2015年の本日、つまり8年前に書いた記事を再編集して掲載する。自分自身でも読み返すために。
私も当選直後は最年少議員、全国的にも若手は僅かな時代だった。何を思って政治を志したのか、あの日の私の思いを振り返りたい。いまも私の心に刻まれるもの。
※ 8年前の記事です。
たまには硬派なことも書いておこうと思う。
子供の日、端午の節句を祝うような記事ではないが
今日、この日、「大人たち」に申し上げておきたいことがあります。
※本エントリは、行橋市議として行った研修視察、その調査レポートをベースに加筆修正したものです。
市に特化した部分は削除・縮小、特に訴えたいテーマに関しては加筆、またブログ用に改行・段落構成を変更しています。
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調査研究報告書 調査概要
~第9回全国市議会議長会研究フォーラムin岡山
第9回全国市議会議長会研究フォーラムに参加した。今回の開催地は岡山県であった。同フォーラムは、一年交代で西日本・東日本で開催されている。日頃は知り得ない、他府県の地方議会の動向を知ると共に、その雰囲気を知ることができた。
今回の講演において特に注目されていたのは、「自治体が消滅する」という人口減少の話であった。あまりに有名な試算であるが発表した本人自身が講演をし、質疑応答も含め直接行うというもの、質問者・パネラーも含め非常にレベルが高い。会場の熱気、つまり地方議員らの雰囲気も凄まじく真剣なもので、全国の議員が真剣に取り組む様を直接見ることで、行橋市議会も負けてはいられないと私も強く奮起を促された。
しかしながら、やや冷ややかな目で講演を見ていた部分もある。
私は、29歳で出馬(一度目は惜敗)二度目も同じ政策テーマを掲げて出馬したているが、「やっとなのか」という思いもあるためだ。製造派遣をはじめ、若者のワーキングプアの問題は深刻であり、経済的な事情が障壁となり結婚・出産が難しくなっている。また、雇用を求め若者が地方から流出していっている問題。これはまさに私が主題として掲げ続けていた内容である。
地元にも同級生は、言うほどは残っていない。
多くが県外に出た。いい高校を出て、いい大学に行き、親にも地域にも誉められた者は、そのままいい会社に入り、県外で活躍する。私自身がそのコースを歩んだ一人だ。大学の友人の中には、そもそも国外に出ており日本にいない者もいる。この問題と、地域の弱体化、地域力の向上、これを訴えての出馬が29歳であった。
あれから7年が経とうとしている。
当時、20代であった私も36歳になった。ほどなく40歳となるのだろう。当たり前のことを述べるが、私は年をとる。そしてさらに当たり前のことを書くが、私の友人ら、同級生らも年をとる。残酷なまでに人は年をとる。20代後半であれば軌道修正の可能性もあった若者たち、いまは若者と言える期間も残り少なく40代にさしかかろうとしている。
いま、全国が、やっと、やっと夢中になり、私たちの世代に目を向けてくれた。嬉しくはあるが、複雑な思いもある。時間とは残酷であり、「間に合わない」という部分が、確実に出てくるからだ。政治が変わるには時間がかかる、少なくとも私たちの世代には、間に合わないのだろう。私が守りたかったもの、そこには手は届くのだろうか、と。
安倍政権は経済面も含め、その全てを礼賛するものではないが、よくやっていると評価する立場だ。特に外交面の立て直しは凄まじい成果である。確かにこの道しかない。しかし、若者の生活環境・労働環境が短期間において劇的に変化するとは、残念ながら思えない。数年に渡り、現状維持もしくは若干の上向きにとどまるだろう。20代後半であった若者たちが、40代となり職を含めた人生が固定されてしまうのは、残念ながら覚悟せねばならぬのだろう。
併せて思うのは、私たちの世代を「福祉財源」と勘違いしてはいないか、という点だ。非常に嫌味な表現にはなるが「若者」や「責任世代」という言葉を論じる際、私たちをして「財源」と勘違いしている節がある。政治だけではない、メディアだけではない、有権者それぞれが、だ。このことを強く主張したい。邪推と言われるかも知れないが、どうしても透けて見える、少なくとも私たちから見ればそうなのだ。その点はご理解頂きたい。
私たちの世代が稼げねば、当然、団塊の世代の福祉はない、ありえない。ここまでボロボロになっていった私たちの世代に、さらに何を背負わせようというのか。甚だ疑問でもあり、悲しく感じている。その上で、少子高齢化だ、車を買わぬだ、色々と騒がしい。虚しさは募るばかりだ。
私たちは生きている。
自動車産業を牽引することは大切だ、裾野の広い業界であり我が国の国益の一翼をなす。かつて私もその一陣にいた、重みはよくわかっている。その上で、私たちは自動車産業のために生きているのではない、と言わせて頂きたい。また、福祉を支えるために子を産み育てるのではない、自らの子がかわいいゆえ大切に育てるのだ。
はっきり言わせて頂くが、この点を勘違いしている者が多いように思う。私は理系であり数字を繰る者だ、しかし数字を繰るのみに終始することを嫌い、数字の向こう側を見ない者を嫌う。一面のみをトリミングした、都合の良い数字の虚構を嫌う。サヨク嫌いは、数字をバカにしていると感じるゆえ、という部分も大きい。
特に社会とは大きなシステムであり、その全景を見る必要がある。社会とは、また予算とは、一か所のみ帳尻をあわせても正常に動作するようなシステムではない。それは素人のすることだ。かつての若手技術者であった私であれば「バカのすること」と言うところだが、いまは議員であるため素人のすること、と表現を抑える。
全景を見た上でのでバランス、その上での選択と集中。これが理系を売りにする私の矜持である。
私は、身体の弱ってきた高齢者を見捨てよ、とは言わない。思ってもいない。しかしながら、与えられて当然という風潮には疑問がある。福祉は世代間の助け合いであり、国や行政が仲介するとは言え、結局のところ、支えるのは私たち若者だ。
私たち当事者のことを、あまりにもないがしろにしすぎではないか。国が負担するわけでも、行政が負担するわけでもない。「国の負担・責任」「行政による施策」と堅い言葉に変換することで、その先にあるものを直視することから逃げてきた、と言っているのだ。結局は、私たち、もう若者とも言えなくなりつつある層が負担する、この事実から逃げていると言っているのだ。福祉を必要としていく高齢者も、秒読みとなった団塊の世代も、このことを忘れ過ぎている、または意図的に見ないようにしているように思えてならない。
もし見ているのであれば、以下のような議論も出てくるはずだ。「今までと同じ規模の福祉」という受け取る側の発想のゴリ押しではなく、団塊の世代が「どれぐらい支えたか」という実績に基づいた「支える側の発想」だ。私たちの給与が下がったのであれば、その割合に応じて「支える額」も調整すべきだ。若者が減ろうが増えようが、「支える側」の負担率で論じてくれてもいいではないか。なぜ受け取る側が不変で、支える側だけが変動せねばならぬのか。
さらに踏み込めば、団塊の世代と同等の比率で、「まず生活費や子育てにかけるコスト」を捻出させて頂きたい。それら、今後福祉を必要とする層が現役であった時代、自ら裁量できた比率と同レベルで生活費(教育費などの子育てのコストを含む)にまわさせて頂き、残った分から福祉コストを背負う。
もっとシンプルに言えば「いくらまでなら払えますか?支えることができますか?」という、私たちの観点における問いかけがない!と言っているのだ。どちらにせよ負担はせざるを得ないのだろうが、請求書だけ回されても困る。使うにあたって、お伺い程度はあってもいいのではないか?
異常なことなど言っていない、異論などではない。これは正論だ。
まず現役が生活でき、その余力の中から「助け合い」として福祉があるのが社会である。福祉の根幹を直視していないがゆえ、異論に感じるだけであり、これは暴論でもなく正当な話、基本に忠実な意見だと述べさせて頂きたい。
また、以下の観点も欠落していると指摘させて頂きたい。
ただでさえ乏しい中、もうすぐ若者ではなくなる世代は「ない中で必死に供出していく」わけだが、受け取る側も「出された予算」の中で上手にやりくりして頂きたい、ということ。過大な福祉サービスがあれば、受け取る側が自ら辞す、廃止するぐらいの声はあがらぬものか。満足度、利用率が高かろうともコスト面から折り合わねば廃止せねばならぬし、「私たち若者の生活力」にあわせた福祉に縮小しようという声は聞こえない。
このような声が出てこないということは、与えられて当然と考えているからであり、それはつまり私たちの世代は「ただの福祉財源」と思われているに過ぎないのだろう、そう思うよりない。便利なATM程度にしか思っていないのだろう、若者に過度の負担を強いることが当然だと思っているのだろう。乾いた雑巾を絞るように、私たちはさらに衰弱していくのだろう。
自治体消滅にしてもそうだ。同じことが言える。いま行政が夢中になっているのは「自分の自治体が消えては困る」からだと思う。生まれ育った町を守りたい、その思いもあるのだろうが、雇用としての「庁舎」や職場としての「議会」が消えること、自らの身に降りかかると認識したがゆえ、地方議員・地方自治体の公務員が必死になっている側面もあるように思う。言い換えれば、自分のためにやっていることであり、私たちの世代のためにやっているかは、やや疑わしい。
会場においては、どの議員も真剣に講演を聞き、必死にメモを走らせていた。その必死さは、本当に私たちのことを見てのことだろうか。見据える先に、私たちはいるのか。自らのバッチであったり、市職員らにとっては自らの老後であったり、彼らが見ているのはそちらではないかのか?
無論、私にはわからない。ゆえに、少し冷ややかな目になってしまうのだろう。
とは言え、やっと目が向けられたことも事実。世論が追い付いてきた、世界が動きはじめた。遅きに失した感は否めないが、それでもやるしなかい。やらないよりは、やったほうがいい。私は、講演に集中しつつも、恐らくは少し違うことも考えていたように思う。会場の皆が見ていたものと、私が見ているものが少し違うからだと思う。
間に合わない。
私たちの世代は、もう間に合わないのだろう。それを覚悟した上で、間に合わぬと理解した上でさらに歩を進めねばならない。虚しさに包まれあがらぬ足を、諦観が拘束する腕を、精神力で振り払って、それでも一歩前に出る覚悟。
割れんばかりの拍手に包まれる会場、
強い覚悟をもって、見据えていた。
日本の未来、行橋の未来、若者の未来、
まだ産まれ来ぬ者たちの、我が国の将来を。
行政施設が残るか否か、議員の数がどうなるか、そこは私の主題ではない。眩しい光の中、盛大な歓声の中、その思いが明確になっていった。脳内が、心が、クリアになっていく。私が政治家になったのは、誰のためか、何のためか。
恐らくは講演の本旨とは離れるのだろうが、多くの地方議員らと共に講演を受けることで、私が受けた影響は以上である。その影響は、私にとっての原点であり、覚悟を決める素晴らしいきっかけとなった。非常に有意義な研修であった。
最後に。
西日本、東日本と交互に開催していくことにも大きな意義があるように感じた。確かに県名は聞くが、あまり訪れることもない岡山県。旅行気分ではいけないが、様々な自治体を歩くことで、都市計画や町の雰囲気、触れることで見えてくるものは多々ある。行橋との違いを比較し、実感・体感することは想像以上の効果があったように思う。
行橋市議会議員 小坪慎也
私は、確かに市議の範疇を飛び越え、国政マターにも手を出しているのかも知れない。
しかし、それは政治家としての原点に立脚したものである。
福祉財源の適正化、これを本気で進めるためには共産党と対峙する必要がある。
それは当然の帰結でもあった。
一例を挙げよう。
行橋市民の多くは、生活保護費がいくらなのかを知らない。
市報に掲示されていないためだ。HPを含むどこにも、web上にも公開されていない。民生費(福祉予算)に、混ぜて発表されている。
我が行橋市の歳出予算は270億円。(平成27年度)
そのうち民生費(福祉予算)は110億円であり、42%を占める。まずこの比率がおかしいと感じはしないのか。
家計収入が27万で、祖父母への仕送りに11万円を送れば家計はもたない。
(子育てや若者向けの福祉予算も含まれてはいる。)
私が市議になった際、3年前は福祉予算は70億台であったと思う。この数年でここまで増加した。
福祉を取り扱う文教厚生委員会において副委員長を拝命していたが、その際の生活保護費は30億を超えており、福祉予算の半分近くが生活保護費であった。
この、生活保護費が30億を突破という数字は、委員会で問うたものだ。暴露などではなく市議にとっては常識の数字なのだが、「市民は知らない」のだ。実際にググってみるといい、どこにも数字は出てこない。
いまの数字がどれほどかは、委員会を変わったためわからない。ただ、福祉予算の半分近くが保護費で占められている現状を知らされず、その上で政治を論じることに嫌気がさした。
余談になるが、私が文教の副委員長を拝命していた時代、実際には収入がある保護者に対して、行政として訴訟を起こし、相当に厳しくなる契機となっている。
福祉予算の適正化を論じるのは、一重に、「私たちは生きて行く」という思いゆえだ。
外国人が憎いとか、保守だからではない。
私は単純に数字に正直なだけであり、保守は保守でもシステムの保守と言ったほうがいい。
バグがあったので訂正しようとしているのみ。
外国人の扶養控除にしてもそう、国保の海外療養費にしてもそうだ。
全てはこの観点よりスタートしており、私の中では軸は通っている。
共産党と正面から撃ちあわざるを得ないのは、福祉予算の適正化において避けれぬ状態であるからだ。
私たちの世代の生存権を賭けて、やるしかなかった。
政治は次の世代への贈り物だと考えている。
直近の先輩たちには、恨みもある。その復讐として私がとった方法は、あとの世代に尊敬され感謝されること、だった。
私は、間に合わぬことも覚悟した上で歩を進める。
なぜならば、また投票用紙も持たぬ中高生らに、先輩たちの時代は頑張ってくれたんだな、って思って欲しいから。
そして、どのような時代であろうとも、私たちの世代は生きて行くのだから。
これが若い議員としての、世代に対する責任と覚悟。
政治家としての生き方、私の基本スタンスです。
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大切な人を守るためにも
ぜひコロナワクチンを接種してください。
また出たな、背乗りぽん。
お前が、100回でも200回でも打ってファイザー様に協力したら・・・・色々ばれてるぞ
地方自治体の財源は地方税収+地方交付税なので、財源に限りがありますが、政府の財源は税収ではないので金額面では制限がない(制限は国民側の供給能力)、その認識があれば、世代間で対立する必要は無いのですが・・・それをずっとブログで説明されている三橋貴明さんと対談されるとのお話があった時には、小坪さんの認識も(甘利さんや高橋洋一と近いようなので、貨幣観が正しいか不安で、もしそうなら)アップデートされるかもと期待していたのですが、未だ実現に至っていないのは(特に今回の件もあって遠のいたのが)とても残念です。
読書は可能だと思いますので、ぜひ、三橋貴明さんの「日本経済 失敗の本質」、中野剛志さんの「どうする財源」をお読みいただければ、と思います。
東京都のコラボの杜撰会計から表に出てきた福祉利権。
この件について自民党本部や政府の動きはどうなってるんでしょうか?
波那様の意見を楽しみにしています。
私は波那様の辛口のコメント好きですよー。
資本主義は、ある意味、契約奴隷制度と紙一重の様なところも有りますので・・・
最近、AIの話題が聞こえてきますが、想像以上に高度な事が可能なようで、平凡な人間ではAIに使われるのも時間の問題かと。
量子コンピューターが実用となれば、計算速度は桁違いに爆速ですので、更に人間様は存在感が・・・
無くなる職業とかの動画も多数出ていますね。
定形処業務や専門知識(資格)の必要な職種等は、AIの処理速度には歯が立ちませんので大変そうです。
芸術系は著作権の兼ね合いも有り、どこからがAIのオリジナルと判断されるのか微妙なところも。
しかし、AIの学習速度は指数関数的に加速するそうですので、短時間でAIの芸術?で、人間が満足するのかも・・・
つまり、この先、高度?な仕事が減って行くのであれば、新たな就職氷河に襲われるのかも知れません。
産業革命の変革のような、根本の変革が必要になると想像します。
ある意味、変革は政治家さんや公務員さんの苦手分野かも知れません。
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