古いエントリーになる。7年前に書いたもの。中川昭一先生の訃報について書いた記事の続きになる。
今回もうまくまとめることは、やはりできなかった。
もう干支が一回りするのか、麻生内閣が崩壊し、自民党が下野してから13年になる。
あの日、ネット保守は産まれたと言っても過言ではない。
いつか、あの日の思いを、しっかりと言葉にできる日は来るのだろうか。
自伝のごとく、昔話を詳しくしたことは、本ブログではないように思う。
少し振り返りたい。
赤旗撲滅作戦の際「左翼のほうは、私をよく知っている」と書いた記憶はある。
10月3日、中川昭一、急逝。
夜遅くのことだったのだろう、報道は4日のことだった。
13年前、我々はその訃報を知った。
13年前の、あの日。
泣き崩れたい気持ちを抑え、モニターの前。
私が目にしたのは、混乱する保守陣営、崩壊していく戦線であった。
崩れかけた仲間たち、その折れた心を支えようと、明るく気丈に振る舞う私がいた。
できもせぬことを、やれる自信もないことを。
大風呂敷を、何の保証もないのにぶち上げてみせた。
嘘でもいい、希望が欲しかった。
あの時、何もなかった。ただの一つも、一筋の光すらもなかった。
本当は、とてもとても、怖かった。
(無理とも思える目標を掲げたのだが、結果的には半分以上を達成することはできた。多くの方の協力のもとで。)
あの日、
13年前の、あの日。
ネット保守層において、中間管理職みたいな位置にいた私が何をみて何を思ったのか。
いまだ、言葉にすることは難しい。
そして、この13年の間に何があったのか。
徒然なるまま、書き散らしたい。
私にとっても必要なことなのだろうが、ゆえにこれはワガママの一種でもあるのだけれど、
きっと、これからの保守にとっても大事な歴史だと思うのです。
前編。
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自伝的な要素もあると思って頂きたい。
13年前、訃報が報じられた日。
中川先生を思うに、この13年を何と形容してよいかわからない。
激動のあの日を振り返る、良いことばかりではなかった。
むしろ悲しいことも多々あった。
失敗もたくさんあった、果たせなかった約束もある。
いまは。
ただただ、あの日々が懐かしい。
起きた出来事を、気持ちのままに並べ
論評をつけてみる。
リーマンショックによる世界恐慌が予測される中、日本はこれを押しとどめることに成功。
2009年2月14日午後(ローマ)、G7。
中川財務大臣が、世界を救う。
この成果は、日本においてのみ報じられず、政権への打撃となっていく。
mixiで動画が貼れるようになったのが前年の冬だったように思う。
最新ツールであった動画による効果は絶大であった。
人数で言えば、現在のほうが遥かに多いのだろう。
当時はノイジーマイノリティに過ぎない。
ただし、あまりの危機的状況ゆえ、恐らくは私生活を犠牲にしたプロも多数戦線にあった。
以下は、歴史的大敗を喫する衆院選の前に公開されている。
麻生政権と、あの時、何があったか知らぬ方は是非、ご覧ください。
「危機をチャンスに変えろ」 (前編) ?G20サミットの舞台裏
本動画の後編
「危機をチャンスに変えろ」(後編) ?予算編成の舞台裏
麻生内閣はここに潰えた。
新自由主義に異を唱え、メディアと対峙した内閣が潰えた。
それは以降の自民政権において、同種の政策ができなくなった瞬間でもあった。
報道の圧倒的な戦力の前に、保守勢力は敗退。
自民党は惨敗し、麻生政権は潰えた。
(出典:鳩山総理の動き?日米首脳会談)
数十年に渡る、汗と涙の調整は灰燼に帰した。
沖縄の問題は、あの時、暗礁に乗り上げた。
以後、普天間移設は迷走。
今もそのままだ。
政治とは連続性のあるものですからね。
ここの責任を問わぬメディアは、おかしいと思います。
メディアが政権を守り、閣僚を倒しても打撃にならない謎の状況。
「どんなルールだよ!」と叫ぶ私がいた。
保守派は少ない陣営を率い、戦線を構築。
無理とも思える激戦の中、苦しい状況は続く。
これは、現在、立法不可な状態にある。
仮に自民党が政権の座を追われようとも、立法は不可能だ。
具体的には、総務省選挙課・あと確か内閣官房とのやり取りがあるため。
ただし、ネット上では検索不可だろう。
村田先生と共に省庁に要請活動、私も参加したのだが、答弁不能になる「法の矛盾」(官僚的に立法できない状況)に追い込むことに成功した。
検索不可と断定できるのは、その元ソースのテキストは、私が所持しておりアップしていないためwebでの閲覧が不可能。
(そのうち公開するかも知れない。)
ワクチンリング、殺処分。赤松氏の采配にはミスがあった。
のち誕生してゴリ押しされた韓国牛。
メディアは、これほどの事態にも関わらず
民主党を延々と持ち上げ続けていた。
ネットユーザーの心に鬼が棲み始めたのを感じた。
殺処分:29万7808頭
畜産関連の損失:1400億円
関連損失:950億円
あれは仙石さんの時だったか。
勇気ある、愛国心ある、海上保安官を失う。
以降、東京都の買取り、国有化などなど。
様々な議論はあったが、結果的に対CHINAの交渉は大きく後退。
いまだにその影響下から脱出できたとは言い難い。
ネットは、その場では一色を褒め称えたけれど。
祭りの終わった縁日の寂しさというか、熱しやすく冷めやすいというか。
支持は、やはり瞬間的なものにとどまったな、それを寂しくも思う。
菅直人が第94代内閣総理大臣に任命された。
民主党政権は、「故人」献金や(親からの)「子ども」手当が顕在化。
支持率は急降下し、鳩山降ろしに発展。
民主党の内紛、麻生降ろしを見てきた保守陣営は「これで倒せた」と安堵した。
管直人にバトンタッチ。
今思えば、暗黒時代の始まりだった。
4本目か5本目の請願になる。
これは国会法に基づくものであり、現職国会議員の紹介が必須であった。
いま思えば、よくもこれだけの事務所に話を通せた(相当に組織化して動いていた)ものだと不思議に思う。
先生方を納得させるだけの字句修正、現在の外国人扶養控除の意見書等のノウハウは、ここで実地で学んだ部分も多い。
(肩書は当時。最終的なもの。)
衆議院議員
北村茂男 (石川三区 衆議院議員)
田中和徳 (神奈川十区 衆議院議員)
新藤義孝 J-NSC初代代表 (埼玉ニ区 衆議院議員)
稲田朋美 (福井一区 衆議院議員)
古屋圭司 (岐阜五区 衆議院議員)
加藤勝信 (岡山五区 衆議院議員)
柴山昌彦 (埼玉八区 衆議院議員)
小池百合子 (東京十区 衆議院議員)
小野寺五典 (宮城六区 衆議院議員)
下村博文 (東京十一区 衆議院議員)
甘利明 (神奈川十三 衆議院議員)
参議院議員
島尻あい子 (沖縄選挙区 参議院議員)
山谷えり子 (全国比例 参議院議員)
大江康弘 (全国比例 参議院議員)
高市早苗 (奈良二区 衆議院議員)
佐藤正久 元一等陸佐 (全国比例 参議院議員)
熊谷大 (宮城選挙区 参議院議員)
義家弘介 (参議院議員 神奈川第十六支部長)
有村治子 (全国比例 参議院議員)
宇都隆史 (全国比例 参議院議員)
衛藤晟一 (全国比例 参議院議員)
鴻池祥肇 (兵庫選挙区 参議院議員)
岩井茂樹 (静岡選挙区 参議院議員)
【請願】尖閣諸島・沖縄への自衛隊配備と日米同盟強化を求める請願
私がロビイストとして率いた部隊は、立ち上がれ日本、日本会議とほぼ同時期に完成。速力においては、(小規模集団という)フットワークの軽さから既存政党にも負けぬ速さを誇った。
民間の政策シンクタンクには、速さも精度も負けたくなかった。
プロ顔負けと言わしめた、在野のロビー集団がそこに在った。
ネットとリアルの連携を訴え、政策と行政手段一本で、行けるところまで行く。これが私が訴えた内容。
本当は自信などなかった。大風呂敷だった。
リアルの政治に影響力を!
法に則った実力行使を!
集った仲間たちは、これほどの力を発揮した。
ネット上では、その実態を秘匿したままに。
菅内閣の「思い付き」から、本来の形と異なるTPPが出現。
儲かると踏んだ米国側より、現在とは違うアプローチや情報が多々もたらされる。
当時とは随分と形の違うTPPAだから、何がなんでも反対とは言わない。
台風が熱帯低気圧になったようなものだ、とも思う。
自民も難しい交渉を頑張ったのだろう。
ただ、賛成かと聞かれれば、私は新自由主義的な側面が強いため、今でもNOと言いたい。
東日本大震災が起きる。
フジデモ・花王ショックを経て、ネットがメディアへの反撃を開始。
何もかにもが飲み込まれた日。
現実と思いたくないのだろう、映画のように別世界のことだと脳が受け入れない。
就職で東北に住んでいた私にとっては、見慣れた光景が沈んだ。
仮設住宅を韓国に発注、これは噂であったのか事実だったか。
地元雇用の創出にもつながる話で看過できなかった。
初期対応において、国道など主幹道路の計画に失敗。
いまだ被災地においては禍根を残す。
天災であったが、のち人災の色合いを濃くしていく。
TPP反対請願提出のご報告(新世紀のビッグブラザーへ)
紹介議員
古屋圭司衆議院議員、高市早苗衆議院議員、西田昌司参議院議員、野村哲郎参議院議員、山田俊男参議院議員、衛藤晟一参議院議員
三橋さんの監修、制作著作は私。
いくつか請願は書いていたけれど、ダブルネームで準備したのは初めて。
平成23年8月21日 フジテレビ抗議デモ
韓流ごり押しに対し、ネットが声を挙げる。
不買運動が、スポンサーを直撃する形で顕在化。
花王ショックとも言える現象が起き、コンプライアンス・ISOを盾にとった動きの最初期の動きとも言える。
この頃からか、報道の流れが少しだけ、変わる。
民主ゴリ押しから、世論の「民主っておかしい」の声に耐えきれず、報道による民主へのバリアが綻びはじめた。
再生エネ法を最後っ屁のように設置。
いまだ日本を苦しめる。
本法は、8月30日のこと、自民が歴史的大敗を喫した日であった。
自然エネルギーのみの、綺麗な世界は。
ドラえもん等、アニメの中にしかない。
技術職であれば、いまだ人と共存するには早すぎる技術だというのは常識だと思う。
関連:
国民が知らない太陽光発電の実態??消防官の危険と出火リスク
国民が知らない太陽光発電の実態??水害時の危険性
あの管直人が退陣、今度こそ政権奪還か?と喜びに沸くも、そうはならなかった。
野田内閣へとバトンタッチ。
なぜ民主党政権を倒せない!
泣き崩れた者もいた、慰め励まし、戦線を維持。
陣営は疲弊は、すでに限界だった。
就任直後より、閣僚のスキャンダル。
発足より9日後、鉢呂経産大臣が原発事故に関連する不適切発言の責任を取って辞表を提出。
枝野さんが就任。
それをネットが延々と追いかける形。
倒しても倒しても。
どんなに閣僚を倒しても、金太郎飴のように次から次へと、さらにひどいものが出てくる。
あの時(麻生降ろし)のようなことは流れが「なぜか」起きない。
凄まじい数の閣僚を倒せど、報道のバリアもあり打撃とならない。
徒労感、疲弊。
フジデモ以降、少し見えた綻びが顕在化。
メディアが、民主党の批判を行うことが散見されはじめた。
倒しても、倒しても。
徒労感の続く日々。
限界だった、破断限界を超えていたように思う。
保守層の一部は、すでに心に鬼が棲み、動きは獣のようであった。
少なくとも私自身はそうであったように思う。
メディア側に綻び、必死の保守陣営。
戦線は拡大の一途、激戦は続く。
保守陣営の練度は最高度に達した。
現在は43歳。
あの日、中川先生が亡くなったという一報を受けた際、
30歳であった。
ただの若者であった、むしろネットではDQNと言われても仕方ない人間であった。
29歳で市議選に挑戦、現職を抑える程度の得票を頂くも、届かず。
結果的に大量の死に票を産んだだけの、政治少年であった。
本当は、私だって逃げたかった、泣きたかった。
悲しかった、心に穴がぽっかりほげていた。
私だって、私だって、同じだった。
だけど、だけれども。
なぜか「できる」と思ってしまったんだもん。
曲がりなりにも上場企業に勤め、書類作成に埋もれた日々。
リアルに活かす、行政手法、あとは商談の延長と同様「なはず」だ。そう自分に言い聞かせて、信じ込むしかなかった。
全ては学びながら、無理やり進めたものだ。
逃げなかった理由、、、
それは、走り屋という、狼の群れにも似た小規模集団の頭を長らく務めていたからかも知れない。
いま退いてはダメだ、誰かが支えないと本当に終わる。
直管的にそれだけはわかった。
13年前のあの日、30歳の小坪しんやが涙した日。
政権交代はなされてしまった直後。
民主党政権が誕生、迫りくる外国人参政権。
麻生選挙の大敗は、保守陣営に凄まじい衝撃を与えた。
特に精神的なものは凄まじく、ショック症状と言っても過言ではない。
麻生選挙に全力を投じ、「これで終われる」と思っていた者は、泣きくずれ、真っ白になり。
自暴自棄になる者を押しとどめ、恐慌状態を落ち着かせ。
疲弊しきった仲間たちに、
「今から、四年間、私たちが日本を護る覚悟を持たねばならない。」
私は、残酷な言葉を吐くしかなかった。
本当は言いたくなどなかった。
民主党の分析を行い、体制を整えようとしていた矢先であった。
中川昭一の訃報が飛び込んできたのは、まさにそのタイミングであった。
英雄の喪失。
これはミッドウェーで艦載機を満載した空母が、敵機直上急降下からの、艦載機が誘爆していくに近い状況であった。
寸断していく戦線。
混乱、怒号、悲鳴。
保守活動自体をやめようとする者も多数。
もともと戦力など足りていない、一人抜ければ崩壊する戦線も多数。
そして補給などなく、指示もなく、援軍もなく。
どこにも希望なんてなかった。
嘘でもいい、希望が欲しかった。
あの時、何もなかった。
ただの一つも、一筋の光すらもなかった。
私が見た世界、まるで焼け野原のようだった。
あの日、私はウソをつきました。
できもせぬことを、やれる自信もないことを。
大風呂敷を、何の保証もないのにぶち上げてみせた。
中川昭一という存在の喪失。
崩れゆく戦線を前に、「私がなんとかする」「これより指揮を執らせて頂きます」
「大丈夫、我に策あり!」
そううそぶいた私は、実はノープランでした。
(無理とも思える目標を掲げたのだが、結果的には半分以上を達成することはできた。多くの方の協力のもとで。)
13年前の10月4日。
中川昭一という希望を、私たちは失いました。
代われるはずもないけれど、せめて小さな光になろうと誓った。
それがイミテーションだとしても。
嘘付きになる覚悟をもって、罵られることを覚悟して
小さな旗を掲げ続けた。
誰かの光になりたかった。
泣き叫びたい気持ちを抑え、半泣きになりながら
「大丈夫、大丈夫だから」「共に、立ち上がれ!」
そうキーボードを叩いた30歳の私がいました。
鼓舞し、支え、走り回り、連絡をとり調整し。
駆けずり回った日々。
とても、とても怖くて、
本当は逃げたかった。
これが13年前の、あの日、私が見たものです。
私だけじゃない、各所で多くの人が、様々なものを捧げ
それは時間だけでなく人生そのものを特攻させるようなやり方で。
そうやって今の、保守陣営は構築されていきました。
激動のあの日を振り返るに、
良いことばかりではありませんでした。
むしろ悲しいことも多々あった。去った者もいる。
失敗もたくさんあった、果たせなかった約束もある。
今は、ただただ全てが懐かしい。
もう泣いてもいいのかな、本当は怖かったって、言ってもいいのかな。
毎年、この日はそれを自らに問う。
そして「まだだよ」って、尊敬する政治家が笑うんだ。
明日の後編に続く。
残りの三年間。
保守の反撃と、実りの年。
いまの私に至るまで。
13年前、こんなことになるなんて、想像もつかなかったな。
一歩、前に出る勇気。
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コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)
中川昭一さんを潰してしまったのはマスゴミでした。今はマスゴミが何であのようなのか正体を知っていますが、あの頃は何にも知らなかった。寂しい思いの中で失望されたまま逝かれた事を思うといたたまれない思いでした。
中川さんは大きな功績を成し遂げ海外では賞賛された方でしたが、醜悪で性根が歪んだ一途に日本壊し隊である半島DNAの連中が乗っ取っているマスゴミは一切報道しませんでした。彼らがやった事はあの朦朧会見を繰り返し、繰り返し日本人に見せることだけでしたから。
🔻IMFへ1000億ドル融資、中川財務相が署名
2009年2月14日 17:35 AFP
発信地:ローマ/イタリア
【2月14日 AFP】中川昭一(Shoichi Nakagawa)財務・金融相は13日、日本政府が表明していた国際通貨基金(International Monetary Fund、IMF)への最大1000億ドル(約9兆2000億円)の融資を実施する合意文書に正式に署名した。経済危機に陥った国への支援を後押しする。
IMFのドミニク・ストロスカーン(Dominique Strauss-Kahn)専務理事は「世界的な経済・金融問題に対する多国間の取り組みにおいて、日本がリーダーシップを発揮し、貢献を続けることを明確に示したものだ」と評価した。
……………
ネットでは下記の内容が有志によって繰り返し書き込まれるので、ネットの普及で知られて行きました。
🟥IMFへの融資で功績を残した中川昭一
https://topic-show.net/politician/4412/
2007年のアメリカ合衆国の住宅バブル崩壊をきっかけとして2008年に起きたリーマンショック。そんな中で、中川昭一氏は10月に先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議に出席した際にIMF(国際通貨基金)に新興・中小国向けの新たな緊急融資制度を設けることを提案しました。この緊急融資制度は「中川構想」とも呼ばれています。
この「中川構想」に基づく制度は各国から高い評価を受け、実際に救済された国があります。ウクライナ、ベラルーシ、パキスタンが、緊急融資を受けることで救済されたのです。
そして、2009年2月13日。中川昭一氏(当時、財務・金融相)は日本政府が表明していたIMF)へ1000億ドルの融資を実施する合意文書に正式に署名しました。1000億ドルは、日本円にして約9兆2000億円です。
これがまさしく例の記者会見が話題となったG7での出来事。結局、会見時での様子ばかりが報道され、肝心のG7で何が行われたのかがあまり報道されていませんでした。しかしこの時、中川昭一氏はとてつもない国際的貢献をしていたのです。
このIMFへの融資というのは、簡単に言えばIMFが経済危機に陥った国への支援を後押しするのもの。これだと、国が多額のお金を国家予算から寄付したと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、厳密にはそうではありません。
中川昭一氏は、IMFに対し「日本は、自国の外貨準備(米国債)を使って、IMFに融資する用意がある」と通達しました。一方、当時の首相・麻生太郎氏は「IMFが市場で資金調達をするための担保として米国債を提供し、日本政府は財政負担なしに利益だけを得られる」と説明しています。
これは、米国債をIMFに貸し付けたということ。つまり、融資をしたのは9兆2000億円ではなくあくまで1000億ドルということです。
このIMFへの融資に対し、IMFのストロスカーン専務理事は「人類の歴史上、最大の貢献だ」と称賛。しかし、この部分もきちんと報道されないまま、結局辞任へ追い込まれました。
ですが、後にアジア経済研究所・国宗浩三氏は、「G7以降、日本の提案を受けて いくつもの改革がIMFで実現した」と当時の麻生政権を評価していました。そして、「これには担当した財務官僚や当時財務大臣の 中川昭一さんの功績があったことと思います」とも発言。
辞任以降に取り上げたものの、結局在任時は会見ばかりが話題となってしまった中川昭一氏。ですが、彼はIMFへ融資をしたことで、IMFの改革実現に海外への支援を日本の財政負担なしに実現させたのです
………………
gjt********さん
2010/9/2 0:09
中川昭一さんが死んだ次の日に
IMFナンバー2に昇進した
酩酊会見を中止したり、
不調の中川さんに代わって会見したり
会見をサポート出来る立場にいた
中川さんのとなりにいた役人って誰でしたっけ?
ベストアンサー
koh********さん
2010/9/2 0:35
(会見当時)財務省の玉木林太郎国際局長と篠原尚之財務官です。
IMFの副専務理事に昇進したのが篠原で、篠原財務官の後任として財務官に昇進したのが玉木です。
玉木は、会見前に中川昭一さんにお酒の飲ませた読売新聞の越前屋知子記者と愛人関係にあったことで有名な人ですね。
……………
怖いですね。あの朦朧会見の舞台の裏では何が行われていたのか。今では財務省が自分らのやりたい方向に邪魔になる政治家の事をマスゴミにチクる。マスゴミが騒ぎ煽ってゴミ野党が乗っかるという構図を知ってしまってる、勘づいている人もいますけど当時は何も分からなかった。全く知らなかった。結局、安倍さんも執拗に嵌められたままでしたから。無念です。
当時は、「何で、へべれけになるまで飲むのよ」って感じだったんですがね、奴等の工作
で有能な方を喪失してしまった訳で・・・・・
あの10年、小坪さんのお陰で、脳裏にマザマザと蘇って来ました。有難う御座います。
当時は、未だ政(マツリゴト)に無知蒙昧の霧の中…「此の儘だと我國は亡国の憂き目に遭うんじゃ無いか?…」と焦燥感に身を焦がしていました。でも、『これをすれば良い。』という確証、或いは覚悟を決められず「何か方法は無いか?」と溺れるものは藁をも掴む、そういう焦りと絶望感の暗闇の中…
第二次安倍晋三政権誕生!政権奪回❗️一条の曙光が見えた瞬間でした。
その直後【小坪慎也】という【地方議員】を知る事になります。何と【福岡県行橋市の市議会議員】の分際(失礼!)で、地方議員の立場から國の政に奔走しているではありませんか⁉️
『な!地方議員でもやれば此処まで出来るんだよ!』とニヤリと笑っていましたね。
此処から、真面目に【政】を考え始めたのです。そして、蔑ろにして来た【地方政治】が、我々國民にとって如何に大事か!目を見開がされたのです。
そして今、地元の代議士や市議会議員に定期的に連絡する議員がいます。
横になりますが
吉羽美華容疑者一味・・・・ダメだねこれは