タイトルの元ネタは「書を捨てよ町へ出よう」になります。
出典は、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」について で、昨今話題になっている登録されるであろう、産業遺産になります。
我が国が、世界に対し産業革命遺産として誇るに足るとした遺産群です。
非常に見ごたえがあり、維新前後、近代史における先人たちの足跡になります。
単に転載するのみならず、googleMAPを付記、また施設を訪れるにあたり予備情報を少しではありますが、追記しております。
「モニターを通じての見学」も役にはたつのですが
時には「モニターを通さず」その地を歩いてみること。
こちらも大事なことだと思うのです。
旅行計画の一助になれば幸いです。
行けない方はプチ旅行の気分を味わって頂けたらと思います。
↓読み進む前に、クリック支援お願いします。↓
↓FBのイイネ・ツイート等もお願いします。↓
バナーが表示されない方は、こちらをクリック願いします。(同じものです。)
※ 説明文は、こちらの資料から引用。
萩
1-1 萩反射炉 (山口県萩市)
出典:萩市観光協会公式サイトより。
(説明)
反射炉に用いる煙突部分の構造物は、海防上の重要拠点を統治した萩(長州)藩が、西洋技術の情報をもとに、独力で、反射炉建設に挑戦した価値ある試行錯誤を物語っている。
(関連HP)
観光スポット(萩市観光協会公式サイト)
http://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100081
(MAP)
住所
・萩市椿東4897-7
駐車場
・無料駐車場有(大型バス可) ※周辺に臨時駐車場があります
アクセス
・萩循環まぁーるバス(東回りコース)「萩しーまーと」バス停より徒歩約5分
1-2 恵美須ヶ鼻 造船所跡 (山口県萩市)
出典:萩市観光協会公式サイトより。
(説明)
海防上の重要拠点を統治した萩(長州)藩は、幕府の要請を受け、木戸孝允の意見書に基づき、萩において海防用の船を建造し、西洋技術に学ぼうとした。1856年に「丙辰丸」、1860年に「庚申丸」が建造されている。伝統的な小型の木造帆船の和船建造を改良しようとするレベルではあったが、価値ある試行錯誤が行われたことを物語っている。
(関連HP)
観光スポット(萩市観光協会公式サイト)
http://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100087
(MAP)
住所
・萩市椿東5159-14
駐車場
・周辺に臨時駐車場があります(萩反射炉とも兼用)
アクセス
・萩反射炉から海側へ約0.6?
1-3 大板山たたら製鉄遺跡 (山口県萩市)
出典:萩市観光協会公式サイトより。
(説明)
日本の伝統的なたたら製鉄により、恵美須ヶ鼻造船所に木造帆船の船釘などを供給した施設の跡が遺跡として保存されている。
(関連HP)
観光スポット(萩市観光協会公式サイト)
http://www.hagishi.com/search/detail.php?d=1100190
(MAP)
住所
・萩市紫福257-1
駐車場
・駐車場あり(5台程度)
アクセス
・萩市街より車で約40分
・道の駅「ハピネスふくえ」前の信号を須佐・紫福方面に約8.5?進み、山の口ダム3?の看板を左折後、突き当たりを山の口ダム方面に約3?
1-4 萩城下町 (山口県萩市)
出典:萩市観光協会公式サイトより。
(説明)
西洋技術の導入に挑戦し、産業文化形成の地となった萩(長州)藩及び萩の地域社会全体の特徴と本質を示す遺産。これらの政策を担った萩(長州)藩による統治の拠点である城跡や、上級武家地、町人地の町割りや伝統的建造物群がよく保存されている。
(関連HP)
萩観光おすすめウォーキングコース(萩市観光協会公式サイト)
http://hagishi.com/event/walking/01hagijyo.html
(MAP)
1-5 松下村塾 (山口県萩市)
出典:萩市観光協会公式サイトより。
(説明)
日本の近代化の思想的な原点となった遺産の一つ。特に、海防の必要性と、西洋に学び、産業、技術の獲得を重視する考え方が、長州ファイブや塾生に引き継がれ、後に、明治政府の政策に活かされ、日本の急速な産業化に貢献した。
(関連HP)
観光スポット(萩市観光協会公式サイト)
http://hagishi.com/search/detail.php?d=100009
(MAP)
住所
・萩市椿東1537(松陰神社敷地内)
駐車台数
・一般車 無料(境内60台、神社前58台)
・大型 500円(13台)
アクセス
・萩循環まぁーるバス(東回りコース)「松陰神社前」バス停より徒歩1分
2 鹿児島
2-1 旧集成館
出典:明治日本の産業革命遺産公式サイトより。
(説明)
幕末、欧米列強に対抗するため、薩摩藩主・島津斉彬は集成館事業を始めた。
反射炉への挑戦と試行錯誤を物語る残存遺構が保存されている。
島津斉彬の没後、薩英戦争により集成館は焼失したものの、その後、島津久光・忠義父子により集成館事業の本格的な再構築がなされた(第二期集成館事業)。旧集成館機械工場は、船舶に装備する洋式の諸機械に関する技術を用いた幕府の長崎製鉄所から、その特徴・技術を引き継いだ貴重な建造物である。
(注)長崎製鉄所は幕府が設置し、後に長崎造船所となったが、当時の建造物や構造物は失われており、残っていない。
その他、イギリス人技師を招いた証左である鹿児島紡績所技師館の建物、蒸気機関を用いた日本最初の西洋式紡績工場である鹿児島紡績所の地下遺構が確認された遺跡などが、保存されている。
(関連HP)
観光情報(鹿児島市観光サイト)
http://www.kagoshima-yokanavi.jp/data?page-id=2401
(MAP)
住所
・鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
駐車台数
・有(バス26台 乗用車128台)
アクセス
・鹿児島から宮崎に走る国道10号沿い左側
・JR鹿児島中央駅から車20分
・鹿児島空港から車40分
・民間バス:鹿児島シティービュー 仙巌園前(磯庭園前)下車徒歩1分
(説明)
集成館事業に用いる燃料の木炭を製造した炭窯の跡が遺跡として保存されている。
(関連HP)
地域の宝箱!~地域フォトライブラリ~ (鹿児島県ホームページ)
https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/terayamasumigamaato.html
(MAP)
住所
・鹿児島県鹿児島市吉野町10710-68
駐車台数
・無し
アクセス
・JR鹿児島中央駅から南国交通バス中別府団地線にて40分、少年自然の家入口バス停下車、徒歩20分
(説明)
集成館事業の動力源とする水を供給した疎水溝の遺構が遺跡として保存されている。
(関連HP)
地域の宝箱!~地域フォトライブラリ~ (鹿児島県ホームページ)
https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/sekiyosi.html
(MAP)
住所
・鹿児島県鹿児島市下田町1263先
駐車台数
・無し
アクセス
・JR鹿児島中央駅から南国交通緑ヶ丘団地線バスで30分、下田下車、徒歩12分
・九州自動車道吉田ICから車で約15分。県道25号線沿いの案内看板より徒歩10分。
3 韮山
3-1 韮山反射炉(伊豆の国市)
出典:伊豆の国市公式サイトより。
(説明)
欧米列強に対抗する海防用の大砲鋳造のため、西洋技術の情報を得て、日本の伝統的な施工技術を用い、独力で建設された。日本国内に現存している当時の反射炉としては、最も完全な形で保存されている。反射炉は連双式の炉2基でできており,それぞれ石製の基礎に耐火煉瓦で囲われている。連双式の炉は融解金属が一か所に集まるよう,直角に配置されていた。
(関連HP)
国指定史跡韮山反射炉(伊豆の国市公式サイト)
http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/hansyaro/
(MAP)
住所
・静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268
駐車台数
・有り( http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/hansyaro/sekaiisan/documents/hansyarotyuutyajouannai.pdf )
アクセス
・東京駅から三島駅(60分) 新大阪駅から三島駅(3時間)
・伊豆長岡駅から無料シャトルバスを運行しています。( http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/hansyaro/sekaiisan/documents/syatorubasutirasi.pdf )
4 釜石
(説明)
釜石は、当時、日本国内で鉄鉱石が採掘された限られた場所であり、この地において、採掘された鉄鉱石を用い、高炉による製鉄が日本国内で初めて成功した。西洋技術の情報を得て、日本の伝統的な施工技術を用い、独力で建設した3つの高炉の跡が、高炉の一部を成す石組み遺構として、現存している。高炉跡のほか鉄鉱石の採掘場跡、運搬路跡などが当時からの立地環境とともに、現存しており、一連の生産システムを示している。
(関連HP)
観光スポット(釜石市公式サイト)
http://www.city.kamaishi.iwate.jp/tanoshimu/spot/hashino_tekkouzan/detail/1193197_3028.html
(MAP)
住所
・宮城県釜石市橋野町2-15
駐車台数
・普通車(80台)※大型車両は、数台駐車可能です。
・障がい者用駐車場(10台)
アクセス
・JR釜石駅から車で約50分。※釜石駅付近にタクシー、レンタカー店あり。
・JR遠野駅から車で約35分。
5 佐賀
(説明)
幕末、海防の必要性から、佐賀藩は、三重津海軍所を整備した。その遺跡が発掘調査により確認され、保存されている。国防上の重要拠点である長崎の防衛を担当した佐賀藩は、外国から購入した洋式蒸気船を修理するために収容できる木造のドライドックを有明海に通ずる河川敷に建設した。また、佐賀藩は、幕府の設置した長崎海軍伝習所(遺構が現存していない)に多くの藩士を派遣し、そこから持ち帰った西洋技術の情報を基にした、船舶に関する洋式技術の獲得と実践の拠点とした。
(関連HP)
世界遺産(佐賀市公式サイト)
https://www.city.saga.lg.jp/main/3852.html
(MAP)
住所
・佐賀県佐賀市川副町大字早津江津446-1(佐野常民記念館が目印)
駐車台数
・有り
アクセス
・長崎自動車道佐賀大和ICより車で40分
・有明佐賀空港より車で10分
・JR佐賀駅バスセンターより佐賀市営バス諸富・早津江線にて40分、佐野常民記念館入口バス停下車、徒歩で5分
・西鉄柳川より西鉄バス久留米沖新線にて30分、終点早津江バス停下車、徒歩で5分
6 長崎
(説明)
現存する日本最初の蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を装備した洋式船架。1869年に、長崎港において、薩摩藩とスコットランド出身の商人トーマス・グラバーの協力の下、建設された船舶修理施設で、明治政府が買収し、1887 年に三菱の所有となった。曳揚げ小屋は、現存する日本最古の煉瓦造建築で、コンニャク煉瓦が使用され、曳揚げ装置はグラバーがイギリスから購入した。当時の船架の形状から通称ソロバンドックといわれ、現在も長崎造船所造船工場の対岸に位置する工業港区の中で、当時の造船業の姿をとどめたスリップド
ックが現存している。
(関連HP)
観光スポット(ながさき旅ネット)
http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/169/
(MAP)
住所
・長崎県長崎市小菅町
駐車台数
・無し
アクセス
・JR長崎駅から長崎バス(野母半島方面(戸町経由)乗車)15分、小菅町下車、徒歩5分
※(曳揚げ小屋内部は非公開)
6-2 三菱長崎造船所 第三船渠(非公開施設)
出典: 明治日本の産業革命遺産より
(説明)
1901年から1905年にかけて三菱合資会社時代に築渠した大型船舶修理用乾船渠(ドライドック)。背後の崖を切り崩し、前面の海を埋立て拡大した。開渠時に設置された英国シーメンス社製の電動機で駆動される排水ポンプは100年後の今も稼働し、ドライドックの機能を維持している。船渠は拡張を行っているものの、三菱合資会社の当時の姿をとどめる貴重な資産である。
(関連HP)
三菱長崎造船所関連施設(明治日本の産業革命遺産)
http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_05.html
6-3 三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン(非公開施設)
(写真)
出典: 明治日本の産業革命遺産より
(説明)
三菱合資会社の時代に、造船所の工場設備電化に伴いわが国に初めて建設された電動クレーン。英国アップルビー社製造。大型舶用装備品の吊り上げ荷重に耐え、電動モーターで駆動される当時最新のクレーンで、1909年に造船所の機械工場付近の飽の浦岸壁に、タービンやボイラなど大型機械の船舶への搭載と陸揚げのため建設した。現在は機械工場で製造した蒸気タービンや大型舶用プロペラの船積み用に使用している。
(関連HP)
三菱長崎造船所関連施設(明治日本の産業革命遺産)
http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_05.html
6-4 三菱長崎造船所 旧木型場
出典: 明治日本の産業革命遺産より
(説明)
三菱合資会社時代の木型場。1898年に鋳物製品の需要増大に対応して建設された。工場建物は木骨煉瓦造二階建てで、鋳型製造のための木型を製作した。1985年、木型場は史料館として改装され、長崎造船所の歴史を紹介する展示施設として一般公開されている。現役の長崎造船所の工場構内で、貴重な産業遺産を理解する歴史的空間として活用されている。
(関連HP)
三菱長崎造船所関連施設(明治日本の産業革命遺産)
http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_05.html
6-5 三菱長崎造船所 占勝閣(非公開施設)
出典: 明治日本の産業革命遺産より
(説明)
造船業形成期の三菱合資会社時代に、占勝閣は、第三船渠を見下ろす丘上に建設された木造二階建洋館。長崎造船所長の荘田平五郎の邸宅として 1904年に完成したが、所長宅としては使用されず、迎賓館となった。1905年、軍艦「千代田」艦長の東伏見宮依仁親王が宿泊した際に「風光景勝を占める」という意味で占勝閣と命名された。設計者の曾禰達蔵は英国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子。占勝閣は現在もほぼ創建当時の姿で迎賓館として、進水式・引渡式の祝賀会、貴賓の接待等に使用している。
(関連HP)
三菱長崎造船所関連施設(明治日本の産業革命遺産)
http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_05.html
(MAP)
住所
・長崎県長崎市飽の浦町1-1
駐車台数
・無し
アクセス
・長崎駅から立神、西泊、神の島行きのバスで「飽の浦」下車
・長崎空港から約50分、長崎駅前から約10分
・身障者の方で、タクシーまたは自家用車で入場される場合は、見学予約時に史料館までお知らせください。
※希望者は事前に電話で予約をしてください。
(説明)
幕末から明治にかけて、西洋の機械が使えるようになると,石炭の需要が大きくなり、長崎沖の洋上の高島において、佐賀藩がスコットランド出身の商人トーマス・グラバーとともに、海洋炭鉱を開発した。北渓井坑は日本最初の蒸気機関導入による竪坑で、日本の炭鉱近代化の先駆けとなった。
(関連HP)
高島炭坑(明治日本の産業革命遺産)
http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_03.html
(MAP)
住所
・長崎県長崎市高島町99-1
駐車台数
・無し
アクセス
・高島港より徒歩30分
・循環バス「本町」下車徒歩1分
(説明)
端島炭坑は、高島炭坑の技術を引き継ぎ、発展させ、炭鉱の島として開発された。明治中期以降に採炭事業が本格的に開始し、1890年からは三菱の所有となり、明治後期の高島炭鉱(高島、端島による海洋炭鉱群)の主力坑となった。高品位炭を産出し、国内外の石炭需要を賄った。明治末には八幡製鐵所へも原料炭を供給した。産業活動の停止と住民の撤退後、現在は、坑口等の生産施設跡や数次にわたり拡張された海岸線を示す護岸遺構が残存する。(崩壊寸前のコンクリート高層住宅群は、大正時代以降に建設されたものであり、顕著な普遍的価値を反映する要素ではないが、文化財としての価値を持つ。)
(関連HP)
軍艦島(ながさき旅ネット)
http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/51797/
(MAP)
住所
・長崎県長崎市高島町
駐車台数
・無し
アクセス
※軍艦島へ上陸するには各船会社が運航している軍艦島上陸ツアーに参加する 必要があります。ただし、天候等により上陸できない場合があります。
乗船に関する予約・お問い合わせ等は、各船会社までお問い合わせください。
《船会社のご案内》
●やまさ海運(株)
Tel.095-822-5002
http://www.gunkan-jima.net/
●軍艦島クルーズ
Tel.095-827-2470
http://www.gunkanjima-cruise.jp/
●(株)シーマン商会
Tel.095-818-1105
http://www.gunkanjima-tour.jp/index.html
●軍艦島コンシェルジュ
Tel.095-895-9300
http://www.gunkanjima-concierge.com/
(説明)
小菅修船場や高島炭坑の建設、事業化に協力し、後に三菱合資会社の経営にもアドバイスを与え、石炭・造船など、当時の日本の主要産業の近代化に貢献したスコットランド出身の商人トーマス・グラバーの活動拠点。技術に関する価値観の交流へのグラバーの貢献を示している。棟梁は大浦天主堂などを請け負った天草出身の小山秀と思われる。対岸に三菱長崎造船所を眺望できる地点に位置している。
(関連HP)
グラバー園(ながさき旅ネット)
http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_02.html
(MAP)
住所
・長崎県長崎市南山手町8?1
駐車台数
・無し(近隣駐車場有り)
アクセス
・「JR長崎駅」下車 → 路面電車「正覚寺下(1系統)」乗車、「築町」下車、「石橋(5系統)」に乗り継ぎ、「大浦天主堂下」もしくは「石橋」下車 → 徒歩(約8分)
・長崎空港から空港連絡バス「出島道路経由」乗車、「長崎新地バスターミナル」下車 → 徒歩(約15分)
7 三池
(説明)
宮原坑
宮原坑は三井買収後に初めて開削された明治期から昭和初期にかけての三池炭鉱の主力坑口。炭鉱は閉山し、産業活動は営まれていないが、第二竪坑櫓と巻揚機室等が残る。
万田坑
万田坑は宮原坑に次いで開削された坑口。宮原坑と共に明治期から昭和中期にかけて三池炭鉱の主力坑口として機能した。既に三池炭鉱は閉山し、現在は、産業活動は営まれていない。第二竪坑跡と鋼鉄製の櫓、煉瓦造の巻揚機室、倉庫及びポンプ室(旧旋風機室)等の明治期における石炭産業の施設が良好な形で現存する。
専用鉄道敷跡
三池炭鉱において産業活動が営まれた当時、三池炭鉱各坑口と積出港とを結ぶ専用鉄道が建設され、三池炭やその他の産業用の物資を輸送していた。既に三池炭鉱は閉山したが、鉄道敷跡として、鉄道建設時に土地を造成した切土や盛土の跡が残存し、当時の鉄道の運行を想起させる連続した歴史的空間が現存している。
三池港
日本の産業国家としての確立期である20世紀初頭において、石炭産業を支えた物流インフラ。マサチューセッツ工科大学に留学し、西洋技術を学んだ三井財閥の団琢磨の主導に
より、三池炭を大型船に積載し国外へ輸出するために 1908年に築港された。はばたく鳥のようなハミングバード(はちどり)の形状を保ち、遠浅の有明海からもたらされる砂泥の影響を克服するために設けられた長大な防砂堤、潮位差を解消するための潮待ちの内港、閘門を備えた船渠などの港湾施設が計画的に配置され、現在も重要港湾として機能している。臨港地区には三池港築港時の港湾関連施設が一部残っている。
(関連HP)
三池炭鉱関連施設を世界遺産に!!(大牟田市ホームページ)
http://www.city.omuta.lg.jp/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=613&pg=1&type=ranking
(MAP)
宮原坑
住所
・大牟田市宮原町1-86-3
駐車台数
・無し
アクセス
・西鉄バスで大牟田駅から勝立方面へ早鐘眼鏡橋下車、徒歩7分
※通常は非公開。毎週日曜日の午前10時から午後5時まで公開
万田坑
住所
・熊本県荒尾市原万田200-2
駐車台数
・有り
アクセス
・大牟田駅から、西鉄バスで笹林・一部橋経由倉掛方面へ神田又は倉掛下車
・荒尾駅から、産交バスで、万田中・倉掛方面へ万田公園前下車
三池港
住所
・福岡県大牟田市新港町1-25
駐車台数
・有り(島鉄高速船乗り場前広場)
アクセス
・西鉄バスで、大牟田駅西口から「三池港」行き、終点下車すぐ
※閘門の見学は通常、出来ません。
(説明)
オランダ人ムルドルの設計。国庫補助を得て建設された港で、わが国の明治三大築港の一つ。三池港が開港するまでの一時期、三池炭は三角西港を経由して、海外に輸出された。現在も、関連施設の遺構と築港当時の景観がよく残っており、当時の土地利用が想起される。
(関連HP)
三池炭鉱関連施設を世界遺産に!!(大牟田市ホームページ)
http://www.city.omuta.lg.jp/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=613&pg=1&type=ranking
(MAP)
住所
・熊本県宇城市三角町三角浦
駐車台数
・有り
アクセス
・JR三角駅から、産交観光バスで「三角西港前」下車
8 八幡
8-1 官営八幡製鐵所
(説明)
旧本事務所(非公開施設)
官営八幡製鐵所創業2年前の1899年に竣工した初代本事務所は、中央にドームを持つ左右対称形の赤煉瓦建造物で、長官室や技監室、外国人顧問技師室などが置かれた。
修繕工場(非公開施設)
1900 年、製鐵所で使用する機械の修繕、部材の製作加工等を行う目的で、ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH.)社の設計と鋼材を用いて建設された鉄骨建造物。その後、鋼材生産量の増大に伴って3回増築された。創業から現在まで110年以上の間、修繕工場として稼働し続けている。
旧鍛冶工場(非公開施設)
1900年に、製鐵所建設に必要な鍛造品の製造を行う目的で、修繕工場と同様、ドイツのGHH.社の設計と鋼材を用いて建設された鉄骨建造物。製鐵所の拡張工事により増築されたが、その後、1917年に現在地へ移築されるとともに製品試験所になった。
(関連HP)
北九州市から世界遺産を(北九州市ホームページ)
http://www.city.kitakyushu.lg.jp/soumu/01900101.html
(MAP)
8-2 遠賀川水源地ポンプ室(非公開施設)
(説明)
遠賀川の河口から約10キロにある官営製鐵所の取水・送水施設。官営製鐵所第一期拡張工事に伴う工場用水不足を補うため、1910年に操業を開始した。明治建築の典型的な煉瓦建造物。動力は蒸気から電気に変わったが、現在も稼働中。
(関連HP)
世界遺産候補 遠賀川水源地ポンプ室(中間市ホームページ)
http://www.city.nakama.lg.jp/sangyo/kanko/sekaiisan_150115.html
(MAP)
▼余談
実は、本日(県内ではありますが)外に出る用事がありブログを書く時間的な余裕がありませんでした。
本エントリは、産業遺産の話が出たころから少しずつ書き溜めてきたものであり(ストックです)
本当はさらに関連情報なども、もっと追加して公開したかったのです。
もし、さらに詳細な情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、コメント欄で追記をお願いします。
▼せっかくなので外に出てみよう!
実際に目の前にすると「こんなに大きなものが!」と驚くこともありますし
「写真で見たほどのサイズではないな」ということもあります。
それも含め経験であり、実際に現場に行かねば知り得ぬことなのです。
その場所に、その施設に、、、
我が国の行く末を見据え、人生を賭けた技術者たちがいるのです。
彼らの息吹を感じ、思いを馳せてみたくはありませんか?
九州・山口へお越しの際は、是非、ご覧ください。
面白な!とか参考になったな、と思って頂けた方は
是非ともFBでのシェアやTwitterでの拡散をお願いします。
一歩、前に出る勇気。
↓応援クリックお願いします。↓
バナーが表示されない方は、こちらをクリック願いします。(同じものです。)
【支援要請】戦うための、武器をください。
最後に。
Facebookのアカウントと、FBのファンページを紹介させてください。
記事を書くたび、こちらでも投下します。
フレンドリクエストは気軽にお願いします。
FB個人アカウント 小坪慎也
FBファンページ 行橋市議会議員 小坪慎也
Twitterアカウント 行橋市議会議員 小坪慎也
コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)
【日本の産業革命遺産MAP】PCを捨てて、遺産を巡ろう タイトルの元ネタは「書を捨てよ町へ出よう」になります。 出典は、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」について で、昨今話題になっている登録される
おっしゃる通りです。
こういった物を,適切に扱う小坪議員の配慮を,嬉しく思います。
軍艦島,炭鉱,ダム,昔の廃屋,非営業のホテルと言った、大型にして芸術的な建造物に対して、心霊スポット呼ばわりをして、勝手にストーリーを捏造し、そういうサイトの管理人たる者が、無断で立ち入り、荒らし、当該サイトに曰くつきのエリアとして写真を無造作に掲載し、騒ぎ立てているのを見ると,無性に腹が立つ限りです。
埼玉県児玉郡神川町と群馬県藤岡市に跨る神流湖及び下久保ダム並びに同神川町にある新井さん家,さらには埼玉県飯能市の畑トンネル,埼玉県比企郡吉見町の百穴などなど,これらに対して勝手なストーリーを付けて,自身のサイトで心霊スポットとして取り上げている下賤なやからに,心を痛めていた次第です。
新井さんは,単に埼玉県児玉郡神川町の住み心地が相当程度劣悪ゆえ,他の自治体へ引っ越しただけです。
神川町さんには申し訳ありませんが,町のウェブサイトでどんなに大自然をアピっても,そこに定住するとなると,う????ん。
また,トンネル並びにダム及びダム湖に関しては,濃霧及び高湿度故,写真を撮ると必ず妙な物が映ります。
ここ数日、碌でも無い話題が多かったので、正直ウンザリしていた所にホッとする記事で良かったです。
ぶっちゃけ、こう言う話題しか書くことが無いほど平和なら良いのですが・・・。
個人的には江戸期の日本が好きなので、その頃に引っ掛る史跡は興味を唆るものがあります。
江戸期の日本は幕藩体制ですが、現在風に言うと道州制だったのですね。
これが、世界を取り巻く環境を考慮した際、対抗出来ないと言う事で中央集権制に移行した歴史があります。
それぞれの藩が藩兵を抱える連邦制に近い時代を、実は経験済な訳です。
萩近辺の史跡を採り上げてありましたので、その繋がりで少々。
歴史でも教えられませんし、時代劇などでは長州藩として一括りにされているのであまりご存知無い方も多いかと思いますが、実は毛利一家門の所領地を纏めて長州藩として認識されている方が大半かと思います。
内実は、本藩である萩藩を筆頭に毛利家の分家筋である、長府藩、児玉源太郎らを世に出した徳山藩(当初は下松藩)、一家門で幕府側的には大名扱いであったのに関わらず本藩が認めなかった為に江戸期は藩として扱われなかった岩国領(明治に入り正式に岩国藩になる)の支藩に分かれ、更に長府藩の支藩で本藩からすれば孫藩にあたる清末藩(長府新田藩)で構成されておりました。
時代劇などでは長州が一丸となって倒幕に立ち上がった様に仕立てられるのであまりピンと来ませんが、藩が違えば見解も異なる訳で内輪のゴタゴタを乗り越えて明治維新に漕ぎ着けたのですね。
岩国領などは、そもそも毛利家では無く吉川家が治めた所領で、関ヶ原の戦いでの面子争いを265年間引きずった藩でした。
幕末では佐幕的な立場をとり、長州征伐では本藩と幕府との仲介役を務め、さらに本藩から恨まれると言うある意味不遇な藩でした。
結局、四境戦争に於いて芸州口で幕府軍と交戦し撃破するに至っていますが。
幕末の雄藩の中に佐幕派が内包していた事を、学校の歴史教育では教えませんので、改めて調べてみると大変面白いものがあります。
また、幕末と言えば坂本龍馬や土佐郷士なども外せないのですが、同じ雄藩の薩摩藩にも郷士が居た事を御存知でしょうか。
この時代、藩によって制度がまちまちで、同じ郷士と書いても扱いは異なりますし、武士階級でも士卒の扱いも藩によってまちまち。
新選組に興味がある方なら聞いたことのある「八王子千人同心」などは、同心頭を除いては無給卒族でありました。
幕府御家人(卒族)では騎乗をゆるされた与力の配下に、足軽として同心が位置しますが、加賀藩などでは同心の方が与力の上だったりと、これまたまちまちです。
更に言えば、百姓や町人、漁民に至っても藩によりまちまち、同和教育で習った穢多、非人と言うのも藩によっては茶筅と、呼ばれたりと、コレもまちまちなんですね。
もっと突っ込めば、同和教育で習った部落階級と言うのは、当時としては穢れを嫌う神道に於いて、死の穢れや、罪の穢れと触れ合う者達で、現在風に表現するとスイーパーなんですね。
実際には武家階級の家が、部落階級の者を養子に迎え跡取りとしていたりと、歴史では教わらない事が満載です。
史跡には必ず当時の人々が関与している訳で、その背景を読み取ればもっと面白い事が分かるかも知れません。
この何日かの嫌なニュースの後なんで、何だかほっとしますね
小坪先生、おはようございます
櫻盛居士さんがおっしゃっていられたように、本当に、お隣のうざい国、該うざい国の工作員の情報ばかりで、うんざりしておりましたので、週末の朝にこのような記事を読むことができて、心の中が清流と薫風により、一度に穢れが洗われるおもいです。
私個人は脚の具合があまりよくありませんので遠出は難しいので、こうして記事で紹介していただくことがなによりたすかります。
本当にありがとうございます。
ほっとした話題と思った矢先にクネが世界遺産反対のために、ユネスコに直訴に行きましたね
うんざり
本記事と皆様のコメント勉強になります。ありがとうございます。
すべて行ければ良いのですが、なかなかどうして難しいですね。個人的には佐賀、長崎に行きたいです。軍艦島は外せないな。
これこそ「生きた授業」というやつですね。子どもだけでなく老いも若きも見学すればいいと思います。
深刻な財政難であれば厳しいのでしょうが、このような文化財の観光については県内移動くらいは交通費タダにすべきだと思っています。(東京都内では、年寄りがバス代がタダで不公平だと不満がありましたが、外出が健康増進となり医療費節約につながるし購買意欲も増すはずと無料が維持されています。文化遺産見学も教育費と思えば安いものだと思うのですが、このような贅沢が実現するのはもっと先なのでしょうか)
「近代化」は一言で説明するのは難しいかもしれませんが、たとえばWikipediaでは下記のように記載されています。
「政治・経済が、国民国家と産業化を特徴とする形態に変えることである。」
近代化(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8C%96
日本も憲法など制定し近代的な国民国家の枠組みをつくりながら産業化を推進しました。
一方、日本が近代化をはじめたころの東アジアの状況です。
「欧米植民地の残虐さ」
http://kenjya.org/ajia1.html
白人の残虐さについて、上記は少し一方的記述かもしれませんが、日本という「非白人」の国家の近代化は白人支配の終焉の開始となりました。その機動力が産業化による経済発展です。
毎回何を書いても最後は結局左翼たたきに終わるのですが(ストレス解消のためでなく一日一善のつもりで書いておりますが)、私が子どものころはネットなどなく図書館も近くになく、明治について調べたくても書店や古本屋で必ず最初に読まされるのが、日本歴史を気まぐれに改悪しまくった反日左翼の駄本でした。(たとえば色川大吉の明治精神史など)。どこの本屋行ってもこれ、これ、これです。左翼の本は資本主義に憎悪をもっているので、産業化などは「独占資本」とか「富国強兵」の一言ですませて、後は歴史のゴミ箱あさりの収穫にもとづいて罵倒や文学的あら探しの羅列でクソの役にも立ちません。
産業化については、「何が産業化の主体となったか」「なぜ産業化の主体となれたか」が核心と思います。日本ではじめての株式会社は(第一国立銀行を除くと)日本郵船でしたが、資本を蓄積できる企業が成立するまでは藩などがその代役をにないました。お金はすぐに集まっても人材は促成栽培できないからです。(萩反射炉だと長州藩でしょう)
それなのでそのような記念物では、それに関わった人々の記録(できれば当事者の書き残したものから賢者が抜粋したのがいいです。これが余計はフィルターを通さず一番よい)なども充実した展示があれば素晴らしいと思います。
産業化の話題ですと、総合商社の事も外せない話題ですね。
実は、総合商社と言う業態は元はと言えば、幕末に派生した日本独特の商業形態なのですね。
江戸期の日本は基本的に分業化されておりまして、家ごとに階級が定められていた訳です。
ここに外国商人が絡むと、日本人のお人好しや実直さに付け入った取引をされて、大変苦労した様です。
例えば、生糸は当時の主要産業ですが、取引を開始した頃は相場よりも高く買い取ってくれるのですね。
そして、増産の要望も出して来る。
そうなると、儲かると言う事で生産者は過剰投資してでも、元は取れると言う判断で増産するのですが生産目標を達成すると、今度は外国商人が商品がダブついていると言う理由で買い叩く訳です。
こうなると、個々の生産者は投資分の回収が不能になって、破綻してしまう。
因みに、日本製の生糸は品質が世界レベルで高かったので、こう言う事態に発展したのですが。
こう言う苦い経験を元に、日本人的には不義理な外国商人と渡り合う為に生まれたのが、総合商社と言う形態なんですね。
余談ですが、総合商社の起源は幕府の肝いりで設立された兵庫商社と言われてますね。
当時の日本人って、物凄く頑張ってた訳です。
そもそもの話ですが、南蛮貿易の時代は日本は生糸の一大輸入国で、国内の金銀流出に頭を抱える状態だったのですね。
それならば、自国生産に踏み切れと江戸期には各藩が養蚕業を奨励し、技術が著しく向上、国内で需要が賄える体制に漕ぎ着けています。
幕末には一大輸出国に転じています。
結構、日本人の歴史って凄い訳です。
明治時代には、貿易面で既に輸入と輸出を拮抗させてますね。
欧米の植民地になってなっていった国は、輸入と輸出のバランスが著しく悪く、結果として欧米に飲み込まれて行った訳ですし。
国内産業の発展には社会インフラの整備は欠かせないですが、これも驚異的なスピードで成し遂げてますね。
電力、ガス、鉄道網整備などは、分かりやすい例ですね。
明治維新から大東亜戦争までの約70年間で、実質GNPは約6倍、実質鉱業生産は約30倍、実質農業生産は約3倍と、成長率が凄まじい。
取扱い商品もこの約70年間の間に絹から、綿製品にシフトして行きますが、昭和10年前後には綿製品輸出世界シェア一位であったイギリスをブチ抜いてます。
現在「世界のトヨタ」として名を馳せるトヨタ自動車ですが、戦前は紡績機械を製造しており既に世界のトヨタだったんですね。
造船も欧米のシェアを奪っていってますし、面白い所ですと自転車なんかもイギリスからシェア奪ってます。
自転車製造等は、職人の意地を感じさせるものがあります。
元々江戸期に各藩お抱えの鉄砲鍛冶だった職人達が、明治に入ると兵器の近代化で商売に成らなくなりました。
ところが鉄砲鍛冶職人達は、同時期に輸入されていた、鉄砲と同じ様に鉄パイプのフレームで構成されていた自転車の修理を請負う様になります。
ここは日本の職人の凄みを見せる所で、修理を請負うと必然的に構造を分析して行く訳で、自分で作りたくなって行く訳です。
そんなこんなで、日本製魔改造自転車の誕生です。
自転車も元はと言えばイギリスの主力商品だったのですが、安さと品質の日本製魔改造自転車がそのシェアを削り取って行ったのですね。
たろう様が仰られる様に、アカの連中は経済に疎すぎる。
あの戦争の一因に、戦前の経済戦争が関与している事を、まるっきり無視してますね。
『反日左翼の駄本』は、当に言い得て妙。
関わった人々の記録は、ある種の宝ですね。
日本の総合商社は日本独特の面白い形態ですね。韓国や中国などがマネしようにも難しいところがあるのではないでしょうか。(韓国にも一応商社ありますが)。
坂本竜馬などの遺伝子が受け継がれているんでしょうね。
個人的にもっとも気になり心配している点は、歴史的に企業の「社内誌」などが今後どう扱われていくかです。詳しく知らないですが、過去に流通市場で出版され、ISBNが振られて国会図書館に保存される書籍は永久に残るでしょう。
しかし社内誌などは企業の歴史が終わるとともに廃棄されて消滅していくとするときわめて残念です。日本の歴史に大きな貢献をしたのは屁理屈を書き連ねる評論家や学者ではなくて汗水を働いて実社会を構築してきた上質な日本人です。その方々は大部分は(近代においては)企業組織を基盤としており、戦場に行った元日本兵の方も戦後は企業で働き、そこで過去の経験談や手記を膨大に残しています。それらが跡形もなく消えるとなると日本にとって相当な損失になると思われます。公的遺産として保存してほしいものです。
やはり、明治時代についての本て少ないですか?何年か前に、書店を隈無く回ったわけではありませんけど、読みたい本が見つからないなと思いました。そんな時にドナルド・キーン先生がお書きになった「明治天皇」を見つけて文庫本4冊と簡略版まで明治の空気を吸い込みながら一気に読み上げました。時々、時代を選んで生まれて来たのかと思える人がいるものですが、明治天皇陛下もそんなお方でした。ドナルド・キーン先生は東北の地震の後、日本に帰化なさいました。日本人として大変誇りに思いました。
すいません。私のコメントは上の たろうさんにでした。ごめんなさい。(ー_ー;)
良い本のようですね。機会あれば読んでみたいと思います。以前にドナルド・キーン氏の他の本を読んだ印象ですが、日本の文学には詳しいですが歴史(世界史も含めて)はあまり詳しくない(興味ない?)ように感じました。また時評的なものは、その時々のマスコミや文化人風潮の影響を受けているように感じました。
ウィキペディアからひろってきた情報を少し編集したことがあります。
1870年(M3:小学校開設、富岡製糸場、山梨でワイン試作、アイスクリーム販売
1871年(M4:郵便誕生、裁判所設置、ドイツでつくられた新紙幣流通、岩倉具視ら長州ファイブが欧米へ使節団として出航、国産セメント製造、横浜にガス局設置、靴や手袋の大量生産
1872年(M5:東京日日新聞創刊、万国博覧会、鉄道開通
1873年(M6:徴兵令、銀行設立、ビール、バター、洋酒製造
1874年(M7:初めての人口調査、ガス燈点火、国産紙巻タバコ、台湾出兵
1875年(M8:国産マッチ製造、国産軍艦製造、初めて国際裁判に勝利、芝浦製作所設立、そして英仏駐屯兵撤退
たった数年の間にこれだけのことを毎年やってるわけです。これを見るだけでもいかに先人が優れていたかをひしひしと感じました。
私は最近、明治期の、それこそ今回世界遺産に入ってもいいような昔の炭鉱跡や発電所跡、道路、橋げたなどを地道にめぐってますが、いつもご先祖様の仕事ぶりの丁寧さや、その工夫、アイディアに感嘆し、今の礎を作ってくださったことに感謝しながらめぐらせていただいています。そうすると「自分もまだまだがんばらなければ」という気持ちになります。
ちょっと心が疲れた時にはお勧めですよ。。
ちなみに三菱重工の長崎造船所内の「ジャイアントカンチレバー」は非公開となっていますが、旧木型場(史料館)は入れますから、門から入場してその途中にまだ稼働しているその雄姿を通過しながら間近で見る事ができますよ?。
[…] 出典samurai20.jp […]