民主党政権における、ネット保守の戦い(激闘編)十二年前のあの日に始まった、一人の男の物語。の続編になる。
前項において、13年前の平成21年(2009年)~平成23年(2011年)の3年間のことをまとめた。
自民の歴史的大敗に始まり、中川昭一の急逝。
鳩山内閣、トラストミー、外国人参政権、口蹄疫、尖閣での後退。
菅内閣、尖閣請願、TPP、東日本大震災、フジデモ・花王、太陽光発電(再生エネ法)
そして野田内閣に続くまでの、ネットの保守の動きを私の目線で時系列に並べ、思うことを書いてみました。
今回は、続編として、10年前の平成24年(2012年)から、政権を奪還するまでの過程を書き記したいと思います。
反撃の年。実りの年。
総裁選のまさかの勝利、衆議院選挙、
政権奪還、安倍内閣発足。
参議院選挙でのねじれ解消。
そして。
私は、保守活動から引退を決意する。
いまのネット保守ができるまでの話、私目線での今のネット保守に至るまでの経緯。
一歩、前に出る勇気。
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反撃の年。実りの年。
関連:
自民党の宝、木原みのる
第一次安倍内閣の崩壊、二度目の首相など、多くは例がない。
まさかの総裁選、勝利。
野党時代を支え続けた谷垣幹事長の一件もあった。
石原伸晃氏の反乱、なんてやつだと思ったが、あれがあったから安倍総裁は誕生したとも言える。
最後は、石破茂候補と一騎打ち。
安倍晋三は、総裁(自民党のトップ)となった。
この時は、まだ民主党政権である。
まずもって「奇跡の総裁選の勝利」があっての、第二次安倍内閣であった。
実は、私も総裁選に参加。
地元福岡において、安倍さんの前でマイクを握っている。
国会議員(前職含む)が主で県議も少数、異例なことと言われた。
なんでそうなったのか、よくわからない。
市議当選より3か月ほどのことだったと思う。
さして緊張もなかった。
この時は(市議というよりは)市外においては「活動家」のノリであり、そういう意味では場慣れしていたのだろう。
私の誕生日であった。
最高の誕生日プレゼント。
政権奪還を目指すべく、衆議院選挙を戦う。
地元は安定の福岡11区、麻生選挙においても勝利。
また小泉選挙では刺客を立てられるも(数百票の僅差で)これを撃破。
地元代議士に頼み込み、小選挙区を離れ、県外の支援に向かう許可を求める。
政権奪還のため、運動員として地元を離れたいというもの。
これは、かなり無理な要請です。
(正直、いっぱい怒られる。)
驚きもあった。
浪人中の木原先生が、創価学会からの推薦を受けない。
事務所には、慣れたスタッフが足りているとは言えず。
事務所運営には、やや支障をきたしたようにも見えた。
バッチをはずし、一人の運動員として現場を切り盛り。
行動隊B班の班長(駐車場の整理などの指揮、意外に重要)として戦う。
行橋から熊本まで通う日々。
片道3時間、往復6時間の運転。
12月議会日程と被り、倒れかける。
高速代とガソリン代で残念なことに。
市議選を終えて日が浅く、貯蓄が欠乏。
宿泊費は一瞬で尽き、漫画喫茶に泊まっていることがばれた。
(いっぱい怒られる。)
衆議院選挙を制する。
長らくの野党を経て、鍛え上がられた支部長たちは、続々と復帰。
請願においては、多くの紹介議員がついているが、これは在野にあった支部長(前職国会議員)たちの協力があってのことだった。
野党時代、在野においては共に駆け抜けた戦友だと思っていた、
だけど、もうこれで気軽に電話したり、(ちょっと失礼な)冗談を言ったりはできないな、と思った瞬間。
壇上でマイクを握る木原先生。
最高の笑顔。
どことなく寂しさも感じた。
「そろそろ終わり(引退)かな」と呟いた。
駆け抜けた、対民主党戦線。
死ぬ気で戦えたのは、守りたい世界があったから。
守りたかった世界は、戻りたかった世界。
鉄火場のような、眠れぬ夜の終わりが見えた気がした。
・・・そろそろ、降りても許されるのではないか。
歓声に沸く事務所を、ひっそりと後にした。
激動の年の瀬であった。
自民政権として、この年を締めくくった。
選挙疲れを押して、無理な稼働を続けていた。
市議に当選したばかり、半年も経っておらず議会にも慣れていない。
衆院選は12月議会と重なり無理がたたる。
体力的にも限界で、発足のニュースを聴いた前後だったか、
この数年の無理(対民主党)がたたってただろう、点滴を打っていた。
低血糖で倒れ、以後、甘い物を意識的にとるようになる。
もう、きっと、限界だったのだろう。
私自身も。心も体も。
終わったら、戻りたい場所があった。
ねじれ、解消。本当の意味での政権奪還が達成される。
平成25年7月21日 投開票
夏の、暑い日だった。参議院選挙、勝利。
ねじれ解消。
本当の意味での政権奪還を果たす。
初のネット選挙の成果とも言われた上位当選。
以下は、自由民主党 香川県支部連合会において、大山一郎県議の県政報告に際し、私がマイクを握らせて頂いた際の動画です。
市議当選より一年と二ヶ月少々の頃。
いまは、もう少し上手く話せるようになったでしょうか?
赤池まさあき先生応援演説@小坪慎也(行橋市議)
関連:
参議院全国比例を戦うということ、その意味。
大山一郎県政報告会
舞台袖であった秘話。
駆け抜けた、あの日。大山一郎(香川県議)について。
正直、悲願であった。
市議当選より約一年、参議院選挙を最後に、事実上の引退。
縮小傾向にあった保守活動を、ほぼ完全に停止。
慣れぬ議員生活、地方行政を学ぶため、、、
それは言い訳かも知れない。
実際は、何もかもが限界であった。身体も心も。
なんとなく、それが嫌だった。
そんなことのために、身体、張ってきたんじゃない。
そして共に戦った仲間たちがいる。
私だけが、どこか優遇されるようなことは、末端とは言え、指揮官としてのプライドが許さなかった。
何もいらない。
どこかで重荷だったのだと思う、
暑かったあの日、麻生選挙の大敗。
中川さんの死が、守れなかったという罪の意識。
戻りたかったのだと思う。
守りたかった世界があった。
だから全てを賭けて戦えた。
守りたかった世界とは、戻りたかった世界だ。
後輩たちとバカ話をして、わけのわからぬ笑い声の響く日常に。
きらびやかな世界よりも、何よりも、私がずっと求めていたもの。
保守活動を縮小、相当に大人しくし引退を決意、実際、引退した。
ただの新人市議として、ちょっと口の悪い先輩市議とかにですね
こう、いじってもらったり。
後輩と車をいじったり、地元のお祭りで神輿を担いだり。
そんな生活に憧れた。
いや違う、私が元々いた世界。
守りたかった世界。
もう激しく生きるのはやめよう。
古くからの同志たちに、民主党政権を打倒のち、「あとは任せて大丈夫だよね」と。
お別れを言って、黙ることにしたのです。
本当は、ちょっとしたプレゼント、金銭などではなく。
対価ではありませんけど、お礼みたいなものも提案されました。
とても魅力的なものばかりでした。
キラキラした世界もいいな、って。
ちょっと思いました。
だけど。
例え話になりますが、綺麗な服を来て、高級車に乗って、そんな煌びやかな生活よりも。
ぼっろいスポーツカーに乗って、何より大事な後輩たちと生きる生活を選んだ。
行橋市に、残りたかったんです。
東京の、すれ違う人の顔すらわからぬ喧騒の中にはなくて
地元にだけある幸せがある。
それだけは、なぜか直感的にわかりました。
9年前、小坪しんや、前線より引退。
13年前の、あの日の苦悩に押しつぶされそうだった、その苦悩から解放されたとも言える。
麻生選挙の大敗、中川昭一という存在の喪失、自分なりの責任感ゆえ駆け抜けてきたが、ここで一旦の区切りとし、私は引退の道を選んだ。
(舞い戻った前後の話は、「復活編」として、やがて記したいと思う。)
前編)
民主党政権における、ネット保守の戦い(激闘編)六年前のあの日に始まった、一人の男の物語。
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変遷した訳では無いのかな。
それぞれの立場で日本保守を続けているのかな。
僕の目には変遷したように映るけど、先生はどう思ってるのかな。
三◯さん、保守速その他保守系を銘打ってたまとめサイト、etc.
そのまとめサイト酷いです、昨日「アルファ◯◯◯・・・・」と言う所は、吐き気を催すまとめ記事を上げてました。ここは元々保守って訳では有りませんが政治系ネタでは反日揶揄が多かったのですが。
安倍さんが可哀想過ぎて、辛過ぎて、将来に悲観しか無いアラサーです。
別世界の話しだけど、何故か、身につまされます。