無謀とも言われる作戦だが一縷の希望に賭け、米軍の沖縄侵攻を阻止するため水上特攻が敢行された。
天一号作戦、大和轟沈。沖縄を見捨てぬため、一億総特攻の魁とならんがために。
サヨクは、「沖縄を見捨てた」等と述べるが、事実ではない。
ならばなぜ連合艦隊旗艦を務めた、戦艦大和は海上特攻とも言うべき突入戦を強行したのか。
出撃した艦艇は以下。
大和以下、軽巡矢矧、駆逐艦冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞。
日本海軍による最後の大型水上艦による攻撃となった。
すでに訓練を満足に行えるほどの重油はなく、浮き砲台とされた艦以外、
持てる艦艇のほぼ全てであった。
それでも大和には、戻ってこれるだけの重油が補給されたという。
(片道とする説は誤り。)
ただし、還って来れたのは、極僅か。
実は、この海上特攻(天一号作戦)のみがクローズアップされるが、菊水作戦と相互支援関係にある。
菊水作戦第一号(4月6日~11日)以降、第十号までの大規模航空特攻を伴う反攻作戦である。
海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施。
海軍2,045名、陸軍1,022名が特攻により戦死。
先祖を誇ることは重要なことだ。
その名誉を汚すことを許さぬ、明確にスタンスを示しておきたい。
ならば、今を生きる私たちはどうか。
それを問いたい。
軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏した際、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答。
大和の第二艦隊司令部長官の伊藤整一中将はなかなか納得しなかったが「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得した。
戦争も後半ともなれば、機体の性能にも開きがある。
整備や補給も満足に受けられない。
訓練だって完全とは言えず、硫黄島に至っては「ほぼ市民と変わらない練度」だった兵士も多く含まれていた。
かつて我が国では、我が国の未来を守らんがために、
一つしかない命を捧げてまで「産まれ来る子らのため」に身体を張った大人たちがいた。
彼らが命懸けで守った「未来」とは、まさに今を生きる私たちに他ならない。
先祖が偉いかどうかではなく、私たちはできるのか。
それを真剣に考えたい。
大和の画像、及び特攻の映像を紹介する。
実際に見て、それぞれ考えて欲しい。
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(OGP画像)
第1航空戦隊
戦艦大和
(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐):沈没。
被雷8本以上、直撃弾10発以上。戦死2,740、戦傷117名。
第2水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将)
軽巡洋艦矢矧(艦長:原為一大佐):沈没。
被雷7本、直撃弾12発。戦死446、戦傷133名。
※矢矧に座乗していた第2水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、矢矧艦長原為一大佐は、ともに生還。
第41駆逐隊(司令:吉田正義大佐)
冬月(艦長:山名寛雄中佐):帰還。
中破。直撃弾2発(不発)。戦死12、戦傷12名。
涼月(艦長:平山敏夫中佐):帰還。
大破、艦首部に直撃弾を受け大破。
後進で佐世保に帰還。戦死57、戦傷34名。
第17駆逐隊(司令:新谷喜一大佐)
磯風(艦長:前田実穂中佐):至近弾により機関室浸水。航行不能になり処分。
戦死20、戦傷54名。
浜風(艦長:前川万衛中佐):沈没。
被雷1本、直撃弾1発。被弾で航行不能になった後、被雷し轟沈。戦死100、戦傷45名。
雪風(艦長:寺内正道中佐):帰還。
至近弾のみ。損傷無し。
戦死3、戦傷15名。ロケット弾が直撃したものの不発に終わった(帰還後判明)とする説もあるが元乗員らの記録では別の戦闘での損傷とある。
第21駆逐隊(司令:小滝久雄大佐)
朝霜(艦長:杉原与四郎中佐):機関故障を起こし艦隊より落伍、正午過ぎに敵機と交戦中との無電を発信後連絡が途絶えた。撃沈されたものと推定。隊司令及び艦長以下326名全員が戦死した。
初霜(艦長:酒匂雅三少佐):帰還。
至近弾のみ。損傷無し。戦傷2名のみ。
霞(艦長:松本正平少佐):直撃弾2発。
うち1発が機関室を直撃、破壊。航行不能により処分した。
戦死17、戦傷47名。
対潜掃討隊(第31戦隊 花月、第43駆逐隊 榧、槇)は瀬戸内海離脱後、命令により反転帰還。
アメリカ海軍
第58機動部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将)
空母7隻
TG58.1-ホーネット(CV-12)、ベニントン、TG58.3-エセックス、バンカーヒル、ハンコック、TG 58.4-イントレピッド、ヨークタウン(CV-10)
軽空母4隻
TG58.1-ベローウッド、サンジャシント、TG58.3-バターン、TG 58.4-ラングレー
戦艦6隻
マサチューセッツ、インディアナ、ニュージャージー、サウスダコタ、ウィスコンシン、ミズーリ
その他の支援艦艇
大型巡洋艦アラスカ、グアムと多数の駆逐艦
空母艦載機 386機(367機)
沖縄を救うため、水上特攻がなされた日である。
13:59 第1遊撃部隊に出撃準備下令。
4月6日
15:20 第1遊撃部隊が徳山沖を出撃。
19:45 第1警戒航行序列(対潜序列)。
20:20 磯風が敵潜水艦らしきものを発見、第二艦隊、米潜に発見される。
4月7日
06:00 第3警戒航行序列(対空序列)を取る。
06:30 大和が唯一搭載していた零式水上偵察機、本土に帰還。
06:57 朝霜(第21駆逐隊司令座乗)が機関故障のため随伴不能となり艦隊より離脱。
06:30頃-10:00頃 第5航空艦隊所属の零戦部隊による艦隊上空直衛が交代で実施される。
08:15頃 矢矧、水上偵察機を発進、本土に帰還。第1遊撃部隊、アメリカ軍の飛行艇2機に発見される。その後、艦隊は、アメリカ高速空母機動部隊から攻撃隊に先駆けて出撃したF6F戦闘機、F4U戦闘機計10数機の接触を受けながら、偽装航路を中止し、沖縄に向けて南下する。
10:00-10:30 奄美群島近海に展開していたアメリカ海軍第58機動部隊から、作戦機約400機からなる攻撃隊が、第1次攻撃隊と第2次攻撃隊とに分かれて、相次いで出撃する。
11:35頃 大和に搭載された対空電探が、約100キロの距離にいるアメリカ軍艦上機の大編隊の接近を探知する。
12:10 落伍した朝霜より、「ワレ敵機ト交戦中」との無電が入る。
12:15 大和以下の各艦が総員対空戦闘配置を完了する。第二艦隊、大島輸送隊とすれ違う。
12:21 朝霜より「九十度方向ヨリ敵機三十数機ヲ探知ス」との無電連絡が入る。この後、連絡途絶。この直後に沈没した。
12:32 敵攻撃隊の大編隊が雲間から降下し、第1遊撃部隊上空へ殺到し始める。第一次空襲が始まる。
12:34 大和以下の各艦が対空戦闘開始。
12:41 大和の後部に中型爆弾2発命中。電探室および主計課壊滅。
12:45 大和の左舷前部に魚雷1発命中。
12:47 浜風、轟沈。矢矧、航行不能。
13:00 第一次空襲終了。
13:08 涼月、前部砲塔付近に爆弾命中、大破。
13:22 敵機群第二波約50機来襲。
13:25 霞、爆弾2発命中、航行不能。
大和、初霜に通信代行を依頼。
13:33 第二次空襲始まる。
大和の左舷に魚雷3本が命中。大和の副舵が取舵のまま故障。
大和、涼月と衝突しかける[220]。13:45、舵中央で固定。
13:56 磯風、矢矧の救援中に被弾・航行不能。
14:05 矢矧、沈没。
14:20 大和、左舷に傾斜20度、総員最上甲板が命ぜられる。
伊藤長官が長官室に向かう。
14:23 大和、沈没(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。
14:23 伊藤中将の戦死により第1遊撃部隊指揮権を先任指揮官の古村少将が承継(この時点で漂流中)。
14:40 アメリカ軍の攻撃が終了。
16:39 作戦中止が下命される。
16:57 霞、沈没(砲雷撃により処分)。
17:42 初霜が古村少将(第2水雷戦隊司令官)を救助。
22:40 磯風、雪風の砲雷撃により処分。
4月8日
冬月、雪風、初霜及び涼月が佐世保軍港に帰投。
実写をベースに、一部をCGで再現した動画。
作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。
大和を含む水上特攻と相互関係にあり、作戦は第一号(1945年4月6日-11日)から第十号(6月21日-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられた。
特攻作戦と連動し、艦上攻撃機・天山、陸上爆撃機・銀河、艦爆・彗星などによる夜間雷撃や夜間爆撃も実施された。
少し長いため、折り畳もうかとも思ったが、できなかった。
「沖縄の為に」戦ったのだ。
知覧飛行場から出撃する特攻機と、見送る女学生たち。1945年4月12日
中島キ43一式戦闘機「隼」三型甲、第二十振武隊穴澤利夫少尉搭乗機、知覧飛行場、昭和二十年四月十二日
日本を法域とするこの写真画像は、(1)1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。または、(2)1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)され且つ起算日から10年以内に公表されなかったものである。これらの二つのいずれかであるため、日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により著作権の保護期間が満了しています。
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(根拠: 法文) 旧著作権法 [1] (明治32年3月4日法律第39号、最終改正昭和44年法律第82号)
1899年(明治32年)7月15日施行、1971年(昭和46年)1月1日廃止
第二十三条【保護期間?写真著作物】
写真著作権ハ十年間継続ス
前項ノ期間ハ其ノ著作物ヲ始メテ発行シタル年ノ翌年ヨリ起算ス若シ発行セサルトキハ種版ヲ製作シタル年ノ翌年ヨリ起算ス
写真術ニ依リ適法ニ美術上ノ著作物ヲ複製シタル者ハ原著作物ノ著作権ト同一ノ期間内本法ノ保護ヲ享有ス但シ当事者間ニ契約アルトキハ其ノ契約ノ制限ニ従フ
第五十二条
3. 第二十三条第一項中十年トアルハ当分ノ間十三年トス
「菊水一号作戦」・「第一次航空総攻撃」(4月6日 – 11日)
4月6日正午、海軍の作戦機は391機、陸軍は133機が九州と台湾の航空基地を飛び立った。うち特攻機は海軍215機、陸軍82機。
海軍第一制空隊30機が囮となり、さらに陸軍の司偵が東シナ海上にチャフを散布してアメリカ軍の防空網の目をひきつけ、沖縄本島上空に隙を作った。これを衝いて、特攻機がアメリカ艦隊へ突入した。特攻機の未帰還機は海軍162機、陸軍50機に及び、341名が特攻により戦死した。
6日15時、航空作戦と呼応して、大和以下の第2艦隊(司令長官:伊藤整一中将)第1遊撃部隊が徳山沖を出撃。7日、撃沈。
菊水二号作戦
「菊水二号作戦」・「第二次航空総攻撃」(4月12日 – 15日)
9日に「菊水二号作戦」と「第二次航空総攻撃」を発令したが、天候悪化により決行は先延ばしとなっていた。12日、作戦の決行が下令され、海軍の作戦機354機、陸軍の作戦機124機、うち特攻機として海軍103機、陸軍72機が出撃した。
12日の出撃には「桜花」8機が参加していた。うち1機は駆逐艦マナート・L・エーブルを撃沈、これは結局、桜花による唯一の軍艦撃沈事例となった。他にも特攻によりアイダホ」と戦艦「テネシーの2戦艦に損傷を与えた。特攻機の未帰還は海軍69機、陸軍49機であった。
ザ・コクピット 音速雷撃隊 MAD 「或る夏の一日」
桜花を描いた作品。(ショートバージョン)
菊水三号作戦
「菊水三号作戦」・「第三次航空総攻撃」(4月16日 – 17日)
16日、「菊水三号作戦」と「第三次航空総攻撃」が発令され、海軍は最大規模の出撃を敢行した。この日海軍は作戦機415機、陸軍は92機を投入。うち特攻機は海軍176機、陸軍52機であった。特攻機の未帰還は海軍106機、陸軍51機。この頃には既に陸軍の特攻機は実用機が不足し、旧式の九七戦や練習機を投入し始めていた。
空母イントレピッド、戦艦ミズーリなどが損傷した。さしものアメリカ軍も執拗な攻撃に悩まされ、サイパンにあったB-29を動員し、21日と22日に南九州の日本軍飛行場を爆撃した。
菊水四号作戦
「菊水四号作戦」・「第四次・第五次航空総攻撃」(4月21日 – 29日)
20日から22日にかけ、海軍は作戦機258機、うち特攻機26機を投入。特攻機の未帰還は3機であった。陸軍も作戦機11機を投入した。23日から26日の攻撃は低調に終わったが、27日から30日にかけて海軍は再び全力を動員し、作戦機587機、うち特攻機100機を投入、特攻機59機が未帰還となった。
菊水五号作戦
「菊水五号作戦」・「第六次航空総攻撃」(5月3日 – 9日)
5月3日、沖縄本島の第32軍は総攻撃を開始した。大本営がこれを支援する方策は特攻作戦しかなかった。同日、「菊水五号作戦」と「第六次航空総攻撃」が発令された。海軍は1日から4日にかけて、作戦機449機、うち特攻機160機を投入、特攻機の未帰還は65機であった。戦果は大きく、3日に駆逐艦リトルを撃沈、4日の攻撃は大規模なものとなり、リュース、モリソンの2駆逐艦が撃沈され、護衛空母サンガモンが損傷した。また、イギリス海軍の空母フォーミダブルとインドミタブルも損傷した。
米軍艦に突っ込む特攻機
菊水六号作戦
「菊水六号作戦」・「第七次航空総攻撃」(5月11日 – 14日)
11日、「菊水六号作戦」と「第七次航空総攻撃」が発令され、海軍は8日から11日にかけて作戦機345機、うち特攻機86機を投入、12日から15日にかけても作戦機237機、うち特攻機47機を投入した。特攻機の未帰還はあわせて95機であった。陸軍も作戦機80機、うち特攻機35機を投入した。
この最後の力を振り絞ったかのような攻撃によって、11日、第58機動部隊の旗艦である空母「バンカーヒル」に特攻機2機が命中、同艦は大破して戦死402名、戦傷264名という損害を受けた。
ミッチャー中将は旗艦を空母エンタープライズへ移したが、さらにそのエンタープライズも14日に特攻を受けて損傷し、この殊勲艦も終戦まで戦線から離脱させられた。ミッチャー中将はさらに旗艦を空母「ランドルフ」へ移さざるを得なくなった。アメリカ軍は再び南九州の特攻基地へのB-29による爆撃を強化した。
5月11日、空母バンカーヒル大破
5月14日、空母エンタープライズ大破
U.S. Navy, photograped from USS Bataan (CVL-29). – Official U.S. Navy photo 80-G-323565 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command
菊水七号作戦
「菊水七号作戦」・「第八次航空総攻撃」(5月24日 – 25日)
24日、「菊水七号作戦」と「第八次航空総攻撃」が発令された。この頃になると海軍でも実用機が払底し、練習機「白菊」を特攻機として投入する末期的状況を呈していた。
23日から25日にかけて、海軍は作戦機387機、うち特攻機107機を投入。特攻機の未帰還機は32機であった。陸軍は作戦機174機、うち特攻機61機を投入した。
菊水八号作戦
「菊水八号作戦」・「第九次航空総攻撃」(5月28日 – 29日)
28日、「菊水八号作戦」と「第九次航空総攻撃」が発令される。26日から28日にかけて、海軍は作戦機217機、うち特攻機51機を投入し、特攻機の未帰還機は26機。陸軍は作戦機71機、うち特攻機57機を投入した。
菊水九号作戦
「菊水九号作戦」・「第十次航空総攻撃」(6月3日 – 7日)
6月、沖縄本島では既に第32軍が首里を放棄し、地上戦は最終段階に至っていた。3日、「菊水九号作戦」と「第十次航空総攻撃」が発令されたが、もはや航空戦力も尽きかけていた。1日から7日にかけて、海軍は作戦機367機、うち特攻機23機を投入し、特攻機の未帰還機は5機。陸軍は作戦機71機、うち特攻機31機を投入した。
菊水十号作戦
「菊水十号作戦」・「第十一次航空総攻撃」(6月21日 – 22日)
23日、第32軍司令官牛島満中将が自決し、沖縄本島での日本軍の組織的抵抗は終わった。大規模な特攻作戦も、21日に発令された「菊水十号作戦」と「第十一次航空総攻撃」が最後となった。16日から22日にかけて、海軍は作戦機271機、うち特攻機67機を投入し、28機の特攻機が未帰還となった。
沖縄が、陥落。
これをもって、組織的な大規模特攻は沈静化していく。
wikipediaのままで申し訳ないが、お読み頂きたい。
菊水作戦によるアメリカ軍とイギリス軍の戦死者は4,907名、負傷者は4,824名に上った。第二次世界大戦におけるアメリカ海軍の艦艇の喪失の7分の1は沖縄諸島周辺海域におけるものであり、その8割は特攻による戦果である。
>第二次世界大戦におけるアメリカ海軍の艦艇の喪失の7分の1は沖縄諸島周辺海域におけるものであり、その8割は特攻による戦果である。
特攻が無駄だったという説を、左翼もメディアも主張するが、果たしてそうだったのか。
その名誉を汚すことを許さぬ、というスタンスである。
ならば、今を生きる私たちはどうか。
それを問いたい。
戦争も後半ともなれば、機体の性能にも開きがある。
整備や補給も満足に受けられない。
訓練だって完全とは言えず、硫黄島に至っては「ほぼ市民と変わらない練度」だった兵士も多く含まれていた。
かつて我が国では、我が国の未来を守らんがために、
一つしかない命を捧げてまで「産まれ来る子らのため」に身体を張った大人たちがいた。
彼らが命懸けで守った「未来」とは、まさに今を生きる私たちに他ならない。
先祖が偉いかどうかではなく、私たちはできるのか。
それを真剣に考えたい。
大和の画像、及び特攻の映像を紹介した。
実際に見て、それぞれ考えて欲しい。
神風特攻隊員たちの遺書
かつて我が国の祖先らは、死力を尽くして守ろうとした。
歴史的な事実であり、海上特攻、度重なる航空特攻をもって英霊は覚悟を示した。
その祖先を私たちが誇りに思うのならば、
沖縄が苦境に陥り、あたかも他国に支配されつつあるならば、
今を生きる私たちも戦うべきだと呼びかけたい。
戦艦大和と乗員は、行ったんだ。
先ほどの沖縄特攻の話において、
個人献金を賜った方には、
聴いたことがある名前が艦名の中にあったと思う。
私の後援会の名前は、秋月型駆逐艦の3番艦 涼月から頂いている。
戦艦の名前ではなく、敢えて駆逐艦の名から頂きたかった。
それは地方議員としてのプライドでもある。
装甲こそ薄いものの、凄まじい速力で一気に接近し、必殺の酸素魚雷。
撃沈のリスクを背負いつつ、常に最前線にある。
私のプライドは、そこにある。
涼月は、大和とともに沖縄特攻。
冬月とともに第41駆逐隊として、戦う。
この艦名を後援会名にした理由は、沖縄に特攻したからではない。
生きて還ったからだ。
大和が轟沈した坊の岬海戦で致命傷とも言える損傷を受けたが、生還した。
最前線を戦い、満身創痍となりつつも、生きて帰ってきた。
被害は甚大だった。
艦内電源が断たれたため消火活動が遅延、一番砲塔、二番砲塔も大破。
中央部も海面から甲板まで数十cmという状態。
艦首が沈下(前方傾斜10度)しており、前進すると船体が潜ってしまうため、バックで佐世保に帰還開始。
ただし、通信装置を失い、ジャイロコンパスも破損していた。
ほとんどの海図も焼失、地図がない。
帰着が遅く、すでに沈没してしまったと思われていた。
突然の帰還に佐世保海軍工廠はサイレンを鳴らして歓迎、
ここまで粘った涼月だが、入港時に後進から前進に切り換えたことで浸水が進行。
第七船渠内に収容するも、ドックの排水が間に合わずドック内にて着座。
ここまでの被害にも関わらず、沈没しなかった理由。
大破した前方区画のうち、前部弾薬庫は区画内部から防水処置がされていたため、である。
つまり、吹き飛んだ前方区画に「人が行き」「内部から完璧に気密作業」を行った。
内部から防水処置をすれば、完璧な防水はできる。
だが、中に入った者は脱出方法がない上、酸欠で死ぬ。
気密作業を行った3名の乗員は、後に酸欠死している状態で発見された。
うち一名、自決。
涼月は、単に戻ってきただけではない。
我が国の、役に立つために戻ってきた。
その艦命、その最期は、まさに祖国の礎となること。
ここまでの艦歴を有するも、他国であれば博物館にでも飾っておきたい船なのだが、戦後の日本には物資がなかった。
いま行橋市は、北九州経済圏として、雇用を含め恩恵を受けているが、
北九州の港の整備は、戦後復旧の要でもあった。
高い波を避けるため、防波堤が必要であり、若松港には軍艦防波堤というものがある。
涼月を含む3隻の日本軍艦艇は、土砂や岩石を詰め込まれ、沈設したものである。
平成の現在、もっと立派な防波堤も完成しているが、
いまでも駆逐艦柳の艦体をはじめ、実際に見ることができる。
沈まざる月は、いまでも海から私たちを見ている。
沈まざる月 ?駆逐艦『涼月』?
(ネット小説 5分ほどで読めます。是非ご一読を。)
実は涼月が致命傷に近い損害を受けたのは、坊の岬海戦だけではない。
瀕死の重傷を何度も受けながら、修復して戦線復帰。
沖縄特攻を敢行し、それでも戻ってきて、死んでも日本の礎となる。
4月7日。
沖縄を奪還するため、我が国が一縷の希望を賭け海上特攻を敢行した日。
連合艦隊旗艦を務めた戦艦大和が轟沈、そして私が後援会名に頂いている涼月が瀕死の重傷を負った日。
だけれども、戦い続けた日。
- いま我が国は国難を迎え、
- 有事に直面する危機が現実味を帯びてきた。
- 戦艦大和を含む、大型艦艇による最後の作戦が決行された。
- 水上特攻、天一号作戦。
- 大和、轟沈。
- 作戦に参加した者の平均年齢は27歳であったという。
- 彼らが守ろうとした、我が国の未来には、
- まだ産まれこぬ子らが含まれていた。
- いまを生きる、私たちのために戦った。
- その願いと祈りを託された者として、
- 私たちの生き様は、
- 英霊の血を引く者として、
- 正しい振舞いなのかと振り返る。
- 有事は、起きるかも知れない。
- 貴方も、家族も、死ぬかも知れない。
- だけどオロオロするばかりで、
- 誰かのせいにしても始まらない。
- せめて腹は括りたい。
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いま我が国は国難を迎え、
有事に直面する危機が現実味を帯びてきた。
戦艦大和を含む、大型艦艇による最後の作戦が決行された。
水上特攻、天一号作戦。
大和、轟沈。
作戦に参加した者の平均年齢は27歳であったという。
彼らが守ろうとした、我が国の未来には、
まだ産まれこぬ子らが含まれていた。
いまを生きる、私たちのために戦った。
その願いと祈りを託された者として、
私たちの生き様は、
英霊の血を引く者として、
正しい振舞いなのかと振り返る。
有事は、起きるかも知れない。
貴方も、家族も、死ぬかも知れない。
だけどオロオロするばかりで、
誰かのせいにしても始まらない。
せめて腹は括りたい。
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コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)
英霊に、心から深謝します。
ありがとうございます。
小坪議員、有難うございます。昨日の4月7日は、祖父の命日。でも本当に4月7日に無くなったのかどうかはわかりません。骨も沖縄に眠ったまままだ帰ってきておりません。
祖母は何度も沖縄に行きましたが、子供である母はいまだに沖縄に行くことができていません。孫の私も行っておりません。沖縄県知事が変われば行きたいなと母と話し合っております。
訂正 無くなった→亡くなった
沖縄に向かう途中、空爆され撃破された『戦艦大和』の最期、アリューシャン列島のアッツ島での玉砕された戦闘、パラオのペリリュー島での一緒に戦いたいと申し出た現地人を排しての死を決した戦い、本土に迫る米軍戦艦を一日でも多く引き留めて本土に居る日本人を疎開させようと兵站からの補給も断たれた中での硫黄島の戦い…。どの戦いも涙が溢れて止まらなくなります。靖国神社に参拝した時には、靖国で会おうと散華された先人方に「日本を守る為に命を賭けて戰われた事に心より感謝を捧げ、先人方に託されたこの日本は私達が守ります」と誓いました。天皇陛下の御親拝を賜われなくしたのは、中国に媚びた中曽根康弘です。
誇りに思いますし、次の世代のために戦わねばなりません。
そして誇りを保ちつつ生き残らねばなりません。