【通州事件】日本も民間人を虐殺されたことがある(閲覧注意)【覚悟を決めた人はシェア】

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ウクライナの惨状、全てがフェイクということはあるまい、仮に双方が情報戦を仕掛けていたとしても。そこには凄惨な、「罪」が在る。かつて、日本も民間人を虐殺された過去がある。通州事件だ。

”通州事件”という単語を耳にするだけで、肌が粟立つ保守の方も多いだろう。私もかく言う一人だが、この事件の残虐性もさることながら「風化させていこうとする勢力」の存在に怒りを感じている。
ネットの存在により、メディアの「報道しない自由」は崩れつつはある。

ネット保守においてはある程度の市民権を得てきたように思いますが、これほどの凄惨な事件を、多くの日本人は知りません。当時の報道・軍の資料・海外でのソースなど、完全に証明が可能な事件です。通州事件は、(例えばCHINAが主張する南京大虐殺の虚構など)後世において外交上、作りあげられた歴史ではありません。

当然のことながら、本エントリは18禁とさせて頂きます。
強姦・殺害・虐殺のオンパレードであり、特に女性の方は直視できないと思います。自信のない方は、読まないでください。それでも歴史を直視する方のみ、ご覧ください。

 

 

 

 

 

 

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通州事件の概要
以下は、<出典>しらべかんが著『天皇様は泣いてござった』の書き起こしで、ねずさんのひとりごとからの転載です。
冒頭部分は、通州事件に至るまでの(事件を目撃した者の)エピソードが続きます。
時代背景も踏まえ、ご覧ください。

 

【Sさんの体験談】

私は大分の山の奥に産まれたんです。
すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんというシナ人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、
「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

そのときは全く驚きました。
冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。
でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

シナの人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。
でも、無事結婚式が終わりますと、すぐにシナに帰るというのです。
でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。
自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

それで仕方ありません。
私はTさんに従ってその年の三月にシナに渡りました。
長い船旅でしたが、シナに着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。
私はシナ語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれどシナ語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。
通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いてシナ人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

 *

それは昭和九年の初め頃だったのです。
Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、シナ人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこのシナ人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。
通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。
私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、シナ人の服装に替えておったのです。

すっかりシナの服装が身につきシナの言葉も大分慣れてきていました。
それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。
遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私がシナ人の服装をしているのでシナ人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。
そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。
Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、シナと日本は戦争をする。
そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。
それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

 *

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。
只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口をシナの人達に言いふらしているのです。

私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。
そして日本は今度はシナを領土にしてシナ人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。

そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。
するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々もシナ人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。
Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。
私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。
道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。
目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。
日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。
大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。
この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍がシナを立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。
行商に歩いていると日本人に出会います。
私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。
すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、
「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」とシナ人達に言うのです。

最初の頃はシナ人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、シナ人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。
特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

 *

私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。
それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうしたシナ人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。
それはシナのあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうしたシナ人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。
そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。
こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

でも何も変わったことはありません。
これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。
そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、シナ軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

日に日に日本に対する感情は悪くなり、シナ人達の間で、
「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。
その当時のよく言われた言葉に、
「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのはシナだ」という言葉でした。

私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。
シナの子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔をシナが滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。
そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

 *

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
私はびっくりしました。
それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いやシナという国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本ではシナ撃つべし、シナ人は敵だという声が充満していたそうです。
そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。
それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。
でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。
しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。
そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。
この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
でもTさんはそれを許しません。
それで日本人の居留区日本人と話すときもシナ語で話さなくてはならないのです。
シナ語で話していると日本の人はやはり私をシナ人として扱うのです。
このときはとても悲しかったのです。

それとシナ人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人がシナ人に対して優越感を持っているのです。
ということはシナ人に対して侮蔑感を持っていたということです。

相手がシナ人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くのシナ人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
このことが大変悲しかったのです。
私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいるシナ人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。
でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

こうした日本人の傲りとシナ人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。
Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
それだけにこの通州のシナ人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
「困った、困った、こんなに日本人とシナ人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
と言うのです。

 *

そしてシナ人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。
いやむしろシナ人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。
Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。
今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。
そして「危ない」「危ない」と申すのです。
それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、シナ人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。
だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、シナの国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

それが七月になると、
「日本人皆殺し」
「日本人は人間じゃない」
「人間でない日本人は殺してしまえ」
というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。
鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。
シナ人達が大騒ぎをしているのです。
何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍がシナ軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したのでシナ人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

私はびっくりしました。
そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。
でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

この頃でした。
上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。
蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

 *

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。
突然私はTさんに烈しく起こされました。
大変なことが起こったようだ。
早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
町には一杯人が出ておりました。
そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

でもまだ辺りは薄暗いのです。
何がどうなっているやらさっぱりわかりません。
只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。

私はTさんと一緒に逃げながら、
「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。
でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

それが八時を過ぎる頃になると、シナ人達が、
「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。
突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。
そして、
「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
と私を抱きしめるのです。

それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。
それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
私はTさんと結婚してシナ人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。
それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

 *

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。
誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。
私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。
只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。
何か生臭い匂いがするのです。
血の匂いです。
人間の血の匂いがして来るのです。

しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
沢山のシナ人が道路の傍らに立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。
その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
体はぶるぶると震えておりました。
その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。
そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。
シナでも七月と言えば夏です。暑いです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。
しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。
そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。
娘さんは「助けてー」と叫びました。
と、そのときです。

一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。
すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。
何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。
娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。
そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破けます。
肌が出ます。
血が流れます。
そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。
その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
又腹を突きます。
胸を突きます。
何回も何回も突き刺すのです。

沢山のシナ人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
暴虐無惨と申しましょうか。
あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。
この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。
その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。

シナ人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。
ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。
そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。
こんな姿を見ながらその近くに何名ものシナ人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
目をしっかりつぶっておりました。
するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。

するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
見てはいけない。
見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
それから剣で首を切り落としたのです。
その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。

投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。
そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

私は立っていることが出来ない程疲れていました。
そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。
この残虐行為をじっと見つめていたのです。
腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
そしてその首はないのです。

何とも異様な光景です。
想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。
ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

私はハッと自分にかえりました。
すると何か私の胃が急に痛み出しました。
吐き気を催したのです。

 *

道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。
でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。
私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。
若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

しかしシナ人のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
だから黙って通してくれたと思います。

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。
私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。
痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
とても人間のすることではありません。
悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、シナの学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識はシナ人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることがシナ人の常識だったのかと初めてわかりました。
集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

シナでは老人は大切にしなさいと言われておりますが、このシナの学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。
この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。
十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。
こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

そしてそれだけではなかったのです。
学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
そして勿論裸足にしております。
その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

でも倒れることは出来ません。
外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

私は思わずTさんにしがみつきました。
Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

そして私の耳元でそっと囁くのです。
「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。
勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

そして私とTさんの周囲には何人ものシナ人達がいました。
そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般のシナ人は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。
しかしようもまあこんなに沢山シナ人が集まったものだなあと思いました。
そして沢山集まったシナ人達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

勿論これはいろんなことを言えば同じシナ人ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

これも又異様のこととしか言いようがありません。
こんな沢山集まっているシナ人達が少しづつ移動しているのです。
この沢山の人の中には男もいます。
女もいます。
私もそのシナ人達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。
旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

二人とも真っ青な顔色でした。
一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
どうしてやることも出来ないのです。
言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
いやその一部からは出血さえしております。
髪はバラバラに乱れているのです。
とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。
女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。
そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。
私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。
そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。
そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。
そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。
それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。
そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。
それがシナの悪獣どもが充分満足したのでしょう。
何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くのシナ人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くのシナ人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。
しかしこれを見ていたシナ人達はどうすることも出来ないのです。
私もTさんもどうすることも出来ないのです。

もうこんなところにはいたくない。
家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
沢山の日本人が殺されています。
いやまだ殺され続けているのです。
あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
耳を覆ってみても聞こえるのです。

又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。
旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。
お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。
お婆さんは仰向けに倒れました。
学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。
私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

そして、「くやしい」と申すのです。
「かたきをとって」とも言うのです。

私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
「いちぞう、いちぞう」
と人の名を呼びます。

きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。
するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
そして息が止まったのです。

私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。
そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。
するとシナ人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。
そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

何とその女の人はお腹が大きいのです。
七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。
学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

この女の人は何もしゃべれないのです。
恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。
学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっているシナ人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。
一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。
そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで事態が一変しました。
若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。
学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。
学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
すると今度はそこにいたシナ国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。
七名も八名ものシナの兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。
するとどうでしょう。
この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

それでもシナの兵隊や学生達は乱暴を続けております。
そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。
それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。

私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
これはもう人間の行為ではありません。
悪魔の行為です。
悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。
目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。
人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

私はTさんにすがりついたままです。
何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。
地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

そしてそれだけではありません。
別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。
一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
残った腸の細切れを見物していたシナ人の方へ二つか三つ投げて来ました。
そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

しかし見ていたシナ人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。
この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

そんな人間でない連中のやることに、流石にシナ人達は同調することは出来ませんでした。
まだ見物しているシナ人達は人間を忘れてはいなかったのです。
そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。
そして一生懸命逃げようとしたのです。
見ていたシナ人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
妊婦はバッタリ倒れたのです。
すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。
私は何をするのだろうかと思いました。
そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

だがシナ人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーッと飛び散りました。
私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。
妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。
お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あまりの無惨さに集まっていたシナ人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人のシナ人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

「日本人が処刑されるぞー」
と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
しかしそれはシナの学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんがシナ人であったということです。
そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちはシナ人の嫁さんだから私もシナ人だと思い込んでいたのです。

そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私もシナ人だと思うようになっていました。
そして早く本当のシナ人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

そしてこの一、二年の間はシナ語も充分話せるようになって、誰が見ても私はシナ人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私をシナ人としか見ていないのです。
それでシナのいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方をシナ人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはりシナ人です。
私の心は通じておりません。

そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはりシナ人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。
そこには兵隊や学生でないシナ人が既に何十名か集まっていました。
そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。
ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。
何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。
私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。
引き金に手をかけたらそれが最期です。
何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。
日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。
するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

バタバタと日本の人が倒れて行きます。
機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。
そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。
五十数名の日本人は皆倒れているのです。
その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。
こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。
見物しておったシナ人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

これは一体どういうことでしょう。
私には全然わかりません。
只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。
その近水槽の近くに池がありました。
その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人ものシナ人がいるのでそれは出来ません。
若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外のシナ人達はおかしく思うに違いありません。

国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どのシナ人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいるシナ人達からあの人はおかしいではないかと思われる。
Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。
そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

そして首を前の方に突き出させたのです。
そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。
この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。
そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。
Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。
そして見たくはなかったけど池を見ました。
真っ赤な池です。
その池に蓮の花が一輪咲いていました。

その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。
しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人もシナ人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

 *

昼過ぎでした。
日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。

ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。
でも日本軍が来たというだけで逃げ出すシナ兵。

とても戦争したら太刀打ち出来ないシナ兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
このときシナ人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。

私は今回の事件を通してシナ人がいよいよ嫌いになりました。
私はシナ人の嫁になっているけどシナ人が嫌いになりました。

こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。
でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

<出典>しらべかんが著『天皇様は泣いてござった』
本文の文字起こしは、徳島の保守のみなさんによります。

 

 

 

 

なぜ、通州事件は起きたのか。
私は、歴史家ではないため、学術的な観点は、この際すべてを排除します。
ですが、付け焼き刃の知識であったとしても、確実にわかることはございます。

 

国家としてナメられたから、です。
為すべきときに、為すべきことを為さなかったから、です。
中途半端な対応を繰り返し、その場その場を凌いだ結果、より酷い結果を産む。

通州事件が生じる前、背景なども含め「日本側は把握していた」というのが一般的な研究成果のようです。流石にここまで「対日感情が悪化」しておれば、把握はしていたのです。それを、事なかれ主義でしのいだ結果、むごたらしい虐殺につながりました。

「撃たれる前に撃て!」とは言いませんが、
相手が、ちょこちょこジャブを打ってきているときに、
(相手に)「たいしたことない」と錯覚させるような、中途半端な処理はしてはならない。

 

その背景、前後について、ねずさんの分析。

 

 

 

いま、求められること
通州事件は、単に過去の事件とは考えておりません。
むごたらしい虐殺があったことを理由に、例えば某隣国のように被害者ビジネスをしようとも思いません。
まずもって、哀悼の意を持つこと。
大切なのは、その次に何をするか、何を学ぶか、です。

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言いますが、私たちはどちらでしょう。
過去のこととして、歴史の忘却の彼方に置き去りにするのか。

いま我が国を取り巻く環境は、実は通州事件が勃発する前夜に近い。
かつて、我が国は「誤った対応」をとり、結果として国民の血を流した。

当時、国内では「自らの選挙区に関連する」内容ばかりで政争に明け暮れ、
在外邦人の身に危険が迫りつつも、政府・国会議員らは、「国防と外交」という国家の一大事を放置。

これも当時を振り返っての分析になりますが、
アジア圏の利権、また西欧列強に対抗するという大きなテーマも背景にはあったのでしょうが、
CHINAなどのご機嫌を伺い、「暴発するまで」放置するという罪を犯した。
現代の日本と比較して、皆様はどう感じますか?

 

翻って国民はどうか。
当時の報道資料を読み込んだわけではありませんが、メディアは「どうでもいい政争」ばかりを報じ、国民もそれに一喜一憂していたわけです。

ここで「国民」に話題を振ったのには理由があり、政治家は「思っても」、「世論がなければ決断できない」ことを忘れないで欲しい。
思いある政治家は多数、いる。だが、見える形での「声なくして」動けば、メディアに撃ち抜かれて散るだけだ。国民が声をあげねば、動けぬ。

 

 

 

 

口を開けて、そこでゆでガエルになるのか。

 

誰かがやってくれる、政治家は「勝手に動く」と盲信し、

 

自分は何もしなくていいと、そのように思い込むことで

 

自分ではない、【どこかの誰かが悪い】と、

 

免罪符でも得たいのか。

 

政治は、見える形での、国民の声がなければ、

 

動くことは【絶対にない】と言わせてほしい。

 

大メディアの報道は、確かにひどい。

 

ただし、政治家が見ているのは、国民世論だ。

 

このまま、第二・第三の通州事件を起こすのかい?

 

私は、嫌だね。

 

だから、こうして名を明かし、堂々と主張する。

 

強制はしない。

 

だが、通州で犠牲となった日本人、

 

婦女子、子弟らを思うに、

 

果たして黙ることができるのか?

 

私にはできない。

 

貴方がどうするかは、自分で決めるべきだ。

 

「拡散するかどうか」は、個々人で考えてください。

 

 

 

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【支援要請】戦うための、武器をください。

 

コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)

  1. 櫻盛居士 より:

    **********************************************************************
    共産党は2016年9月13日からの警告を無視し続けましたね。
    ならば、下記は決定事項と承諾したものと見做します。

     ・『テロを利用する共産党』
     ・『テロリストの味方である共産党』
     ・『テロに屈する共産党』

    **********************************************************************
     
     
    現在進行形のウクライナ侵攻に関する情報に関してですが、ウクライナ側も情報操作して居る可能性があると言う考えは非常に良いと判断します。

    ですが、ロシア軍による虐殺は無かったとは考えられません。
    何故なら、ロシア側の情報は中国共産党と同様に、自国向けの情報統制されたものか、ウクライナ向けの偽情報が殆どで、且つ西側諸国向けの情報は流し辛い状況が揃い過ぎて居る為、ほぼパブリック・ディプロマシーを用いる事自体にリスクを伴う状態に陥って居ると考えられます。
    故に、ロシア側からの情報は入手し難い状況にあります。

    対しウクライナは西側諸国からの支援が命綱である為、パブリック・ディプロマシーを多用せざるを得ない状況にあります。
    ですがこの場合、誤情報や偽情報ばかりを垂流して一時的に支持を取り付けたとしても、終戦の目処が立たない為に、どれくらいの期間誤魔化し切れば良いかの計画も立てられ無いので、使える手法は事実に基づいた情報をベースにウクライナに優位に働く様に味付けを行うと言ったものに限定されてしまいます。

    更に現ウクライナは西側兵器メーカーの実験場と化して居る為、各国のエンジニアが集う状態にあり、このルートから現状が漏れる為、誤情報や偽情報は用い難いのに合せて、世界各国から義勇兵や民間軍事会社も参戦して居り、米国義勇兵などは数個大隊が編成出来る規模の人数が入って居るだけでは無く、観戦武官なども公式、非公式問わず入って居るでしょうから、尚更誤情報や偽情報は使えない状況にあります。

    特にこの戦闘ではドローンの有効性の計測、対戦車兵器の有効性実験と改良点の洗出し、鹵獲したロシア軍兵器の譲渡やレンタル交渉、ロシア軍通信のデータ収集など、軍や軍事産業の関係者にとって、ウクライナは宝の山に成って居ます。

    つまり、虐殺が行われた痕跡を発見したとすれば、被害者数を適度に盛ったり、より残虐性を訴えかける構図の絵にしたりと、飽くまでも事実に基づいたマルインフォメーションで対応して居ると考えられます。
    更に大統領府や政府サイドは、バンドワゴン、平凡化、普遍化、転移の手法を重用し、証言利用を織り交ぜながら、少々のカードスタッキングでパンチを効かせて居るものと分析して居ます。
    ゼレンスキー大統領の各国国会での演説では、象徴的なものを利用した転移手法が基本と成って居り、そこに普遍的価値観を擽る普遍化、同じであったり近い状況にあると思わせる平凡化を用いて居ると考えます。
    最近のゼレンスキー大統領の髭や、オリーブグリーンの衣服は、自国向けの平凡化の一貫と思われます。
    偽情報を用いる場合は、殆どが前線の現場単位で、ロシア軍向けの情報でしょう。

    侵攻が開始された当初は完全にウクライナは窮地でしたが、ハイブリット戦を駆使した結果、ウクライナの地を宝の山と思わせる事に成功し、今の所ではそれが功を奏して居る状態です。

    上記を鑑みた場合、ロシアの蛮行はあったとほぼ確定しても良いのではないでしょうか。

    そして、実際はともかくとしてロシアが何となく劣勢であるかの雰囲気が漂って居るのは、ロシアが各国に対して侵略行為を正当化出来るだけの情報戦を展開出来無かった事と、ウクライナはハイブリット戦術を駆使して情報戦に於いて優位に立てた事が要因でしょう。
     
     
    この手法は保守層も学び、出来れば修得したいものです。

    仮に今後日中間で有事が勃発し、我が国の軍が大陸の地を踏む様な事があれば、通州で通州事件追悼大会を開催するなどすれば、第三者向けには結果的にハイブリット戦略として働く筈です。

    こう言った事も考慮した上で、通州事件の様な虐殺事件は風化させる訳には行きませんし、それを世論として醸成し、結果的に政治的に動かせるレベルに高める必要があると考えます。

    • 波那 より:

      本当にね、躍起になって言い立てている人には自分の側に引き込もうとしている意図があるので、基本的にどちら側の言い分にも付かない事が正しいと思います。但し、ウクライナでは街もインフラも破壊され住民にも悲惨な被害が出ているので、避難民を受け入れている周辺国への支援や、いつ終わるのか段々読めなくなって来ましたが戦争が終われば復興にも国として携わって上げたら良いと思います。ウクライナは三大穀倉地帯の国の一つらしいですから、こんなに食料自給率が低い日本なのですから将来を見据えて国益に沿った関係を築けるようにしておくべきだと思います。

      • 櫻盛居士 より:

        冷静に考えれば、先ず行動を起こす側程、大々的な広報を必要とする筈ですが、ロシアはこれを行ってません。
        本当にロシア存亡の危機に際して居たのであれば、寝る間を惜しんでプーチンはメディアや配信サービスなどを利用して、露出し続ける筈です。
        現に、ゼレンスキー大統領はそうしてます。

        何故プーチンがそれをしないのかと言えば、正当性を訴える事が土台無理で、出来無いからでしょう。
        あと、暗殺を恐れて居るのも一因でしょう。

        「プーチン 席」などのキーワードで画像検索を行うと、会談相手と馬鹿みたいに離れたテーブルに着席した画像が数多くヒットしますが、これは当に暗殺を恐れて居る証左と考えます。
        まぁ、平和な日本ではお笑いネタ画像扱いですが・・・。

        恐らくロシア国内でも、敵が多いのでしょう。
        こうして考えると、各国による制裁で首の回らなくなったロシアは、苦し紛れにプーチン暗殺で事態収拾を図ろうとする者が出て来るかも知れません。
        元々、プーチンを殺らなきゃ、自分が殺られると言った人もそれなりに居るでしょうし。

        まぁ、20世紀に入ってからの事と言うのに、ロシア皇帝ニコライ2世一家の所在も長年分からなくしてしまう御国柄だけあって、物騒な決着の付け方は得意でしょうし。

        扨て、ロシアを擁護する連中の言い分を聞けば、基本的にロシアの報道機関が垂流す情報と酷似して居ます。
        そもそもロシアの報道機関はテレビ局、通信社共に、何らかの形で国が運営に関与しており、自国民向けの情報を発信する機関であって、国際的に発信する機関とは言えません。
        対外向けには”ロシアの今日”などがありますが、これも活用されて居るとは言えません。
        はっきり言えば、何れも中国中央電視台とそう大差無い様な機関です。

        そこからの情報を鵜呑みにするのは、少々軽率過ぎるとしか言えません。
        新華社通信の情報を信じるのと同じですから。

        何故、そんな簡単な理論すら理解出来無いのかが、不思議でなりませんね。

        • 波那 より:

           あの長い長いテーブルの端っこと端っこに離れて会議してる画像にはホント笑ってしまいました。あんなに離れてたらお互いに声を張り上げないと聞こえないし携帯電話で話すのかと思いました。プーチンが疑心暗鬼状態に陥っているのが見て取れますね。
           そうですね、あんまり長引くと兵も疲弊して来るし国民への影響は測り知れないし、ケリをつける為には暗殺しかないと…あるかも知れないなとは思いますね。

           この記事が、あんまり気味が悪くてですね、忘れようと思ったのですが、どう思われますか?現代イスメディアって、私わりと信頼しているんですけどね…信憑性は私には分かる筈もなく…

          🔻プーチンが「暗殺」されたら・・・・・
          (1/3)
          https://gendai.ismedia.jp/articles/-/93152

          • 櫻盛居士 より:

            3ページ目に

            アメリカや日本のミサイル防衛網は無力化される。

            とありますが、日本はそもそもミサイル防衛なんて言えた代物では無いので、現実味がありますが、アメリカの場合は”どんな事態でも”報復が出来る様に軍備を整える事で、抑止力を効かせてますので、この記者は素人以下だと推察します。
            核にして通常兵器にしてもそうなのですが、大原則として”どんな事態でも”報復が出来るを前提としないと、抑止力は働きません。
            これ無しでは、核兵器を保有する意味は然程ありません。
            ですから、核保有を真剣に考えるならば、戦略核、戦域核、戦術核をバランス良く配備し、運搬手段も単体ミサイル、爆撃機搭載型、潜水艦搭載型とバランスを考える必要があります。

            巷で囁かれる「核保有さえすれば」と言う、核無敵論は神話に過ぎません。
            ぶっちゃけると、核シェアリングも良く分からずに期待値ばかり膨らませて居る人が多い様ですが、核攻撃を行うかどうかを決めるのは米国で、シェアして貰う国は使用に同意するだけです。
            而も、対戦国内に撃ち込むと米国を巻き込んだ核戦争に発展する危険性がある為、シェアして貰って居る国が侵攻を受けて不利に成った場合、シェアして貰って居る国の自国内で戦術核を使用する事で、敵軍を殲滅する事を目的として居るのです。
            決めるのは米国、同意だけするのがシェアして貰って居る国と言う、自らで自らの手足を切断を決める取決めと言う訳です。
            「敵国に盗られる位なら、自国内の一部を汚染して緩衝地帯にする」と言う、究極の選択をした場合しか使えません。
            強いて言うなら、効果は米国との関係性を強調出来る位でしょうか。

            亦た自国で核保有する場合も、何も考えずに核保有したりすると、核拡散防止条約の効力が小さく成ります。
            国際法は基本的に紳士協定ですから、信用を売払えば簡単に破れます。
            そこに、我が国がイージス艦を導入すればウリも、F-35を導入すればウリも、軽空母を保有しようとすればウリっとやる、気狂い国家が隣にありますので、下手に核兵器を保有すれば、例に漏れず「ウリもニダァ!」っとなるでしょう。
            気狂いに刃物状態を作り出すのも、それはそれで恐ろしい事です。

            扨て、プーチンの話題に戻しますが、核兵器の持つ抑止力は「”どんな事態でも”報復が出来る」にあると上述しました。
            従って下手にロシアが核を使用すると、報復攻撃によってロシアの文化、歴史的建造物や芸術、プーチンの娘や愛犬も失う事に成り兼ねません。
            その覚悟をプーチンはするのでしょうか?

            「自分が死ぬなら、世界も道連れだ!」っと覚悟決めちゃう可能性も否定出来ませんが、そこまでの馬鹿ならとっくの昔に死んでたんじゃないかと思います。

            ですので、使うとすれば嫌がらせの範疇に収まる使い方に成るのではないかと思います。

            記事中に記載のある「死の手」も、記者が想像を膨らませ過ぎなのではないかと思います。
            米国がそうである様に、ロシアもまた”どんな事態でも”報復が出来る体制を整えており、その為のシステムと言われています。
            この辺りは、ゴシップ誌だけに面白く装飾する必要がある為、それに沿った話の組立方に成って居るでしょうし。

            暗殺に関しては、今までもその危険性は常にあったでしょうし、これからもあるでしょう。
            基本的に今迄は、暗殺の動機として考えられるのが、遺恨か権力争いとう言うプーチン周辺の内的要因であったのに対して、今はロシアを愛する愛国者のロシア人が、ロシアを救う為に行動を起こすと言った外的要因が加わったと言った所でしょうか。

          • 波那  より:

            安心しました。聞いて良かったです。有難うございました。

        • 波那  より:

          安心しました。聞いて良かったです。有難うございました。

  2. 草莽の団塊です! より:

    小坪先生、自民党の政治家というお立場で、真正面から通州事件をブログに掲載していただき、本当にありがとうございます。爺は、小坪先生のブログやツィートでを拡散することくらいしかできませんが、いま、自分にできること、拡散をやりたいとおもいます。

    爺は、Sさん(佐々木てんさんですね)の証言をネットで読み、そのおぞましい事件が中國の通州で起こったことをしりました。なんと、数年前のことです。爺が中学から高校にかけて学んだ日本の歴史教科書には、いまや、嘘・捏造があきらかになった南京大虐殺の記載はありましたが、通州事件の記載はまったくありませんでした。

    1937年の7月に中國の通州で、邦人が200人以上虐殺されたおぞましい事件は、日本が国家として舐められたからと小坪先生は記載されましたが、21世紀の現在の日本も、中國に舐められているんじゃないでしょうか?

    北海道では既に静岡県に相当する面積の土地が中國人または中國が背景にいる企業に爆買いされ、また、尖閣沖には毎日、中国工船が尖閣領海のまわりを徘徊している状況!
    どう考えても、中國は日本を舐めているとしかおもえません!
    それに対して、日本政府は為すべきことをしているともおもえません!まったく!

    中國が台湾に侵攻するような事態になれば、おそろく、日本の尖閣にも中國は侵攻してくる、つまり、日本と中國との間で有事がおこれば、きっと、21世紀に通州事件が中國のあちらこちらでおきる可能性があるなと爺はおもいます。

    だから、日本国民は、決して、1937年の7月、日本人200人以上が惨殺された通州事件を決して忘れてはならない!とおもいます。

    • 波那 より:

      草莽の団塊様が仰っているように、戦後の日本人は真実を覆い隠した自虐史観を押し付けられ教育されて来ました。ネットが普及していなければ私達は未だに中国と韓国、在日朝鮮人に言われるがまま、されるがままだったかも知れないです。政府自体が自虐史観一色でしたし、官僚だってそうです。その結果が一番日本に置いてはいけない中国人と在日朝鮮人を居座らせて、好き放題にされる日本に成り下がり、政治家も手を付けない内にメディアには彼らに入り込まれてしまい、日本の未来を担う日本人の若者よりも中国人の留学生の方が優遇されるなど異常な顛末です。殆どの政治家も官僚も未だに自虐史観から目覚めていません。

      何年も前に見た南京入城の記録映画を探して来たので御覧下さい。蒋介石の国民党軍から逃れていた南京の中国人達が、日本軍が制圧した南京に大挙して戻って来ていますし、兵隊さんが出入りしてる建物の前で中国人の子供達が無邪気に爆竹鳴らして遊んでいます。虐殺される街に中国人が戻って来ますか。またコメント欄にあるように200人もの従軍記者が同行していたのです。誰一人何にも書かなかったなど有り得ない。

      “戦線後方記録映画『南京』(リマスター完全版)Documentary film “Nanking”Dec14,1937-January 1938, 67minutes” を YouTube で見る
      https://youtu.be/_dmQxstHIqY

      中国に行った時に、旧社会党の田邉誠が中国に進言して建てさせた南京大虐殺紀念館に行き、日本人は皆見るべきだと言った公明党の山口。あんなのが与党にいます。

      • 草莽の団塊です! より:

        波那様、貴重な情報ありがとうございます。
        ”戦線後方記録映画『南京』(リマスター完全版)”、この映像を爺は、永久保存版として脳内にも記録しておきたいとおもいます!

    • 波那 より:

      上記の従軍記者についてのコメントは、こちらの省略版のコメント欄の方に書き込まれたJUN JUN と言う投稿名の外国人によるものです。

      “戦線後方記録映画「南京」 1938年東宝文化映画部作品.avi” を YouTube で見るhttps://youtu.be/nos2prviBq8

      4ch は世界中に散らばってる中国人と日本に巣食って居る在日達のプロパガンダに使われていますが、南京大虐殺についても、そうです。ですが、実際に有った事を書き込んで日本を擁護する欧米人もいます。日本軍には大勢の従軍記者が同行していた事も、その人達から知りました。

      なでしこアクションが、あなたは南京戦後の記録を知っていますか?と言う記事内で資料を出されていますので検証資料として、こちらに載せます。中国韓国の言われ放題にされるのは終わりにしたい政治家の方がいらしたら、お読みになって下さい。

      http://nadesiko-action.org/?page_id=11208&cpage=1

      • 草莽の団塊です! より:

        波那様、続けて貴重な情報を教えていただきありがとうございます。

        こちらも、爺の脳内に永久保存といたします。

        閑話休題・・・
        慰安婦問題について、真実を教えてくださったのは、なでしこアクションさんのブログに記載されていた情報でありました。なでしこアクション代表の山本優美子さんのお姿を初めて拝見したのは、チャンネル桜だったと記憶しています。

  3. BLACK より:

    最近「政治家はサーファー」と言う言葉を耳にしました。
    「国民の声と言う波がなければ乗れぬ」と。

    選挙区の有権者の「波」と言うと、悪い意味に受け取られることも多いですが
    選挙区の有権者の「波」にも期待したいです。
    具体的に言うならば、特に広島県民と長崎県民の声に期待したいです。
    平和団体では無く、一般庶民の県民の意識を知りたいです。
    声の大きな団体の声ばかりでは無く、一般庶民有権者の波が必要だと思います。

    「甘くみられる」「舐められる」と言うこと
    「優し過ぎること」「大人し過ぎること」「反論しないこと」
    そして「不安を直視しないこと」は
    相手を犯罪を誘い、相手に罪を犯させることです。

    ウクライナ侵略を誘ったのならば米国政府もバイデン大統領も悪いのでしょう。
    「参戦しない」と事前に明言しているのも誘ったことになるのでしょう。
    私も同感であります。

    では、現状の日本はどうでしょう。
    「専守防衛」「憲法9条」「日中友好」「経済協力」「核廃絶」等々
    この日本の態度は誘っていると解釈することも可能ではないでしょうか。
    もちろん日本政府が誘ってなどいないことはわかっていますが
    日本はそうであっても、相手はどう感じるでしょうか。
    「やりやすい」と思わせることも一種の罪ではないでしょうか。

    下世話な表現ですが
    「そんな短いスカートをはいているのが悪い」
    「夜道をひとりで歩くのが不用心だ」と言う言い方がありますが
    それは理不尽な理屈でありましょうけれども
    今の日本は短いスカートを履いて夜道を歩いている若い女性ではないでしょうか。

    ロシアの北海道侵攻を怖がる必要は無い、日本は防衛出来る
    中共の日本侵攻は今回のことで遅れる、等々の言論も目にします
    それはその通りならば少し安心出来ます。
    ですが、ここで「怖い、怖い」「恐ろしい」「不安だ」と国民の波をつくることもたいせつなことだと思います。
    極端な言い方ですが、国民全員が怖がり、恐怖感を持つことが必要・重要だと私は思います。

    それが、日本防衛と国民ひとりひとりの生活と命を護ることであり、
    日本国内で令和の通州事件を起こさせないことであり
    三発目の核を落とさせないことにつながると私は思います。

    ロシアも中国も、日本人の感性では生きていない。
    ロシアも中共も、21世紀の、戦後秩序の世界を生きていない。
    誰が悪かったにしても、ロシアがウクライナに対して行っていること。
    そのこと全てに、怖がりましょう。
    「怖がらないこと」は、時にとても恐ろしいことです。
    「怖がらないこと」は、特に無知な証です。

    昔読んだ木村みのり氏の作品に
    みんなが平気で遊び中に走り抜ける小さな手彫りトンネルに入ることが出来ない子供がいて
    「どうして私(僕だったかも)はあのトンネルにみんなと一緒に入ることが出来ないのだろう。どうして弱虫なんだろう」と言うその子にある大人が
    「みんなはあのトンネルが崩れることを考えたことが無い。だから平気で走り抜けることが出来る。あなたはあのトンネルは崩れるかも知れないと気づいている。だかに怖いのでしょう。」と。

    以上 文責 BLACK

    • BLACK より:

      JBpress 4月12日アップ 西村金一氏寄稿

      「北海道でブチャの惨劇、ロシア軍再構築で高まる危険
      ウクライナでの虐殺・レイプ・拷問は札幌市内でも起こりうる」

      以上 文責 BLACK

      • 名もなき一般兵 より:

        「この世界は、病的な用心深さと、それ以上の臆病さを持ちあわせている奴だけが、生き残れる資格を持っているのだ」

        なんかふと思い出しました。

  4. 神無月 より:

    国民の世論が政治家を動かす事は、民主主義ですので正論です。

    その世論を動かす力が、メディアな所が厄介なのですよね。

    保守層では誰でも知っている、スイス政府発行の 民間防衛白書

    第一段階「 工作員を送り込み、政府上層部の掌握と洗脳 」
    第二段階「 宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導 」
    第三段階「 教育の掌握。国家意識の破壊 」
    第四段階「 抵抗意識の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用 」
    第五段階「 教育やメディアを利用して、自分で考える力を奪う 」
    最終段階「 国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量移住で侵略完了 」

    現在は第五段階ですので、自分で考える力が貧しい状況でしょうか?

    大手メディアは決算上何処も厳しいようですが、視聴者、購読者がある程度洗脳?されていればギリギリ運営出来るのでしょう。

    なにせ、視聴率など経営に関係ないNHKが視聴率を気にし、変な番組を作っているのですから呆れます。

    日本人が痛い目に遭い、政治に無関心だった己を後悔し目覚めればよいのですが、○○が悪いと他者に責任を押し付けているようでしたら、最終段階でしょうね。

    ネットも一時期は力を付けて期待したものですが、トラさん阻止の言論統制で、言論の弾圧が正当化してしまい、ネット空間も共産化に近付いているように見えます。

    皇室の行方にも、不安を感じたままです。
    .

  5. ミカンの実 より:

    小坪議員、有難うございます!こういうことをもっと政治家はしっかりと拡散していただきたい。せめて小坪議員のこのページを読んで拡散行動をしていただきたい。
    私も当然拡散行動しますが、いかんせん、ただの一般人ですからね。なかなか難しいです。
    これは事実ですから、何も遠慮は入りません。
    このことに不平不満を述べる人は日本人ではなさそうですしね。
    堂々として居ればよろしいですよ。

  6. ロード より:

    我が国が潜在的な殺人鬼を肥え太らせていることに、やるせない気持ちでいっぱいです・・・。

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