「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言がある。
いま有事すら警戒せざるを得ない情勢下において、私たちがなすべきは過去に学ぶことではないだろうか。
日本人なら知っておくべき、戦後動乱時の状況です。
朝鮮半島からの引上げにおいて、どのような悲劇を日本人は受けたのか。
有事勃発のリスクが高まる昨今、紙媒体で綴られた当時の情勢を振り返りたい。
これは令和の世の私たちに託された、
先人たちの、戦中戦後世代からの贈り物です。
(前篇)
【過去に学ぶ有事の民間被害①】日本人なら知っておくべき、引上げ時の被害~先人の財産
こちらは出版物をweb検索より資料化、amazonのリンクをもってISBN等の書籍情報を出典として掲示したエントリです。
※ 本記事は2015年5月20日が初出、2017年4月18日に再掲したものの再投稿になります。
※ 日本Blog村の登録もしてみました。二つのバナーのクリックをお願いします。
↓今日は何位でしょう?読み進む前にチェック。↓
↓記事が気に入ったらFBのイイネ・ツイート等もお願いします。↓
バナーが表示されない方は、こちらをクリック願いします。(同じものです。)
(OGP画像)
私の三十八度線突破記録
福岡県 梶山緑
ある日私は、週に一回通っている病院の待合室で、順番がくるまでの時間つぶしに何気なくテーブルの上にあった、「TVガイド」をめくっていた。その時、稲妻の如く私の目に入ったのが、NHK特集の「北鮮紀行」という番組が放送されるという記事だった。まだ数日先のことだったが、それからは気持ちの落ち着ない時間を過ごし、その日、その時間の来るのを異常な期待感を持って待っていた。
そしてその番組を、はやる心を抑えながら食い入るようにして見た。家族の者にも見るようにと言って、TVの前に集めた。
最初の画面には、現在の北鮮と中国との国境地帯を流れている鴨緑江の様子が出た。五十数年前のあの悲劇の数々を生じたことなどは、どこのことと言わんばかりに、両岸の大地を抱き抱えるようにして、昔と変わらない雄大な流れを見せてくれた。それだけを見ていても、私の胸は高鳴ってきた。次いで画面には、白頭山の姿が映し出された。そして石川、福井、富山の各県に跨りそびえ立ち、北陸の屋根といわれている白山とのかかわりや、類似点を対比しながら語るナーションが、私の過去を掘り起こすような感情にさせた。次いで金剛山の遠景、近景であった。金剛山は、全朝鮮人の信仰の聖地であるとしてその幽遠なたたずまいが映し出された。
そして心の中で期待していた、古城の開城の名が流れたころから、画面を見ながら涙が流れていた。あの苦しく、悲しかった、避難生活を体験した者にとっては、あまりにも悲惨な思い出しかない国境地帯のイメージと、映し出されている現在のそれとは、別世界のことのようにも思われてきた。画面には、李王朝時代の華やかな歴史を偲ばせるように古都の風景が次から次と映し出されていた。
五十数年前の出来事は、まったく認識外のことのように思われ、何ともいいようのない寂しさと悲しさに襲われて、そっとTVの前を離れた。
戦後、朝鮮半島三十八度線の国境といえば、小学生でもすぐに板門店と答えるように、板門店があまりにも有名になってしまった。私の頭の中でも、国境の町、開城という名はだんだんと薄れ去っていた。そんなときにNHKが再び呼び起こしてくれた。
それからしばらくの間、私の頭の中では、「北鮮紀行」が、五十数年前の出来事と重なって映し出されいた。
長かった冬の眠りから四囲の万物が、ようやく目を覚まし始めた昭和二十(一九四五)年の四月に、父の仕事の関係で、朝鮮咸鏡南道文川郡文坪という町に一家は引越してきた。文坪は元山の郊外にある工業地帯で、住友系の工場が群立していて活気のある町で、日本人も多く、治安も良好で生活しやすいところだった。
もうそのころになると、内地ではあちらこちらの都市は、B29爆撃機による無差別の爆撃で焼土と化しているというニュースが伝えられてきたが、それを聞いてもよそ事のように聞いているくらい平和で穏やかな毎日だった。
食糧品も比較的に豊富で、「内地の人は、かわいそうだね!」と、家族で話し合っていたほどであった。
また、永興湾に面した良好な海辺でもあった。海岸は遠浅で押し寄せる波も静かで、白砂青松が続いていた。甘い香りを発散するフリージアに似た草花や、河原ナデシコなどが咲き乱れていて、乙女心を十分に満たしてくれる景勝の地でもあった。
あの大戦争の、しかも戦局が次第に悪くなってきているときに、どこで戦争をしているのかと、まったくよそ事のような気持ちの毎日で、八月十四日までの四カ月を過ごしていた。
しかし、それでも厳しい世相はじわじわと押し寄せてきた。文坪での穏やかで、平和な生活にもかかわらず、戦況は日一日、一日と悪くなっていた。元山に近い葛麻半島に飛行場が設営されて、陸海軍の飛行機が飛び交い、兵隊さんの姿も多く見受けるようになってきた。
元山市内では、万が一に空襲があったならば、被害を少しでも少なくするために、鉄道線路の沿線にある建物や住宅の密集地の家屋が、強制的に取り壊されるようになってきた。
そのうちに、文坪でも防空壕掘りが始まり、米軍機による偵察行為も行われるようになってだんだんと周は騒々しくなってきて、前途を心配するようになった。内面的にはそれでもまだ、穏やかでのんびりした日常生活を続けていたが、それも八月十四日までのことだった。
八月十五日を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、行く先の運命はだんだんと暗くなっていった。
八月十五日、終戦の詔勅も雑音がひどくて、天皇陛下のお声が大きくなったり小さくなったりしてはっきりと聞きとることができず、内容も理解できなかった。しかし、午後になって町中のあっちこっちから沸き起こってきた、「ジョソンドクリツマンセイ、マンセイ」と言う、現地人の叫び声でやっと事態を改めて認識した。
これまで見たこともなかった太極旗や赤旗を振って、口々に叫び声を上げていた。敗戦により、国家としての権威が一瞬にしてなくなったことをしみじみと実感したし、遠い異郷に放り出されてこれからの生活がどうなるのだろうかと考えると、頭の中は真っ白になっていた
文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激派分子の跳梁が始まってきた。元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。
私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一カ所に集め、集団生活をさせることとなった。二世帯か三世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。
態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。
そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪しはじめた。そのうちにめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。
私たち若い女性は、頭髪をぶっつりと切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して堀った穴に身を潜めた。ときには敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家にかくまってもらったりもして難を逃れていた。
こんなに恐ろしいことになったのも、それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。
命を削り取られるような不安におののく毎日であった。男の子のような姿になっていても、顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。
私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。その手口は、まず門を自動小銃の台尻でドンドンとたたき壊し、そこから長靴を踏み鳴らしながらドヤドヤと乱入してくるので、この音を聞くと男の子の姿をした女性は、何をしていても、台所の床下にある食糧品貯蔵庫に入って息をひそめている。しばらく彼らは室内を物色していてめぼしい物が見付かると歓声をあげながら出て行く、期待していた物がないと室内を銃でたたきながら、靴で激しく床を踏みつけなら大声を出してわめき散らして出て行った。ひどいきには銃を上に向けて二、三発撃ちながら退去して行った。出て行く様子を床下で知ると、ほっと胸をなでおろしてはい上がった。
ソ連兵は、時計やカメラや貴金属を一番欲しがっていた。中にはいくつも腕に時計を巻き付けている兵隊もいた。
そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪地区にもやってきた。十数日間、食べる物も食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。
しかし、文坪地区でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。
九月の中ごろだったと思うが、自動小銃を構えたソ連兵に両側から監視されながら、日本軍の服装をした長い隊列が北に向かって歩いて行くのに直面した。付近にいた日本人が集まってその隊列を見送ったが、その中に肉親の姿を見付けて声を出して泣き叫びながら一緒に歩いている家族もいて、顔を背けたくなるような情景もあった。この隊列はシベリアに連れて行かれたのだろうか。
こんなことをしていては、一家みんな犬死にになってしまうということで、父は家族を内地に帰す決心をした。地元の親しい朝鮮人に頼んで母と子供四人の朝鮮服を縫ってもらい、それを着て朝鮮人になりすまして列車に乗るという筋書の脱出計画をたてたが、この脱出計画がどうしてか保安隊に漏れてしまった。だれかが密告したのかどうか分からないが、保安隊によりすぐに家宅捜査が行われてめぼしい衣類などを持っていかれてしまった。もちろん父は、保安隊事務所に連行された。私たち家族は今更の如くに後悔をしてしまった。こんなことで父は殺され、残された私たち家族は今より一層惨めな生活を強いられることを考えると、脱出計画を思いとどめさせるべきだったと母は嘆き悲しんでいた。
父は、保安隊事務所で数日取り調べが行われ拷問も受けていたようだったが、朝鮮服の縫製を頼んだ知人が親身になって弁護をしてくれたおかげで、ようやく釈放されて随分と弱った姿で帰ってきた。それでも殺されずに五体満足で帰されたので、家族一同、手を取り合って無事を喜び涙を流した。
秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵との行動に一喜一憂していた。各家のめぼしい財産も底をついていたので略奪行為は幾分下火となったが、時計探し、貴金属探しは熱心だった。こっちもほとんど出してしまったので気が楽だったが、それでも彼らはどこかに隠しているのではないかと疑いの目をもって探し回っていた。
あるときは、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後三時までに、駅前広場に身の回りの最少限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した。
大人も子供も、自分の体に合ったリュックサックの中に、当座必要な衣類や食糧を詰められるだけ詰め込んだ。いままで重たい物をあまり持ったことのない私なので自分のリュックサックを背負う練習もした。重いリュックサックを背負って立ちあがるとすぐに後にひっくり返ってしまう。少しでも多くの荷物を持って行こうというので詰められるだけ詰めているので重くなり過ぎるのだった。これでは駄目だと背負って歩けるぐらいに少しずつ出したが、背負ってちょっと楽だと思うとまた少し詰め込む、するとまたひっくり返ってしまう。こんなことを繰り返しながら出発準備をした。泣き笑いの状況だった。
両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。もう帰国することだけが頭にあった。
元山駅に向かって歩き出した。ナチスドイツがユダヤ人を相手に行った残虐行為の映画を見たが、あのホロコーストへの道に向かってユダヤ人が延々と列をなして歩いている様子とまったく同じで、あの映画を見たときに五十年前のことが昨日のことのように思い出されたものだった。
数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。しかしここで座り込んでいてもどうにもならないので、お互いに励まし合って、また元の道をトボトボと引き返して家に戻った。
戻ってみてびっくりした。家の中がひっくり返ったように荒らされていた。タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。
実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。そのうえに今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が押し込められてしまった。リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった。こんな偽の命令で数回も歩かされて、今度こそは本当に日本に帰れるかと、その都度、夢と希望を持って家を出たが、すべてそれは無駄であった。布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。
激寒の冬になると、集団生活をしている者のなかにも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次と死んでいった。虱のたかることは、秋が深まってくるころから心配していたが、消毒する方法も無く下着の着替えもできなくなり、虱は繁殖し放題だった。発病すると高熱が出て一週間ぐらいで死んでしまう。薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。
ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人のなかには自ら死を選んだ人も多かった。
このまま、ここで越冬していては座して死を待つばかりだと考える人もあった。少人数でグループをつくり、夜陰に乗じて収容所から脱出して、元山に向かって逃げたグループもあったが、大半は途中でソ連軍に捕まってしまい、他の所に連れていかれたとのことだった。ほんの少数のグループが無事に元山にたどり着き、東海岸から小舟を雇って南下したようだった。
死者が出ても葬式をだせるはずもない。文坪には町外れに戦前から火葬場はあったが、使えず、その周辺には何体もの遺体が置きっぱなしになっていた。なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た。体の動ける者が交代で火葬場の横に、深さ一・五メートル、幅二・五メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘に付した。家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ悲しく、かつわびしい有様でした。鼻をつく異臭が町中にまで風で流されてきて、残っている人々もただ、明日は我が身の上かと思い涙も出なかった。
風倒木は火力が弱いので、次々に薪を放り込んでも遺体は完全には灰にならなかった。どうにか原形をとどめないぐらいに焼けるのが精いっぱいだった。保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。付近には、あちらこちらに新しく土が盛られていた。いわゆる土饅頭という墓である。火葬ができずに、ただ穴に放り込んで埋められた遺体が多かった。火葬をされた人はまだよい方ではないかとも思った。
満州の方から脱出してきた人の話によると、避難行の途中における死者の大部分は、そのままの状態で置き去りにされたか、川に流されたか、どちらかの方法で処分されたそうだ。その話を聞いたら文坪で火葬にされた人は、まだ人間扱いでよい方だったと思った。
昭和二十年の暮れになると、文坪地区の残留日本人もようやく諦めの心境になり、日常の生活にも慣れて落ち着いてきた。このまま個々に、ソ連軍や保安隊員といろいろ交渉をしていても、何も得ることがなく無駄だということになり、日本人世話人会をつくり代表者を選出し、いろいろな交渉・要求をソ連軍の代表者、保安隊の長などにぶつけることとなった。その代わりにソ連軍側からは、住友工場等に残置されている工作機械や各種の設備を、ソ連本国に運び出すための作業員の差し出しの要求があった。
毎日、男性は作業に駆り出された。作業はソ連兵の監視のもとに行われた。重労働であったが作業が終わって帰るときには、多少の食糧品や賃金ももらえたので、それで必要品を買うこともできて、最低生活を維持することとなった。
日本に帰れる日までは、何とか生き延びようとお互いに励まし合い、助け合いながら働き、昭和二十一年の正月を収容所で迎えた。
そのころになると、満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難して来る人が増えてきた。文坪地区でも、寺や学校などに集団収容され、さらにここから三十八度線を突破して南下するために、体力の回復を図る目的で、しばらくとどまる人々が増えてきたが、風呂に入ることもならず、着替えがあるわけでもなく、それこそ真冬だというのに着の身着のままの姿で収容されていた。私たちも気の毒に思っていたが、どうにも助ける手段がなかった。
相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどりついたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。
ここで少しでも体力の回復を図り、南下を試みるのであるが、これから先も半分以上が山道なので、早く日本に帰りたいという気持ちはあっても、力が沸いてこないという避難者も多く、収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。
それからは、何日となく計画を立てては直し、直してはまた、新しい計画を作り、やっと綿密周到な、「集団脱出計画」が完成した。決行日は、昭和二十一年四月三日の夜と決定された。その夜のことは余りの緊張により頭の中に入らなかったのか、記憶がほとんど薄れてしまい、今になっては思い出せなくなった。
三十八度線以北からの日本人引揚者は、満州奥地から避難してきた人たちより、ある面では苦労が大きかった。それは、満州からの引揚げは昭和二十一年の春、葫蘆島からの正式な引揚げが始められたが、北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行われていない。命からがら三十八度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって三十八度線という関所を、ソ連兵や保安隊員のすきをみて突破・脱出してたのである。
それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まって送り返されたりしてしまった。いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。
元山から多額の金を払って舟を雇い、集団で脱出しようとしたが、途中の三十八度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。それこそ死を覚悟しての三十八度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。
私たちの脱出グループは七十人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。以前、保安隊にだまされて何度も歩かされたころのリュックサックの重さに比べると、半分ぐいしかなかった。それでも今度は、三十八度線を突破するという気持ちの張りで、ずしりと肩にかかっていた。
ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した。全員がそろったところで、日本人世話会の指導者から、改めて脱出計画について細かい説明があり、注意事項が示された。闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。三十八度線突破行の第一歩がこうして始まった。元気な若い人が列の前と後ろを歩き、老人や女、子供がその間に入って、東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした。好意的な朝鮮人には食糧を分けてもらったり、炊き出しをしてもらったりしたこともあった。山間部にいる朝鮮人の中には、まだ日本人に対して親切な人も多かった。準備したお金や、貴金属はだんだんと少なくなって心細くなってきた。
大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。通行料は十円ぐらいだったと記憶している。そのほかに荷物検査料とか、何とかと名目をつけては二、三十円は取られていた。このお金は、日本人世話会で準備をしていたようであった。
三十八度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。
四月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかったが、お互いに励まし合って何とか、落伍者もなく歩いていた。
一日約二十キロメートルぐらいの行程であったが、数日すると予定の半分も進まなくなった。行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査をされたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。あるところで保安隊員に止められたが、寄付金を渡しても解放してくれない。世話会の幹部が交渉をしたがそれでも駄目だった。理由は、列の中に日本軍の憲兵だった者がいるというので、全員の顔検査をすることになった。そして、その憲兵だったといわれる人が、連れ出されて殴打され、あわや殺されるのではないかという事態になったこともあった。ただ、顔が似ているというだけの理由からであった。
連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積してきて歩くのも困難になった人が出てきた。前後を歩いていた若い元気な人が、支えたり時々は背負ったりして励ましていた。ある女性は、二歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上は歩けないからここに残ると言い出した。しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いたときに、とうとう二歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。
みんなも、自分のこと、家族のこと、子供のことだけで精いっぱいの極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。致し方ないことであった。私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。
母は、文坪の収容所で協同生活をしていたときにマラリヤにかかっていて、脱出する前にやっと起き上がれるようになったので、重い荷物を背負うなどということは当然に無理で、父が母の分まで荷物を持っていたので、それだけで手いっぱいだった。三歳になったばかりの妹は私が背負い、十歳の弟と一緒に歩いていた。父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。歩いている人の中には、藁沓を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。
三十八度線に近づいた山間部で、ちょっとした渓谷があり、そこに架かっていた丸木橋を一列になって渡ったが、そのときに私は不注意にも足を滑らして背負っていた妹諸共に川の中に落ちてしまった。幸いにあまり深くはなかったのですぐに立ち上がることができたが、下半身はびしょびしょ濡れになり、寒かったとは今でも忘れられない。
国境近くになると警戒が一段と厳重になって、保安隊員が組をつくってあちらこちらに立っていた。検問所のような建物も見受けられるようになった。
疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射されたときは、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終わりかと観念したが、相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっとあんどの胸をなで下ろした。
三十八度線上の山々は、標高が四百メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出はできないと思うと、苦にはならなかった。一日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。
いよいよ明日は、三十八度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。そしてさらに、「背中に背負っている子供は、体の前に抱いてひもで結ぶこと。最後は走るようになるから履き物が脱げないように上から結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。
荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。
父からも、「ここを突破して開城に行けばなんとかなるだろうから、全部ここに置いて行こう」と言われた。ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけがすべてであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。どの人の顔を見ても必死の形相で、それはそれはすさまじいものがあった。
その日は、北朝鮮の四月にしては割合に気温が高かった。体力をつけるために、それぞれ木立の間に入って仮眠をすることになったが、なかなか寝つかれなっかった。
夜半の十二時に行動が開始された。やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視・激励していた。
深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。ただ、サクサクと踏みつぶして行く霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。息をころして歩いていたが、三十八度線の山の頂上にはなかなか出ない。歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた。そのうちに今まで黙って歩いていた人の中からボソボソと声を出す人も出てきた。世話人が、口に手を当てて注意をしていった。
そんなときに、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足にも力が出てきた。無言の行進が続いた。
しばらく歩いているときに、家畜商人が「あの丘の向こうが三十八度線だ」と、指さした。勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。初めてだまされたことに気付いた。
みんなはそれを知って、一遍に疲れがでてその場にへたへたとして腰をおろしてしまった。今までの張りつめていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。その夜は特に寒さが厳しかった。腰をおろしている間にも霜がおりてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。
世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。私に抱きかかえられていた妹は、死んだようになって目もあけずにいたので、心配になってゆり起こしたが、目はうつろになっていた。
夜はもうとっくに明けて、太陽が上ってきた。幸いもこの辺りは山のなかの辺鄙な所のようで、監視の目も届かないようであった。
しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。山頂に出たのだ。見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。紛れもなく三十八度線を流れている川であった。
一同は、何の抵抗もなく急いで渡った。弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、力なく手を振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。
岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはそのすき間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。
自動車の音で、みんな我に帰って立ち上がった。よく見ると赤十字のマークのついた車だった。最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。
とうとう三十八度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。いま渡った川の向こう岸を見て、ここ十数日のことが思い出された。心のうちでは、万歳! 万歳! と叫んでいたが、まだ口に出しては言えなかった。時間がたつにつれて気持ちが落ち着いてくると、何かしらあっけない気持ちにもなってきた。
アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せて行った。母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。歩ける者は歩いたが、今までの行軍とは全然違って、足もなんとなく軽くなり、さっさっと歩けた。米軍の日本人収容所に入った。そこでまず、DDTの洗礼を受けた。初めてのことで随分と戸惑った。みんな顔から真っ白くなってお互いに顔を見合わせて笑った。笑うということは久しぶりだった。
二、三日収容所で過ごし、再びトラックにゆられて京城(ソウル)の収容所に入った。そこでも三日ばかり生活をして、釜山行きの列車を待った。京城の収容所には立派な救護施設があって、ソ連兵などによって陵辱された多くの女性が治療を受けていたと、母が言っていた。収容所の周囲には鉄条網が張られていたが、行動は自由で文坪での顔見知りの人にも会うことができた。
釜山では、再び厳重な身体検査があり、検疫が行われた。内地への帰還船が来るまで数日、抑留された。もうここまでくれば日本に帰ったようなもので、みんなの顔色もよくなり、母の体調も快方に向かった。
待ちに待った帰還船に乗り仙崎に向かった。
仙崎で下船し、汽車で故郷の博多に着いた。文坪を脱出して約一カ月たっていた。汽車から眺めた沿線には、レンゲの花が満開だった。これを眺めながらこれからの生活がどうなるのかと考えていた。しかし、どんなに苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、あの文坪からの脱出行を経験した者にとっては、何でもできる自信を持っていた。
私には、姉と兄がいた。姉は敗戦の時に、たまたま南朝鮮にいた親類の家に遊びに行っていたので、そのまま親類の家族と一緒に早く帰国して県庁に就職していた。また、兄は海軍の予科練に入っていて内地で終戦を迎えたので、これもすぐに福岡に帰り銀行に勤めていて、私たち親子が元気で帰ってくることを祈りながら生活をしていた。この二人がいたので他の引揚者の人たちより随分と恵まれた受け入れ態勢だった。
作家の五木寛之さんは、やはり北朝鮮からの引揚者であるが、ある本に、「三十八度線を無事に突破した人は、必ずしも体力があったからではなく、足に合った履物を履いていたからである」と書いているが、まったくそのとおりだと思った。私たちの家族は、地下足袋やゴム長靴を短くして足に合わせて履いていた。だから歩くことに大きな低抗がなかったのだろう。
戦争は、本当に怖く悲しいものである。アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。
帰国が果たせなかった多くの人が、異境の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。謹んで哀悼の意を表したいと思う。
▼『紙の力』
ネット全盛の現代でありますが、紙には紙の力がある。
書籍として刊行されれば国会図書館に収蔵され、かつISBNを始め付番が振られます。
いまでは入手困難になった物も多数あるかと思いますが、
それでも、困難であったとしても、それでも。
どこかの屋根裏、倉庫に眠っているのです。
少なくとも国会図書館には、一冊は存在する。
一度、発刊された書籍。
「紙」を全てなかったことにすることは、極めて難しい。
かつて独裁者ら、また近代においては共産主義者らが「焚書」を行いました。
それほどに紙には紙の力があるのです。
▼紙の優位性
スマホと異なり、電池がなくとも機能を満たせます。
パソコンより軽く、携帯性に優れ
パソコンより衝撃に強く、頑強な情報メディアであり
発火しない限りは熱への耐性も強く、「機能」を満たす。
冗談で言っているのではありません。
これは本気で言っております。
理系の、元技術屋として、事実として本心から述べております。
特に、ソースとする場合は優位である。
ブログ等の電子媒体と異なり、「誤字修正」すら受け付けぬ。
出版社・著者ともに法的責任を負う。
出所が確かで、追跡可能であり、
かつ、確認の手段は(ネットメディアに比較し)煩雑とは言え、誰しも確認が可能。
紙には紙の、優位性がある。
▼先人からの贈り物
日本人なら知っておくべき、
戦後動乱時の状況です。
書籍情報をご覧ください、どれほど古い本をソースとしているかを。
カテゴリが古書となっているものもある。
これは令和の世の私たちに託された、
先人たちの、戦中戦後世代からの、贈り物です。
我が国には、祖先がおります。
誇るべき祖先がおります。
いまの世を生きる者として、
多くは鬼籍に入ったやも知れませんが
先人らの思いを、託された物としてしっかりと受け取りたく思う。
▼孤独な戦いであったと思います。
左派メディアが全盛、ネットの援護もない時代。
見向きもされずとも、記した先人たちがいる、著者の意地。
多くは採算を度外視して刊行されたのであろう、出版社の意地。
戦場に倒れた戦友を思ってだろうか。
戦火に焼かれた家族を思ってか。
孤独な戦いであったと思う。
それら出版社の意地、執筆陣の意地。
報いるため、いま私たちができることやろう。
それぞれの立場で為すべきことを為そう。
為すべきことを必死に行った先人らが、私たちにはいるのだから。
時代を超えて、一人じゃない、と。
孤独じゃないと、ありがとうと、思いを込めて。
一人でも多くの方に、血の滲むこれらのテキストを伝えるため。
拡散をお願いします。
(前篇)
【半島脱出?】日本人なら知っておくべき、引上げ時の被害?先人の財産?
こちらは出版物をweb検索より資料化、amazonのリンクをもってISBN等の書籍情報を出典として掲示したエントリです。
一歩、前に出る勇気。
↓応援クリックお願いします。↓
バナーが表示されない方は、こちらをクリック願いします。(同じものです。)
【支援要請】戦うための、武器をください。
コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)
日本人が全く教えられて来なかった、戦後の歴史。
🔻在日朝鮮人の全員送還を望む
作者:吉田茂
1949年
ttps://ja.wikisource.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%85%A8%E5%93%A1%E9%80%81%E9%82%84%E3%82%92%E6%9C%9B%E3%82%80
吉田茂内閣総理大臣が連合国最高司令官マッカーサーへ宛てた書簡、1949年8月末から9月初旬頃と推定
底本:講談社学術文庫 吉田茂=マッカーサー往復書簡集 [1945-1951] 袖井林二郎 第2部第122項目 448-450ページ
底本記載の所在元:マッカーサー記念館所蔵資料 レコード・グループ5、ボックス3
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣下
親愛なる閣下
日本の戦後の諸問題のうち朝鮮人と台湾人に関するものがありますが、彼らはかつて日本国民であり、現在もこの国に依然として滞在しているものです。
ここでは台湾人については、彼らが比較的少数であり、それほど問題を起こしておりませんので、しばしふれないことに致します。しかし、総数約一〇〇万人、そのほぼ半数は不法入国者であるところの在日朝鮮人の問題について、われわれはいま早期の解決を迫られております。私はこれら朝鮮人がすべて、彼らの生国の半島に送り返されることを欲するものです。その理由は以下の通りです
(1) 日本の食糧事情は、現在もまた将来においても、余分な人々を維持することを許しません。アメリカの厚意によって、われわれは大量の食料を輸入していますが、その一部は在日朝鮮人を食べさせるために用いられています。これらの輸入は、将来何世代にもわたって、わが民族の負債となることでありましょう。もちろん、われわれはそのすべてを返済する覚悟を固めておりますが、この対米負債のうち朝鮮人のために生じた分まで、将来の世代に負わしむるのは、公正なこととは思えません。
(2) これら朝鮮人の大多数は、日本経済の再建に貢献しておりません。
(3) もっと悪いことには、これら朝鮮人は犯罪を犯す割合がかなり高いのです。彼らはわが国の経済法規を破る常習犯です。かなりの数が、共産主義者かその同調者であり、もっとも悪質な政治的犯罪を犯しがちなのです。投獄されている者は、常に七〇〇〇人を越えています。
戦後今日まで裁判に付せられた、朝鮮人による刑事事件は以下の通りです。
年次 事件数 朝鮮人関係者数
一九四五(八月一五日以後) 五、三三四 八、三五五
一九四六 一五、五七九 二二、九六九
一九四七 三二、一七八 三七、七七八
一九四八(五月末現在) 一七、九六八 二二、一三三
合計 七一、〇五九 九一、二三五
さて朝鮮人の送還計画として私が考えるのは次のようなものです。
(1) 原則として、朝鮮人はすべて送還され、その費用は日本政府の負担とする。
(2) 日本に在住を希望するものは、日本政府に許可を申請すべきものとする。在住許可は、日本経済の再建に貢献しうると見なされたものに与えられる。
以上述べました私の考えが、貴官によって原則的に承認を得られた場合は、送還に伴う予算その他の具体的措置について、あらためて案を提出致します。
敬具
吉田 茂
この著作物は、日本国の旧著作権法第11条により著作権の目的とならないため、パブリックドメインの状態にあります。同条は、次のいずれかに該当する著作物は著作権の目的とならない旨定めています。
法律命令及官公󠄁文書
新聞紙及定期刊行物ニ記載シタル雜報及政事上ノ論說若ハ時事ノ記事
公󠄁開セル裁判󠄁所󠄁、議會竝政談集會ニ於󠄁テ爲シタル演述󠄁
この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。
🔻吉田茂の嘆願書 ~在日は韓国に引取り拒否された棄民である~
https://ameblo.jp/mituko110602/entry-11494904472.html
2013-03-21 10:18.20
戦後、色々と問題を起こしていた在日をどの政治家も、問題にしなかったのか?とずっと思っていたら、やはり、提起していたんですね。丸写しで申し訳ないけれど、そのまま掲載した方が、良かろうと思い、転載しました。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001
吉田茂の嘆願書 ~在日は韓国に引取り拒否された棄民である~【拡散希望】
2013-03-21 | 日記
吉田茂。在日を日本から一掃しようと悪戦苦闘したかつての宰相。
1946年12月20日、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。
1949年、吉田茂首相は連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に、『 在日朝鮮人(在日韓国人)の全員送還を望む 』と題する、朝鮮人送還を求める嘆願書を提出。
費用は日本が出すとまで言い、在日朝鮮人の本国送還は当時の日本にとって急務であった。
嘆願書では在日台湾人はあまり問題を起こしていないとして、在日朝鮮人のみの送還を要望。
また『 在日朝鮮人(在日韓国人)の半数が不法密入国者 』であることを明らかにした上で、以下の問題点を指摘した。
🔸吉田茂首相がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)
朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは総数100万にちかく、その半数は不法入国であります。
私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。
その理由は次の通りであります。
(1)現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。
米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。
このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。
朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。
(2)大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献しておりません。
(3)さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。
彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者ならびにそのシンパで、最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、
常時7000名以上が獄中にいるという状態であります。
–中略–
さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。
(1)原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。
(2)日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。
許可は日本の経済復興の貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。
上述のような見解を、原則的に閣下がご承認くださるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出するものであります。
敬具 吉田 茂
(田中宏「在日外国人」より)
🔸1959年7月13日、朝日新聞
大半、自由意思で居住
外務省、在日朝鮮人で発表
戦時徴用は245人
・在日朝鮮人(在日韓国人)は犯罪を犯す割合が高く、日本国の経済法規を破る常習犯であること。
・かなりの数が共産主義者とその同調者であること。投獄者が常に7,000人を越えること。
・日本の食糧事情がひっ迫しており朝鮮人の分まで輸入するのは将来の世代への負債となり公正ではないこと。
<参考資料>
吉田首相作成「朝鮮人による刑事事件」(1945年8月15日 – 1948年5月)
年次 事件数 朝鮮人関係者数
——————+——-+—————-
1945(8月15日以降) 5,334 8,355
1946 15,579 22,969
1947 32,178 37,778
1948(5月末時点) 19,968 22,133
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA#.E5.90.89.E7.94.B0.E9.A6.96.E7.9B.B8.E3.81.AE.E5.8D.A0.E9.A0.98.E8.BB.8D.E3.81.B8.E3.81.AE.E6.9C.9D.E9.AE.AE.E4.BA.BA.E9.80.81.E9.82.84.E5.98.86.E9.A1.98.E6.9B.B8
しかし北朝鮮には帰りたがる朝鮮人は少なく、帰っても後悔に苛まされる状況が伝えられ、日本に居座る者多し。そして・・・・
👉韓国政府は在日朝鮮人の引き取りを拒否。
👉在日問題って、実は本国からの受取拒否に端を発っしているんだよというお話でした。
日本国と韓国の間で政府間協定が結ばれていないことを理由にしたが、要は自国民の引き取り拒否、実質棄民ですね。
吉田茂の願いは叶わぬまま吉田茂が危惧した通りの日本になっています。犯罪率の異常な高さも変わらず、日本の経済が彼らに食い物にされている現実もそのまま。
【資料】在日韓国朝鮮人の生活保護関連
http://www7.atwiki.jp/epolitics/pages/283.html
少なくとも半分は不法入国者であり、中には李承晩により開放を余儀なくされた朝鮮人重犯罪者たちの末裔が、現在の在日と言われる人々であることをわたしたち日本人は知らねばなりません。学校でも教えられず、日本人が一方的に罪もない人々を差別をしたと、在日の人々の側に偏った教育がなされています。
罪もない? いいえ! いいえ!
少なくとも半分が不法入国者である、というのは控えめに見積もってのことであり、その後の密入国者の数を入れると実数、もっとになるでしょう。朝鮮進駐軍の残虐を日本人は教えられず、代わりにやってもいない「日帝の残虐」を教えこまれてはや67年間です。日本人はもはや、嘘に騙されてはなりません。国が滅びます。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6%E5%9B%9B%E3%83%BB%E4%B8%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「済州島四三事件」
済州島四三事件の虐殺から逃れてきた朝鮮人たちの大半は大阪に住み着きました。
いわば日本に命を救ってもらった形ですが、それが👉いつの間にか日本に無理やり連れて来られたことになり、やれ謝罪の補償のと本質がすり替えられて多大の特権を得つつ現在に至り、それでもまだ足りず彼らは従軍慰安婦の嘘を世界に発信しています。
韓国はひた隠しにしていますが、中国と同じく自国民大虐殺の暗部をその歴史に持ちます。やれ日帝の暴虐の、南京大虐殺のと言い立てる前に彼らは自国の虐殺史に直面すべきでしょう。また外に対しても韓国はベトナムで、中国はチベットウィグルで、凄惨なレイプ、大虐殺をやらかしています。
日本人は大人しすぎました。これらの事実を自国民へ語ることもせず、韓国中国に言い返すこともせず、教科書を開けば「日本が悪かった」。韓国の人々の名前まで奪った(創氏改名」と嘘八百がまことしやかに書かれ教えられている、まことに異常な状態になっています。
👉そして更に異常なことには政府も外務省も無策、見事に無策、国民はそれに対して無言、無気力、無知。それで67年間を虚しく費やし、中韓の嘘は更に肥大、繰り返されながらしだいに世界に定着しつつあります。国民が立ち上がり、厳しく要求せねば政府は動きません。少なくとも対韓国などという、即票に結びつかぬことには怠惰です。しかし、日韓問題、在日問題は日本の経済にも密着した問題でもあります。
生活保護と住民税免除を要求して長田区役所を襲撃する在日朝鮮人(1950年11月27日) 日本に不法入国や助けを求めて来ておいて特権の要求。それは放置しておくとエスカレートするばかり。要求に応じても、彼らから感謝は来ず、罵りが返って来ます。
孫正義氏の家系は祖父母が密航で日本に渡って来た一族らしいですが良く知りません。あのソフバンの犬CMは、孫正義が白洲次郎を心底憎悪している証なのですが、何故なのかは余り知られていません。白洲次郎は在日朝鮮人を本国へ送還しようと尽力していた人だからです。
🔻白洲次郎とソフトバンク
https://ameblo.jp/araryushinta/entry-11629730484.html
2013-10-06 22:26.01
終戦連絡中央事務局、参与の任に就き吉田茂と戦後処理の難題を乗り越えた御仁。
【名言】(外交とは喧嘩、GHQとの戦い)
「おれたちは戦争に負けたかもしれないが、奴隷になったわけじゃない!」
【数あるエピソード】
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたのでも有名な方。
【オマケ】
ソフトバンクのCMの白い犬の名前は「白戸次郎」
戦後に在日韓国朝鮮人を全員帰国させようとしたのが「白洲次郎」
韓国では人に対して犬と言うのは強烈な侮辱用語
韓国では奴隷階級の人間を白丁と呼んでいた
CMにでてくる白戸家のお母さんの名前は「マサコ」
白洲次郎の妻の名前は「正子」
ソフトバンク社長の孫正義は帰化する前は在日韓国人と言う事実。
※在日コリアンや韓国人がソフトバンクのCMでほくそ笑む理由がどうしてなのか?それは白洲次郎が傍若無人の限りを尽くす在日コリアンの帰国事業を熱心に勧めたりしていたので目の敵にしてると言う訳でもあります。
ソフトバンクのCMは日本人を侮辱しているのか【ケッセキ】
http://noppin.seesaa.net/article/184961148.html
🔻アメリカの置き土産 トロイの木馬(在日朝鮮人)
https://ameblo.jp/araryushinta/entry-11629730484.html
15/09/18
ソフトバンクの白戸家CMのシチュエーションが国辱的として、しばしばネットで取り上げられているがこのCMの問題点はさらに奥が深い。さらに何故国辱的なCMが公然と公共の電波を使い、長年に渡って放映できるのか。
それは戦後のGHQ占領政策の言論統制政策、報道政策に端を発している。さらにGHQが日本分断化政策として朝鮮戦争難民、不法入国朝鮮人の日本国内放置、共産主義者(日本人)の放置が、70年の歳月の中で複雑に変化し、絡み合って現在の日本の脅威を構成している。不法入国朝鮮人の国内残留はアメリカの置き土産、トロイの木馬であった。
私的戦後史はできるだけ時系列に問題を追ってご紹介していく予定ではあるが、今回は逆に現在からアプローチしていこうと思う。
ソフトバンクのCMが何故国辱的なのかは多くのブロガーによって記事にされているので転載自由の『七人の侍』さんのブログ『韓国中国が大好き・・・面白倉庫』から転載させていただく。
この方の視点の鋭いところは白戸家夫婦の名前が白州二郎夫妻をもじっていること。さらに白州二郎は占領軍政策に大きく関わった点を指摘されている。まずは記事からごらんいただこう。
『韓国中国 が大好き・・・面白倉庫』
http://hoi333.blog.fc2.com/blog-entry-348.html
《転載開始》
韓国語でケッセキ(犬の子)は最大の侮辱
以前のソフトバンクに関する記事に対し、読者から、「韓国語では、ケッセキ(犬の子)は最大の侮辱」と。併せて、「韓国では、公然と外国人差別が酷いが、中でも黒人は最低ランクで忌み嫌われている」との指摘をいただいた。ご指摘に感謝する。仮に、ソフトバンクがこれら韓国のコンセプトを下地として、上記のCMを造った、と認識すれば、なるほど、事の次第が判りやすくなる。
読者の指摘には、さらに、「父親が犬でしかも華麗な一族の声、母親も日本を代表する女優の一人。その子が、黒人で長男。日本人国民的アイドルが長女」と設定することによって、画面を通じて、日本人に対する侮辱のメッセージを送り続ける。それが、CMの趣旨ではないのか(要旨)とあった。我々日本人は、上述の意味について識らなければ、多少、CMに意識があっても気づかない。「おかしなCM]程度にしかくみ取れないが通常ではないか。
次の写真は、母親役の樋口可南子氏と父親役の犬が並ぶ。すなわち、同CMの設定では「夫婦」の写真となる。
この設定も、見方によっては、日本人を人間と観ておらず、「ケッセキ」と“夫婦”にさせることによって、日本人を「人間以下」と毀損しているかに映る。同社のこのシリーズのCMが、メディアを通じて執拗に流されている現実がある。
このソフトバンクのCMの設定として犬とその妻(樋口可南子)の名前は
犬【白戸次郎】 犬の妻【白戸マサコ】
この名前は「白洲次郎」を基につけられたものだろう。
白洲次郎さんご夫妻の名前は
【白洲次郎】 【白洲正子】
白洲次郎は当時国内の混乱の元凶である在日朝鮮人達を強制的に本国へ帰国させるよう、マッカーサーに進言していた。これに反感を持つ朝鮮人達は白洲次郎、正子ご夫婦を「犬とその妻」に使って貶めているのだろう。
■白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 – 1985年11月28日)は、日本のオピニオンリーダー、官僚、実業家。終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。
兵庫県芦屋市出身。連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商務省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」などの評を得るに至る。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業の役員を歴任した。
■白洲 正子(しらす まさこ、1910年(明治43年)1月7日 – 1998年(平成10年)12月26日)は随筆家。
《管理人 注:》父親は樺山 資紀(かばやま すけのり)伯爵
日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。階級は海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。
GHQと渡り合い「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた『白洲次郎』は、その後ドキュメンタリーで紹介され、ドラマなどにもなっている。
その『白洲次郎』は、1949年7月、故・吉田茂元総理の特使としてGHQに、日本国内混乱の元凶だった在日朝鮮人を全員朝鮮に帰国させようと建言していた。
(以下は、吉田茂首相のGHQへの嘆願書)
何時まで、こんな事言ってんのかね? くそったれ東京五輪?朝鮮系糞共が利権で儲けるだけで、汚らわしい朝鮮服・反日朝鮮人に依頼~、音楽は障害者リンチ野郎が担当で?糞韓国は反日大段幕。 有事が~・もう、相手は乗っ取ってるつもりみたいだし、創価自民党共は??
こんな事、行動する保守~、日本第一党や、他の団体や個人の方でもずっ~と言ってます。
もう、創価自民政権は絶対に要りませんよ、今すぐにでも日本から出ていって欲しい!今日本に巣くっている在日朝鮮支那人帰化含む共と一緒にね!
この、クソ利権五輪、この3兆以上も突っ込んで設備はガタガタ、開会式等の面子二流時代遅れの屑参加~・・・金にしか興味の無い連中にはどうでもいいんだろうが、この内容で開催しても良いとか言っている屑保守、擬似保守共には反吐が出るわ。
何故、現在自民党籍の市議のブログで、キタナい下品な言葉で
わざわざいつもコメしてくるの?
過疎ってる支持党ブログにコメすれば?
前日の拙コメントでは、帰国困難(人質)の心配をしましたが、民族性への警鐘で有れば、国内のテロ攻撃も戦争と言えます。
TOKYO五輪は紆余曲折の末に無観客となりましたが、世界各国で頻発しているテロ攻撃?の実態を俯瞰すれば、無観客になった事で五輪開催中の国内でのテロ攻撃の心配が大幅に減ったとも云えます。
国防動員法によって、ある日突然、民兵に変わる方々も身近に存在しています。
武装化した集団が各地で蜂起すれば、日本の警察では防げない事も想像できます。
「そんな馬鹿な・」から、悪夢は始まるものですので、心構えは必要に思います。
ワクチン関係ですが、カナダではワクチン接種を受けたパイロットは全員飛行禁止になったようです。運行中の体調急変が問題になっているようです。
日本国内のパイロットは大丈夫なのでしょうか?
.
〜接種後、一定期間飛行禁止〜は何処の国もそうですよ
あなたのそれもマスゴミ同様のミスリードですよね
今の日本上空の様子をアプリで見られますよ。
国籍、機種とか、航路線とか、ここに真実が有りますよ。
Flightradar24のサイトで飛行機の運行状況を見ますと、カナダは飛んでいないように見えます。直ぐ下の米国は飛行機でグチャグチャですね。日本もそれなりに飛んでいるようです。
高度が高くなると血栓症になり易くなるそうですので、パイロットのみならず乗客もワクチン接種者は飛行機に乗らないことのようです。
発症する確率は低いのでしょうけれども、パイロットが倒れたら正副二人のパイロットが搭乗しているとしても、万が一を考えれば運行は考えものでしょう。
地上でも血栓症が原因の交通事故が増えるのかも知れませんね。
.
**********************************************************************
共産党は2016年9月13日からの警告を無視し続けましたね。
ならば、下記は決定事項と承諾したものと見做します。
・『テロを利用する共産党』
・『テロリストの味方である共産党』
・『テロに屈する共産党』
**********************************************************************
何かしらのキッカケで、日本に対し牙を剥き危害を加えて来るであろう勢力が存在し、それが極めて残虐性を帯びて居るだろう事も、一定の方には既に周知の事実であるでしょうから、若しそう言った事が再び起これば、どの様な事になるかの予想については譲ろうと思います。
付け加えるのであれば、”植民地にするか、植民地にされるか”の二択しかなかったあの時代、我々の先人達はよくぞ戦線を本土から遠ざける為に奮闘して下さったなと言う事です。
外地からの逃避行では誠に多くの方の尊い命が犠牲に成りましたが、非常に言い難い事ですがそれでも敢えて記すならば、日本全体からすれば一部の損失を以て致命傷は回避したと言えるでしょう。
当時外地に於ける尊い犠牲者に対する扱いも惨憺たるものでありました。
これは、”日本人から見れば”と言う価値観に依る所が大きいと考えます。
日本人からすれば死者への敬意は普遍的なものでありますが、他国はどうであるかと言うと、必ずしもその価値観は一致しません。
近年、諸外国から見た場合、日本人は無神論者が大多数を占める様に思われて居りますが、それは神や仏の意図する所が余りにも身近に溶け込み過ぎて居り、それが普通の事過ぎて、神仏を敢えて意識させるプロセスを必要としないからなのでしょう。
故に、キリスト教徒からすれば、どこよりもキリスト教的な民族であると評され、イスラム教徒からすれば、どこよりもイスラム教徒的な民族と評されたりもして居ます。
ぶっちゃけレベルの差はあれ、動物的な価値観が横行する社会であればある程、神仏を都度々々認識させるプロセスが必要で、これが祈りであったり儀式であったりする訳です。
漫画的に例えるならば、詠唱しなければ魔法を発動させられないか、詠唱無しでいきなり魔法発動させられるかの違いの様なものなのでしょう。
不幸な事に日本近郊の諸国は、極めて動物的なレイヤに属する社会を形成して居り、これが大東亜戦争当時の日本の勢力圏と被った事から、生還出来た人から惜しくも命を落とされた方に至る迄、その弊害が外地に居た日本人に襲いかかりました。
その結果の一つが、朝鮮半島に於ける逃避行です。
日本人から見れば中華圏は、非常に信心深く迷信に縋る様に見える一方で、どうしようも無く無神論的にも見えたりします。
これは、中華圏に於ける神仏や死者と言う者が、無条件に敬う対象なのでは無く、祟を避ける為に祀る対象であると言う違いが色濃いからでしょう。
おまけで、利益を齎すか否かと言う対象としても計られますが。
故に、自らの先祖は祟られたら嫌なので、これでもかと言う位に供養しまくったりします。
一方で、他人の先祖は興味すら無いので、酷くぞんざいに扱ったりします。
故に中華圏で最低限万人から死者としての尊厳を保つ為には、生前の権力や名声を拠り所に、死後に他人すら祟る力を保持して居そうだと言う印象付けが必要だったりします。
これが、現在に於いて遺骨収集を困難にして居る要因と成って居ると見て、先ず間違いは無いでしょう。
扨て、現在の日本では戦前と異なり、損切りして致命傷を避ける為の外地がありません。
つまり、事が起これば我々の住む身近な地域が、いきなり悲惨な状況に陥る可能性が高いと言えます。
大東亜戦争末期に本土が空爆による被害を多々出した時と、同様の状況を想定した備えが必要であると言えます。
既に阪神淡路大震災を経験して居無い世代が社会人となって居ますが、それでもこの時得られた教訓は、災害対策として非常に大きなものと成りました。
災害と言う視点では、戦災も自然災害も敢えて区別する必要が無い事項が多々あります。
実は阪神淡路大震災の頃は、まだ戦前・戦中派がそれなりに存命であったのも、不幸中の幸いでありました。
災害が発生した場合、先ず命を繋ぐ為の衣食住に関わるものが最優先と成ります。
これは多くの行政や企業で、それなりの意識の高まりを見せて居りますから、東日本大震災の経験もあり、相当充実して来ては居ります。
一方で我々一般人が余り目を向けない事項もあります。
只でさえインフラが破壊され、社会水準の低い環境に身を置く必要に迫られるので、中々困難を極める事ではありますが、衛生状態の回復です。
ここで言う衛生状態の回復とは、大量の遺体が原因となる伝染病発生の阻止を意味します。
つまり、遺体の処理です。
東日本大震災の際に、処理が追いつかずに仮埋葬を行った記憶は新しい所でしょう。
勿論、遺体検案書・埋火葬許可書等、行政手続きの面でも課題は山積して居ますが、実際問題として遺体の処理は物理的な問題です。
阪神淡路大震災・東日本大震災共に、まだ気温の低い季節に発生した事ですので、その処理は比較的に猶予があった一面があります。
これが真夏ともなると、その猶予すら無くなるのです。
近年、都市部を中心に火葬施設は死をイメージしないものに変遷を遂げ、非常にクリーンなものに成ってます。
ですがこの火葬施設は新しければ新しい程、電気やガスと言った社会インフラに依存する施設となって居り、単独稼働が困難である物が増えて居ます。
火葬施設の変遷は、古くは薪や藁を用いたものでしたが、明治以降から重油を用いる物が増え、昭和に入ってからは灯油を用いる物に置換わって来ました。
更に近年では、電気やガスを用いるものに置換わりつつあります。
阪神淡路大震災の頃は、まだ灯油炉が現役だった事もあり、灯油の供給さえ確保出来れば、暫くは貯蓄分を用いて稼働する事が出来ました。
この教訓もあって、行政としてはある程度灯油炉の確保は取り決められて居る筈です。
田舎などに行けば西日本、特に浄土真宗系が強い地域では、集落毎に三昧(薪等を燃料とした火葬場)があり、辛うじて昭和50年代頃迄は稼働実績があったりしましたが、現在に於いてはほぼその三昧も壊滅して居りますし、これを運用するノウハウを持った人も居無いでしょうから、更に災害時に於ける行政の負荷が大きくなって居る訳です。
そう言った事も踏まえ、今後我々が非常時にどの様に備えるかを、考えて行く必要がある様に思います。
物議を醸しまくる「表現の不自由展」が開催されてますね。
彼らは、裁判所にて「表現の自由」を勝ち取ったらしいので、開催反対派は同じ会場のエル大阪で、「半島からの引き揚げ時に起きた事」「竹島」「朝鮮総連と日本共産党」「自衛隊展示」のどれかでも開催したらいいでしょう。
同じ「表現の自由」ですから。
以上です
7/17 文責 維新は裸の王様
毎年のようにこの時期になるとエセ右翼のわけのわからない街宣のトラックや大きな車が大きな音で軍歌を流しながら道路を滑走するのがデフォでしたが、ここ数年おとなしいですね。おそらく資金源が尽きたのでしょう。オリンピックも資金が回収できなくて困っているとは思いますが、利権がどんどん無くなっていってますね。いきなり無観客で行うということで、それもテロ対策になったと思います。まぁ私などは色々と情報が入るのが最後になりますから(当たり前ですが)こちらのブログやコメント欄で答え合わせと情報収集しながら対策をしてしております。感謝します。
有事における衛生面の対策は、色々と考えておかないといけませんね。簡易トイレの準備、固形石鹸、薬や包帯など準備していますが、もっといろいろと考えないといけませんね。
『半島からの引き上げ時に起きたこと』大展示会、良いですね。もし開催されるなら、お金払ってでも見に行きたいです。自衛隊の『リッくんランド』良いですよ。子供が小さいころ家族と時間かけていきました。楽しかったですよ。コロナ禍が終わって落ち着いたら(有事が引き続き起こるかもしれませんが)また行きたいものです。