【憂国忌】今日この日に国を憂う。三島由紀夫烈士の言葉を振り返る。

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本日、福岡では筥崎宮において「憂国忌」が挙行されました。私は、可能な限り例年参加しています。
主催団体は福岡黎明舎、先輩らに可愛がって頂くと共に、私も名を連ねております。福岡の保守にとっては少し意味のある会であり、三島烈士を偲び思いを学ぶのみならず、県内の保守の有志が共に顔を見せ合う場となっています。
私の、毎年の恒例になっております。

 

今回で第四十九回。
楯の會隊長、三島由紀夫先生は、昭和45年11月25日、東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地で国を憂いて割腹されました。

敗戦の大きな十字架のひとつとして、政治的にも中途半端、違憲状態に置かれた「自衛隊」の存在がありました。

”檄”という、凄まじい名文を残している。
毎年、この文章に触れる度、様々なことを考えてしまう。
是非、皆様にもお読み頂きたい。

 

 

 

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(OGP画像)
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憂国忌

憂国忌
非常に乱暴な言い方をすれば「三島由紀夫先生の法事」になります。

 

福岡の憂国忌は非常に大きな規模であり、筥崎宮で挙行されます。

 

楯の會隊長、三島由紀夫先生は、昭和45年11月25日、東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地で国を憂いて割腹されました。

敗戦の大きな十字架のひとつとして、政治的にも中途半端、違憲状態に置かれた「自衛隊」の存在がありました。

 

これを、軍という適法な状態に戻すための動き、つまり憲法改正の契機として注目されたのは、左翼デモ隊に対しての治安出動、つまり警察力をもって鎮圧不可な状況に陥って自衛隊が出動することでありました。

 

「檄」のすべてが秀逸な言葉でありますが、その中において「国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。」とあります。

三島先生は、続けて「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。」と述べられています。

その「憲法改正の機運、チャンス」は失われてしまう。
自衛隊の、いや存在せぬ幻の日本軍、その名誉のため割腹されたのだと思う。
三島由紀夫先生の遺志を学ぶと共に、森田必勝烈士ともどもに魂を鎮めるのが憂国忌である。

 

 

 

三島先生の檄をここに紹介したい。
いまの世においても、しっかり通用する問題を強く指摘されておられます。
もし読んだことのない方がおられたら、是非、じっくりと読み込んでください。
非常に重要なこと、失われつつある日本が、そして日本への愛が語られています。

 

檄       楯の會隊長  三島由紀夫 

 われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

 かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。

 われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。

 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。

 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

 三島由紀夫

 

三島由紀夫先生の最後の演説

 

三島先生、森田烈士の辞世の句を紹介します。
意味についてはここでは解説いたしません。
まずご自身でお読み頂き、その意味を知ろうとしてみてください。
それが国を思うこと、憂うことを知ることになると思います。

三島由紀夫・辞世の句
益荒男が たばさむ 太刀の 鞘鳴りに
幾とせ耐えて 今日の初霜
散るをいとふ 世にも人にも さきがけて
散るこそ花と 吹く 小夜嵐

森田必勝・辞世の句
今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の
思ひを知るは 野分のみかは

 

 

 

青年日本の歌

昭和5年の作曲です。

 

青年日本の歌  映画 『2・26』 より
皆様は、この歌を聴いてどのように感じますか?
古臭い過去の出来事でしょうか。私はそうは思いません。

 

青年日本の歌
作詞・作曲:三上 卓
著作権:無信託

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く
二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし

三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花

五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや

六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ

七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐

八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや

九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう

十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

昭和五年

 

 ……作詞者の三上卓は海軍少尉で、昭和5年5月24才の時佐世保でこの歌を発表した。以来、昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いだ。
 紀元前3~4世紀頃、中国は戦国時代にあった。当時揚子江流域一体を領土としていた楚に、屈原という人物がいた。詩人であり政治家でもあった屈原は、王への進言をことごとく側近に邪魔され、遂には失脚させられて追放される。しかし屈原は他の国に仕えることをせず、祖国の滅亡の危機を憂いながら洞庭湖畔汨羅の川に身を投げた。楚はやがて秦に滅ぼされ、以来屈原は「不運の愛国者」の代名詞となった。
 この歌はこの故事を冒頭に引いている。ちなみに、端午の節句の「ちまき」は彼に由来する。

 

 

 

 

令和元年 憂国忌
今年は、ついに最前列に座っておりましたので、あまりパシャパシャ写真を撮るわけにもいかず。
数点のみ紹介させて頂きます。

 

 

福岡県議会議員 加地邦雄先生。

 

加地先生は、日本会議などでもお世話になっている恩師です。
自由民主党の所属、県議会議長も経験した有力議員の一人でありますが、非常に気さくな先生です。

もともと楯の会に所属しており、三島先生が割腹された際にも東京におられました。
今日は楯の会の元会員としての挨拶もあり、当時を偲ばせて頂きました。

 

式典

 

なおらい挨拶。

 

 

筥崎宮。

この名前を聞いたことがある方も多いと思いますが、1000年以上も続いている非常に有名な神社です。
京都府八幡市の石清水八幡宮、大分県宇佐市の宇佐神宮とともに三大八幡宮の一つ。

元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられました。
以来、海上交通・海外防護の神として信仰されています。
いまも「敵国降伏」と大きく明記されています。

 

他県のことはわかりませんが、福岡県の憂国忌は非常に大きな規模です。
ざっくり言えば、三島烈士・森田烈士の法事みたいなものだと思いますが、規模とか公式性は他県のイメージとは全く違うかと。

いわゆる保守活動とか、また、ネット論壇とも一線を画し(当然、右翼活動とも異なり)
ほぼ公式の神事みたいな扱いだと思っています。

この場は一つの、保守系ロビイストの学び舎であり、そして戦友と会う場です。

 

 

 

出会い
私が今こうして前線で切り結ぶことができているのは、市議になる以前の活動があるからです。
請願を主軸とした、保守系ロビイスト集団の長として戦った過去。

ネットでは異色とされた、行政手段を連打する手法は、
左派の手段を研究し尽くした結果であるとともに、
古くからの「リアル保守」が得意とした手法です。

その原風景は、保守王国福岡県において、
最も激しく(私の知る限りでは)歴史の長い、福岡黎明社の先輩方の教育によるものです。

 

もっと言えば、数年前に、亡くなった辻幸男先生の後姿。
名前を出して良いかはわかりませんが、藤井守人さんの生き様にある。
同期の本山くん、大島くん。
それぞれが保守団体の幹部として活躍しております。

 

藤井さんは、いまは救う会福岡の代表に。
そして、黎明社の代表代行。

私自身も、救う会福岡の副代表に就任。
時代の変化を感じます。

 

なおらいの挨拶は、
郷勇連盟の吉田会長。

 

 

私の、議員としての手法は、実は”非常に古臭い”と言われることもある。
若さに力点を置いた”速さ”ではなく、緻密さや段取りなどについては「まるで古参」という評価。

昨今では絶えた、いわゆる議会での「筋」の話、通し方などが、まるで「年配の議員と接しているよう」というもの。

理由はシンプルだ。

 

私を政治家として形作った者たちは、ネットを発祥とした者ではない。
あまたの鞍馬天狗たちが、相当に名のある活動家たちが、
共に戦線を駆け抜ける中、後姿をもって、
結果的には「英才教育を施し続けてきた」ようなもの、だからだ。

私の喧嘩は、決して新しくはない。
だが、それが弱いとは思わない。

ほぼ絶えてしまった、古き時代の保守の”覚悟”を伴う斬り結び方。
今でも、通用するものだと証明してみせたい。

私たちは、基本的に「乗り込む」し、リスクを背負って前線に立つ。
こちらもリスクは背負うが、目の前に立った者には「同じリスク」を背負って頂く。

自爆覚悟で、常に、前に。
居合いの速さで正面突破、
撃った者は、決して無事では済ませない。

これが先人たちの後姿より学んだこと。

 

 

 

憲法だけが悪いのか。
憲法が悪い。
GHQが悪い、戦後教育が悪い。
それはそうなのだろう、私も同意する。

けれども少し厳しいことも言わせて頂く。
などと言って、何もせぬ日本人が悪いと思います。

憲法が悪い?
家族を拉致された、被害者である家族会が憲法改正までせねばならないのか?

教育が悪い?
家族を拉致された、被害者である家族会が教育改革までせねばならないのか?

貴方は、あれが悪い、これが悪いと言うだけなのか。
悪いものを指摘するだけでは、それでは不信をもたれる政治と同じなのだと、
それがどうしてわからないのか。

政治は民意の集合体であるならば、
どうしても自分も悪いと思えないのか。
どことなく他人行儀の、そんな日本人が一番悪いと思う。

この言葉は、私自身に、自らに返ってくるとわかって書いている。
そう、力もなく、何の動きもできぬ私が悪い。

皆様は、市議になって以降の私しか知らないと思います。
政治活動・戦い方の原型は、活動家として鍛えて頂いた結果です。
ネットや在特会や発祥する以前より、数十年スパンで動いてきた保守団体。
雨の日も風の日も、拉致被害者と共に立ち続けてきた先輩方に育てて頂きました。
(福岡県を相手取り、朝鮮学校の支出金に対して最高裁まで戦い抜いた方々と言ったほうが伝わるかも知れません。)

今日は、今日だけは、元活動家としてBlogを書かせて頂きたかった。

拉致被害者の全員奪還を。
この国が、国家としての責務を果たし、
我が国が国家である矜持を持つために。
何よりも離れ離れにされた家族が、ひとつに戻れるように。

三島由紀夫烈士の言葉を、今日、振り返りたい。
賛同して頂ける方は、FBでのシェア、TwitterでのRTをお願いします。

 
 

 

 

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コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)

  1. JL より:

    過去記事と違う箇所として、小坪さんが救う会の副代表とありますが、これは本年のお話でしょうか?

    • 小坪しんや より:

      現在、救う会福岡の副代表を拝命しております。

      過去記事の際は、違ったと思います。

      • JL より:

        了解しました。
        救う会の新しいHPには代表しか記載されていなかったので、どうなのかと思いまして確認でした。旧HPには組織の関係者のお名前があったようなのですが副代表は別の方のようでした。今月変わられたんでしょうか、よろしくお願いします。

  2. 波那 より:

    かって三島由紀夫文学の流麗な文章に心酔していた時期がありました。今では題名や内容さえ思い出せません。ノーベル財団の図書館の日本文学コーナーに置かれている本で一番多いのは三島由紀夫だそうですね。ノーベル賞は亡くなった人は受賞出来ないそうですから。

    生きて、不甲斐ない日本を見ているのが耐えられないから命を断たれたのだと思いますが、今のあらゆる邪悪な珍獣揃いの国会とか、学生運動崩れか何か知らないけど醜いサヨクジジババとか、あらゆる所に潜り込んでる朝鮮人とか、何でこんなに外国人がイッパイ居るのよ、犯罪が増えるのに、福祉を食い散らかされるのにの日本は三島さんには、もっと耐えられなかったことでしょうね。皆が皆、日本が普通の国になろうとしてるのを邪魔しようとしている、この日本。先進国でありながら軍隊も持てないで、自分の国は自分で守るのだという意識が未だに芽生えないでいる目覚めない人達がまだ居ます。ネットが無ければ、もっと酷かったでしょうね。総理も日本を取り戻す、戦後レジームからの脱却とか言わなくなってしまいました。言ったら特定アジア御用達のマスゴミに叩かれるからでしょうね。

    拉致被害者を取り戻せないのは強力な軍隊を持たないでいるからです。あんなのと話し合ってどうするんですか?何が交渉?前に進んだことなんか一切、無いでしょう。しっかりしましょうよ!自民党議員。
    ……………

    かつての日本は、世界屈指の軍事力と敵国攻撃力を保有していたため、今のアメリカのように外国に捕まった自国民を武力を背景に救出していた。

    ひうらさんの思い出 (帝国海軍は断じて同胞を救う) 

     日本海軍は北洋警備-北洋漁業保護の為に、最旧式駆逐艦を以て編成する駆逐隊の一隊(定数四隻 司令は大佐または古参の中佐)を毎シーズン派遣しておりました。

     国民性なのでしょうか、ソ連は昔から露骨な国で、我が駆逐隊が漁業海域に到達し警備任務に就くや、日頃横暴なるソ連艦艇も、途端に猫の如く大人しくなりました。

     だから駆逐隊は毎度漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、必要に応じ、戦隊若くは艦隊を神速に派遣することも行われたようです。

     父の友人に「ひうらさん」という越後人がありました。生きて居られればゆうに百歳超えましょう。

     明治の御代に雪の越後を後にして、刻苦勉励、数多辛酸を嘗め、戦後は小金持になり、銭湯など経営して世を終えられました。

     この御仁が、大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗組んで北洋漁業に従事していた時の話です。

    氷濤の中、果敢に操業していたある日、突然ソ連の警備艦艇に、いわれなく拿捕され、乗組員一同、ウラジオストックに連行され、抑留されてしまったのです。

    取調べは惨たらしいものでした。生きて再び日の目を拝めるかと思った程だそうです。
    ありもせぬ犯罪事實の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎え、再び鉄格子の中から引き出されました。

    いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の態度が手のひらを返す如くに豹変しました。
    捜査は打切り、無罪放免。

    ロシア紅茶まで振舞われて、にこやかに釈放するではありませんか。

    解き放たれたひうらさん達は、警察署だか獄舎だかの外へ出ました。
    天然の港町なら、たいがい地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺望が開けています。
    半信半疑のまま、ともかくも港に向かおうと、ふらつく脚を海へ向けました。

    その瞬間、何故、助かったかがわかりました。
    沖には、日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千発ぞ、陛下の赤子にかすり傷だに負はせなば、ウラジオストックそのものを消滅させんばかりの圧倒的武威を以て、ソ連を威圧してくれていたのです。

    旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでしょう。
    皆、感泣しました。
    鋼鉄の艦体に頬ずりしたい思いで・・・

    ひうらさんは無事、日本に帰りました。
    取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大国相手の戦争をも辞せず、瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖国日本の親心にむくいるためにも、なお一層仕事に励み、三代の御代(注:明治、大正、昭和)を生き抜き、東京都江戸川区小岩の自邸で、四半世紀ほど前に大往生を遂げられました。

    勤倹貯蓄、関東大震災の前の歳に買ったという革靴を、靴底だけ張替え張替えして、生涯穿き続けました。

    「ぜいたくをする金があったら、海軍に献金でもせい!」

    http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-7408.html

    軍隊を解体されてた時に竹島を強奪され、竹島漁民が抑留されて、どんな惨たらしい目に会わされたか思い出しましょうね。

    • 草莽の団塊です! より:

      波那様、ひうらさんの思い出 (帝国海軍は断じて同胞を救う)の掲載、読ませていただきました。日本の艦隊が救出にきたら手のひら返しのロシアの対応・・・、やはり、なにごとも武力の背景がないと舐められるってことがよくわかりました。

      もし、大東亜戦争前の日本であったら、北朝鮮の拉致被害者が何十年も拉致されたままになんぞ、なっていなかっただろうなと、ひうらさんの思いでを読みながら思いました。

  3. 草莽の団塊です! より:

    小坪先生、筥崎宮での憂国忌への参加、おつかれさまでございました。そして、三島由紀夫先生の遺されたお言葉『檄』の掲載ありがとうございます。

    檄に遺された三島由紀夫烈士のお言葉を読むとき、それから49年経過したいま、もし、三島先生がタイムマシンで未来にこられるようなことがあったとしたら、なにも変わっていない現状をみてなにをお感じになるだろうか・・・とおもってしまいました。

    もう、いい加減、憲法9条に自衛隊を明記し、自衛権の発動は、憲法9条2項の規定に排除されないくらいのことは実現したい、そのために、安倍政権は憲法改正の国民投票にいたる発議を気合をいれてやってください。国民投票は、日本国民を信じてください!といいたいですね!

    閑話休題・・・・今更ですが

    三島由紀夫先生の命日は、11月25日
    でも、福岡では、1971年(昭和46年)から毎年、新嘗祭の11月23日に「福岡憂国忌」が行なわれているんですね、きちんと覚えておきたいと思います。

  4. 沙羅 より:

    波那様の投稿に涙しました。

    遠い過去からご先祖様の生きた続けてきた積み重ねのDNA。
    自分もDNAが目覚め・・・といったほうがいいかな。目覚めていっています。
    自虐史観で育ってきたはずなのに、いつの間にかどうやら元の日本人に!(笑)
    日本人のほとんどが目覚めるまで、ひと山ふた山ありそうですし、悲しい思いもするかもしれません。でも目覚める時期が来ているのを感じます。

  5. ぽのかのぽん より:

    米軍をマンセーしてる連中が三島由紀夫を語るな!虫唾が走る!

  6. 小坪先生、いつも有難う御座います。先日の韓国のヘタレ対応にやっぱりと思いました。自分の親父は若いころ予科練に入り、特攻隊に志願したそうですが訓練中に事故に遭い、出陣はできなかったそうです。後遺症で片耳が聞こえなくなり、同期の仲間を失い自分が生き残った事で苦しんだと思います。戦争の話は直接聞いたことは無いですが、私の幼いころから酒を飲んでは暴れる父を憎んだりしました、自分が親父の亡くなった年をはるかに超えて今の日本を思えば。日本を護る為に死ぬ覚悟をした父を誇りに思います。
    いつも酔っては歌ってた同期の桜の歌詞、一番なら素で歌えるほど聞かされました。もう昔の事ですが、最近は海ゆかばを口ずさんでいます。国を護るとは家族を守るとはどうゆう事なのか、今一度考えて行かないといつまでも他国だよりでは日本の将来は無いです。

  7. sana より:

    波那さん、すばらしいお話をありがとうございました。
    翻って、現在の日本の欲ボケ平和ぼけ保身のみのていたらくに別の涙が。

    本日は、名古屋でも、愛国倶楽部主催の「三島由紀夫と大東亜戦争」というテーマで
    村田春樹先生の講演がありました。
    三島由紀夫さんは、この日本に永遠に生きるために、あのとき自刃されたのだと思いました。
    三島由紀夫さんの死は必然であったのだと感じました。

  8. 漫画喫茶店長 より:

    三島由紀夫の「豊饒の海」第二巻「奔馬」では神風連の変を描いた小説が掲載されています。
    その神風連こそが、、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことを願い。
    尊王攘夷の精神を忘れ、外国勢力に翻弄され、髷を切らされ、廃刀令を命じた明治政府に一撃を与えんと宇気比の許しを得て決起し、西洋からの火器を使わず、刀と槍と弓だけで戦い一夜にして散りました。
    映画「ラストサムライ」のモデルであるとされています。

    三島は自刃する数年前に熊本を訪れ、新風連の墓がある桜山神社と、太田黒伴雄が神職を務め
    宇気比を行った新開大神宮を訪ねています。

    当時の三島の心境は、その新風連の魂に衝き動かされたものであるように思っています。

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