【地方議員の在り方】例えば、そう、駆逐艦涼月のように。自らその身を沈めた、戦後発展のために。

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駆逐艦涼月をご存知だろうか。いまも戦後日本の復興を、その身をもって支えた艦だ。本来ならば武勲艦として保存されてしかるべきなのだけど、いまは海に自らその身を沈める。

大和特攻、戦艦ばかりが注目を集めるが随伴した駆逐艦たちもいた。
多くは航空攻撃の前に撃沈されてしまうのだけど、満身創痍であっても必死に内地まで帰還した艦船も少数ながらいる。涼月もその中の一隻で、満身創痍のレベルは単なる”漢字”では表しきれない。

船としてはすでに致命的なまでの傷を負っていた。水密区画を閉ざして沈むことを避けようとしたのだけれども、それらの水密区間は内側より閉じられていた。ドアの隙間という隙間を内側から。つまり、その内側にいた水兵は帰らぬ人となる。

呉軍港ではなかったか。一隻も帰ってはこないだろうと、誰もが諦めたときズタボロの駆逐艦が戻ってきた。ドックに収容された瞬間、ほっとするように沈降を開始。戦後、ある程度は修復され、復員などにも従事したようだ。

我が国に貢献した、戦後に残す艦船だった。いまは北九州の海に沈む。
戦後なにもなかった、日本には。経済発展のため港を強化する必要があったんだ。しかし資材がない。涼月は、その身にコンクリや石をつめて自沈、それが軍艦防波堤。

ただでは沈まない、どれだけ傷を負っても帰ってくる、
何度でも立ち上がる、最後には我が国のため、これからのために。

私の後援会の名前は、”涼月会”です。

 

すごく古いweb小説を紹介します。

 

 

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[web小説]沈まざる月 ~駆逐艦『涼月』~

以下、個人的に好きなweb小説。
初出は相当に古いと思います。

これを読んで、もっと涼月が好きになりました。
”もしも船に心があったなら”、”人格があって、水兵と語ることができたなら”という架空の話です。

けれども、きっとそうだったんだと思う。
私という人間を理解してもらうには、きっとこれを読んでもらうのが最も良いと思うんだ。

 

沈まざる月 ~駆逐艦『涼月』~

 

 昭和二十年四月五日、夜。瀬戸内海、柱島泊地。

 この日、日本海軍の中枢である同地では一つの艦隊が密かに出撃の準備を進めていた。

 第一遊撃部隊――それが、その艦隊に与えられた名前だった。第二艦隊独立旗艦、戦艦『大和』を中核とし、軽巡洋艦『矢矧』率いる第二水雷戦隊を加えた、総勢十隻の艦隊である。

 その中の一隻、駆逐艦『涼月』は、日暮れ頃から始まった給油作業を終え、ようやく一息ついたところだった。

 駆逐艦『涼月』は昭和十七年から続々と竣工しだした秋月型駆逐艦の三番艦で、基準排水量は二千七百トン。全長一三二メートル、全幅十一メートルと、他の駆逐艦より一回り大きい艦体に、対空射撃に優れる六五口径十センチ高角砲を八門装備する、防空用の駆逐艦だ。

 月明かりの中に浮かぶ『涼月』の艦影は、駆逐艦とは思えぬほど端正で、遠目には巡洋艦のように見える。実際、艦の前後に砲塔を二基ずつ配した艦容は巡洋艦的であり、前線で秋月型を目にした敵の潜水艦は、しばしば小型軽巡洋艦の『夕張』と誤認していた。

(続きはリンク先で。)

 

 

 

 

例えば、涼月のように。

洞海湾を、いまも見つめる。

ちなみに涼月は、いまも”見る”ことはできる。
そして”触れる”こともできるはずだ。

もう随分になるけれども、北九州市議の協力も得て会いに行った。
当時は現地まで入ることができて、その他の”軍艦防波堤”とともに実際に上を歩くこともできた。

簡単にだけれども説明板もあった。

 

かつて、”駆逐艦だったモノ”に触れて、大きいから抱きしめることなんてできないんだけれど、ずっとずって撫でて、お疲れ様でしたと言って、

ちょっとだけ泣いてしまった。
高かった日が傾き、夕刻になってオレンジ、やがて暗くなるまで。
涼月たちの上から、工業団体の明かりが輝くようになるまで。

あぁ、この子たちはずっとこの景色を見ているんだ、きっと誇らしく見ているのだろうと思って、
そしてやっと立てて、私は歩き始めたんだよ。

 

だから私はきっと諦めることなんてしないし、
どんなに不利な条件下であっても生き残ってきて、そして終わるときは自らで決めると思う。自決。
死にたいときに、その価値を見出した時、自らで。

あの日、歩き出してしまったから。
いまほど老獪さはなく、若かっただけの青臭かった私は、
きっと決然とした表情で、少し大人びた顔で、あの防波堤の上から歩いてきたから。

・・・約束したから。

 

 

 

戦後に託されたもの

分からない、私には分からない。
そんな大言壮語も吐けないし、大所高所にたった議論は”偉い人”がやればいい。

私は二等兵みたいな生き方をしてきて、たまにシモヘイヘみたいな例えもされるけどさ、目線が下士官なんだ。
たぶん大本営付きみたいな立場になれることは否定もしないし、自覚もあるけれど、ここが好きなんだ。

駆逐艦として最前線を駆ける。
水雷戦隊の指揮をとる。

 

だから戦後に託されたものなんて分からない。
きっと涼月も、あの子たちも分からなかったと思う、
ただただ心のまま、目の前の戦いをこなしただけというのが実態だと思ってる。

いんだよ、それで。
私もそう生きようと思う。

 

だから、
「戦後日本に託されたもの」なんていう、でかい部分なんて私は分からなくても、
それでも私は走れるから、それでいい。

海の上、全力で突っ走ったら気持ちいいと思うよ。
それでいい。

 

保守として。
保守は保守でも「システム保守」として。
制度設計の疲労を質し、常に改善に。

迫りくる危機に対して、そう、例えば防空駆逐艦のようにね。

 

天守閣は美しいだろうさ、誰しも目をひく。
その下には、がっちりした石垣があるんだけど、その石垣の美しさを大切にしたいタイプ。

弩級戦艦は凄いだろうさ、重巡にも憧れはする。
けど、随伴する駆逐艦もいいもんさね、
だって「もっとも最前線で戦える」からね。

 

 

後衛なんてまっぴらとは言わないけれど、
内地勤務は好きじゃない。

これ以上、良い船に乗り換える気もない。
私はここが好き、そして駆逐艦のまま成果が出せれば何の問題もないだろう?

 

 

 

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コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)

  1. 中島 より:

    その通りです。見栄えはいいでしょうがその下にいる物ほど見栄えの良い物を支えています。殿様より軍師が好きです。大和も凄いとは思いますが戦艦を支えている駆逐艦などがどちらかと言うと好きです。その当時、艦種によって食事とか違うなどの話しは聞きますので一概に言えませんが。

  2. 神無月 より:

    少し泣いちゃいましたね。

    明石拓海少尉と艦魂の涼月とのやり取りに、小説ながら戦争とは戦いとは人生とはを考えてしまいました。
    少尉が下戸なところは小坪市議と同じで、イメージは、小坪慎也少尉と涼月・・・

    帰還出来たのは、戦闘能力の不能と沈没一歩手前の大破の状況を米軍が見て、再攻撃が無かったから?

    読み終えて、靖国神社遊就館に入った時の重苦しい空気と、遺されている英霊の想いを思い出しました。

    米軍の兵士も、当時の戦争屋に利用されて愛国で戦っていたのですから・・・

    歴史に学び、時代の変化に追従した修正や改革を、急速に求められる時代に入っていると思います。

    一昔前なら10年かかる時代の変化が、今では数年で変わってしまうようなスピードですから、政治も後手後手になる事は仕方がないのかも知れません。

    後手のしわ寄せは、真面目な国民に大きくのしかかり、真面目さ故に、溜めている不満が爆発すると・・・
    .

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