏雲に乗っていました。
数年前、偶然手に入れた夏雲の写真を曾祖父が見ると
「これだ、この艦に乗っていたんだ。懐かしい……本当に懐かしい」
とずっと夏雲の写真を見ていました。調べると夏雲で18名の方々が戦死した事実を知り、曾祖父は何か思うところがあったのだと思います。
家には曾祖父が若いころの写真が額縁に飾られており、凛々しい表情が今でも残されています。
夏雲の写真は曾祖父の若いころの写真の隣に額縁に入れて飾り、曾祖父が嬉しそうに笑っていたのを覚えています。私は日本帝国海軍に所属していた曾祖父の曾孫であることは私の誇りです。これからも日本人として恥じぬよう、そして曾祖父の曾孫であることに誇りを持ってこれからも頑張っていこうと思います。
もうすぐ7月9日まであと1ヶ月、通報祭りが日本中で始まる、70年分の思いをついに吐き出す時が来た
嘘で作られた歴史を捨てる時が来た、かの国のヒトモドキがいなくなればどれほど犯罪が減るか
これからますます日本中で暴れる輩が増えるだろうが、誰が何をしたかを記録しておいて7月9日には
通報できるように今から準備を
R34の話題に気を惹かれつつも、軍艦の話題に乗ってみようと思います。
現在、日本近海での海難事故の救助に当たるのは主に海上保安庁ですが、終戦までは海軍がその任務を担っておりました。
戦中は戦争を遂行しながら、帝国海軍は海難救助の任務をこなしていたのです。
戦後暫くまでは、外洋に出る船でも木造船が多々あり、終戦までは特に台湾や朝鮮、樺太への航路は、まだまだ木造船がバリバリの現役でもある時代でした。
ズシリと安定した鋼船に比べて木造船はシケや嵐に弱く、僅か70年程昔迄は急な嵐に木造船が遭遇すると、実際に船が航路を外れ遭難する事もあったのです。
現在の様にGPSで自船の位置を特定した上で救難信号を打電出来る訳ではありませんので、一旦遭難してしまうと嵐をやり過ごす迄正確な位置情報が掴めません。
嵐が通り過ぎる迄船が保てば良いのですが、流された海域によっては座礁する可能性もあり、単独で航路に復帰出来るかは運次第と言っても過言では無い時代でもありました。
そんな中、いざ救難信号が発せられると、帝国海軍の艦船は大時化の海に向けて救助に向かいました。
遭難船自身からの位置情報を、全くと言って良い程アテには出来ない時代です。
完全アナログ方式で救助にあたる訳ですので、航海士の経験と読みでおおよその遭難船の位置を特定し現場に向かいました。
つまり、航海士が潮と風を読んで、どの海域に流されたかを推測したのです。
当に海の職人の成せる業ですね。
小生の祖母は、実際に内地に向かう木造船に乗船中に嵐に遭遇し、遭難漂流中に帝国海軍の救助船(軍艦)に救助されております。
子供を抱えながら食糧も尽きつつある状況で、漂流中は食中毒を覚悟しながら腐って糸を引く握り飯を食んだとの事です。
小生の祖母は既に鬼籍に入っておりますが、帝国海軍の艦船が見えた時の安堵感は想像に難くないものと思います。
帝国海軍は国防の為に、命を掛けて闘いぬきました。
一方で国籍を問わす日本近海に於ける人命救助と言う地道な任務も、帝国海軍が担って来たのです。
少しでも多くの方に、そんな帝国海軍の真の姿を知って頂き、束の間でも良いので帝国海軍に感謝の念を抱いて欲しいと感じた今日一日でした。
一昨年の夏、清水港に入港した護衛艦あしがらの展示にいってきました。
その日は名古屋港に護衛艦あきづきの展示もあって悩んだ末に清水に行きました。
乗組員の皆さんが親切で良い印象の艦でしたね。
ブリッジに上がる途中に訪英時の先代足柄の写真が飾ってありましたよ。
今や帝国海軍籍の艦艇も特務艦宗谷と病院船氷川丸の2隻を残すのみですね。
子供の歴史教科書(教育出版)を見ると顔が引き攣るぐらいに酷い内容で唖然としますよ。
軍隊=悪になってる今の教育はどうにかならないものか・・・。
海軍の重巡で最上型の次に妙高型は好きな艦ですよ。
あ、今年は観艦式ですね。
「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録を巡り、韓国の外相や国会議員らが投票権を持つ国々を直接訪問し、登録反対を訴えることが明らかになりました。
韓国政府によりますと、尹炳世(ユン・ビョンセ)外相は11日、議長国のドイツに向かい、支持を求めるということです。
また、韓国の外交統一委員会に所属する国会議員らも、ペルー、コロンビア、カザフスタン、クロアチアの投票国4カ国を訪問し、登録反対の意見を直接伝えるとしています。
議員団が訪問する4カ国は、日本政府の内部文書によりますと、先月25日の時点で日韓いずれの支持も表明していません。この問題では9日、日韓両政府の2回目の協議が行われましたが、事実上、決裂しています。
(06/10 10:33)
http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000052278.html
小坪先生、こんにちは
新規投稿、ありがとうございます
佐世保東山海軍墓地に起つ『大東亜戦争戦没者慰霊塔』、重巡洋艦足柄 慰霊祭、軍艦足柄 戦没者鎮魂乃碑の画像、記事をアップしていただきありがとうございます。
重巡洋艦 足柄のエピソードはすべてすごいですが、なかでも、昭和17年のスラバヤ海戦において、戦闘終結後、高橋第三艦隊司令長官の命令により連合軍将兵の救助活動を行う。との記載には感銘・感動を覚えました。これが、日本軍人なのだと。
追記:
(1)小坪先生と西元先生の今後のご活躍にも括目、そして、応援していきたいと存じます。
(2)小坪先生の車の仕様がなんと、『護衛艦仕様』そして、フロントグリルに菊の御門、リアには国旗と旭日旗という記載をみて、やるなぁ!と拍手してしまいました。モニターの前で!そんな、わたしはネトウヨ!(*ノωノ)
(3)重巡洋艦 妙高が足柄のお姉さん、那智が次女、そして、足柄が三女という記載をみて、軍艦って日の丸乙女なのだということを初めてしりました。そうか、アニメで艦隊コレクションがありますが、登場するのはなぜ全員女子なのかとおもっていましたが、そういうことだったのですね。
(4)足がわるいので、毎年、靖国神社というわけにはいかず、逡巡しておりましたが、地元の忠魂碑を是非、訪れなくてはという思いが強くなりました。これも年のせいかもしれません。それに気づかせてくれた小坪先生の投稿に心からお礼もうしあげます。
キムチ速報のコメ欄で在日の書き込みがありました。この団体、ご存知でした?
「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」は戦後の朝鮮人被爆者の実態調査と、強制連行された朝鮮人の証言を集めてきた。そのなかで端島で発見された日本人、中国人、朝鮮人の大正14年から昭和20年に至る20年間の「死亡診断書」、「火葬認許証下附申請書」の意義は大きい。閉山によって高島町役場端島支所は閉鎖され、旧高浜役場時代の古い文書がそのまま残った。昭和61年に会のメンバーが支所跡で死亡した人の火葬許可を高浜村長に申請した書類を偶然発見した。それには朝鮮の本籍地、現住所、職業、氏名、年齢、病名、発病、死亡年月日、火葬場が記されていた。
端島炭坑で朝鮮人の強制連行が始まったのは1939年(昭和14年)から1945年までで、「変死」9名、「事故死」17名、「病死」23名を上回る。埋没に起因する窒息が14名とあり、朝鮮人の死因には不自然な変死が多いことがわかった。孤島という密室で何が行われたか、外傷や打撲による変死が多く、労務係や坑内係のリンチではないかという疑問が出てくる。昭和19年から昭和20年にかけては日本人に比較して朝鮮人の死亡率が急に高くなる。昭和19年には9人、翌年23人、その翌年は8ヶ月で19人死亡している。
戦争末期に入り出炭数はがた落ちしているのに逆に朝鮮人の死亡率が高いことは注目すべき点である。
亡き父が戦時中、三菱長崎造船所の職工を務めておりましたので、
同造船所建造の戦艦武蔵についてよく思い出話をしておりました。
建艦時の苦労、特に装甲板の取付を電気艤装を専門としながら、
手が足りず手伝った事や度々の公試に同行しては銀シャリの弁当を頂いた事など
懐かしそうに語っていた姿が目に浮かびます。
戦局も押し迫ると雷撃された船の修理も手伝ったの事で、
船室一面に散らばる戦死者の凄惨な様子にもどした士官が弁当を残してしまい、
それを片づけながらちゃっかり残った弁当を頂いて帰ったなど、
色々と面白い?のかどうかはおくとして、興味深い話を聞かせてもらったものです。
いわゆる銃後の戦いをしっかり勤め生き長らえて来た人でしたが、
原爆投下時は直撃ではないものの、残留放射能が渦巻く市内での片づけ作業を
行ったことから、放射能による被ばく後遺症に長年悩まされ続け、
その後原因が特定ができない内蔵疾患により鬼籍に入ってしまいました。
そうした父も戦地に赴かれ戦死された方と同様、
平和や復興を祈ってお国の為に戦って亡くなったのだと思えば、
戦後わが国を内側から浸食し、貶めたサヨクや在日共の跳梁には
どうしても許しがたい何か、殺意みたいなものを感じます。
我が国の人間であれば護国のため、家族のため、散華された身内がおられる方が多いはず。
小坪先生の様な方を通して、先の戦争の真実を知らしめて頂ければ幸いです。
そして単純に戦争は嫌だ、やりたくないという輩がいかに多いことか。
別に戦争を賛美する訳でも、勧めるわけでもありませんが、
例えば野良犬に家族が囲まれたとき、誰が家族を守り、野犬共を追い払うのか。
誰もいなければ自ら立ち向かうしかないし、手に武器が無ければ全員死ぬこともある。
国防に関するサヨク共の詭弁を突破し、年々厳しくなりつつある特亜の状況を
しっかり見据えて行く事が必要で、先生の様な方の情報発信は大変貴重に思われます。