初代天皇である神武天皇の即位日をもって定めた祝日であったが、GHQにより廃止された。
旧暦では、この日が1月1日。
今日が、元旦であったのだ。まさに国の始まった日。
サンフランシスコ講和条約において、我が国が一部の主権を回復してのち、国民世論のうねりにより「建国記念の日」として国民の祝日となる。本日2月11日は、建国記念の日でありました。
そして奪われた「紀元節」という言葉を取り戻すべく、誓いを新たにする日であると存じます。
※ 正しくは「建国記念の日」とされておりますが、私人としては「の」は抜きたいというのが本心です。
その理由も書いておきます。「建国記念日」は、自民党により9回も提出、第一党であった社会党の反対で廃案。採決に踏み切った際には、体当たりを受け委員長が入院。社会党を納得させるため、譲歩して「の」をつけたという経緯があるためです。ご指摘も何点かありましたが、私は、のをつけたくないんだよ。
どのような時代に廃止され、18年の歳月を戦い「建国記念の日」となるまでの経緯を詳しく書いておきます。
※ 日本Blog村の登録もしてみました。二つのバナーのクリックをお願いします。
↓今日は何位でしょう?読み進む前にチェック。↓
↓記事が気に入ったらFBのイイネ・ツイート等もお願いします。↓
バナーが表示されない方は、こちらをクリック願いします。
明治6年(1873年)に定められた、かつての祝祭日の四大節の一つ。
(※四大節(しだいせつ) 四方節、紀元節、天長節、明治節)
2月11日の日付は、旧暦の1月1日であり、明治に入り新暦に換算したもの。
西暦よりも皇紀が長いことに嫉妬したためではなかろうか。
少し前後のことを付記する。
終戦が昭和20年(1945年)のこと。
昭和20年(1945年)
9月29日、内務省による検閲制度を廃止。
同年、10月9日、朝日・毎日・読売など在京5紙に対して事前検閲開始。
10月10日、徳田球一ら共産党員などの政治犯が釈放。
10月20日、日本共産党が機関紙「赤旗」を再刊。
10月31日、軍国主義を唱える教員の追放。
昭和21年(1946年)
1月1日、天皇神格否定、人間宣言。
1月29日、行政区が北海道、本州、四国、九州及びその付属当初と対馬、大隈諸島までとなる。
2月1日、英連邦軍、日本への進駐を開始。
2月20日、ソ連が、樺太・千島の領有を宣言。
2月26日、極東委員会発足。
3月5日、第一次アメリカ教育使節団来日。
同日、チャーチルが鉄のカーテン発言を行い、冷戦が始まる。
4月4日、2?300人の米兵が中村病院に乱入し、約100人の妊婦や看護婦を強姦。産まれたばかりの子供も殺害された。
4月29日、天皇誕生日にA級戦犯29名を起訴。
5月22日、吉田茂内閣、発足。
7月1日、アメリカがビキニ環礁で4基目の原子爆弾を実験爆発。
11月3日、日本国憲法公布。
昭和22年(1947年)
5月2日、外国人登録令により、朝鮮人・台湾人などが日本籍を取り消され、外国人になる。
5月3日、日本国憲法施行。
8月15日、インドがイギリスから独立。
昭和23年(1948年)
1月4日、ビルマがイギリス連邦を離脱し独立宣言。
4月、【祝祭日のみ、日章旗の掲揚を許可】
8月15日、大韓民国成立。
昭和23年、紀元節はGHQにより廃止されました。
続けて読むと、これがどういう意味であったか、よくわかると思います。
実は、暦の長さとは世界的には凄まじい評価を受けるものである。
これは事実なのですが、なぜなのか?を考えてみました。
少し乱暴な解説であり、私見も多分に入っているが、ようは「治世の素晴らしさを示すバロメーター」であり、「国家としての威厳と比例」するもの。
暦の長さとは、男系遺伝子が何代に渡って紡がれたかという話になる。
他の制度もあるが、「その政治体制が何度の代替わりを行ったか」だ。
政治体制が継承されず、バトンタッチができなかった、と言ってもいいでしょう。
滅びたらどうなるか。
世界を見渡すに、ほとんどが大陸の国家です。
CHINAのみならず欧州を含め、特に大陸の場合、国が滅ぼされれば皆殺しである。
特に男は集中的に殺される。
後で攻め込まれても面倒なことになるし、特に王族の血縁者は徹底的に殺す。
女性がどうなるは余り書きたくないが、シンプルに言えば孕ませる。
血を混ぜるというか、今で言う民族浄化だ。
その国以外の者と性行させられ、違う国の子を出産させられる。(もしくはまさに奴隷となる。)
その意味を考えて頂きたい。
やや失礼な表現もあるかと思うが、世界各国で「自国のルール」はある。
ローマ法王やダライラマ法王の継承方法など異なる例もあるが、男系DNAの継承は世界的に見ても「一般的なルール」であると思う。
どのような制度でも構わないが、これと決めたルールが継続することを、世界はどう見るか。
「きっと凄まじく素晴らしい治世なのだろう」
「なんと強い国なのだ」
かなり荒っぽい説明だが、暦が続くことを
世界は重視している。
皇紀のほうが、西暦よりも長い。
だから紀元節は廃止されたのではないか。
これは私の私見である。
紀元節復活に向けた動きは、昭和26年(1951年)頃から見られるそうだ。
しかし、当時野党第1党の日本社会党が保守政党の反動的行為であるとして反対、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となる。
昭和38年(1963年)6月20日、委員長が法案の強行採決を行うが、社会党議員らに体当たりされ入院するという一幕も。
“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。
昭和41年(1966年)6月25日、建国記念の日として祝日法改正案は成立。
「の」は、いらないと言いたい。
法令順守義務のある議員としては、「の」付けるべきなのだろうが、私人としては「の」は飛ばしたい。
冒頭では注釈を書いてはいるが、私の心の中には「の」はない。
そのことは、はっきり言わせて頂く。
18年の歳月を掛け、先人たちは取り戻した。
「の」がついているが、努力の結晶である。
現代の日本に生きる、私たちは。
紀元節を忘れていていいのだろうか。
偉そうに書いているが、私は紀元節を知らない。
私が生まれたのは昭和53年のこと。
知ってるわけがない。
この日が、紀元節であった時代を、私は知らぬ。
正直に言うと、わからない。
例年のことなので、動画とかを見て「なんとなく耳には残る」ようになったけれど、私はこの歌を合唱したことがない。
この歌の重みは、私は、わからない。
だけど、とても大切なものなのだと思う。
終戦、GHQの統治、サンフランシスコ講和条約。
米ソ冷戦、様々なものを経て、やっと成立した建国記念の日。
私たちの時代が取り戻すべきなのは、
建国記念日ではなく、紀元節という言葉と記憶なのだろう。
漠然とそのようなことを例年、思う。
古事記や日本書紀)
歴史的な裏付けがないと、ロマンに欠ける学者目線の非難が相次いでいた。例えば神武天皇の古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存とされている点などが指摘されている。
しかし、一年に二回の稲作を行っていたことで、二回数えていた可能性があり、半分にすると辻褄が合う話が多々あるという指摘も出てきた。その場合は、(西暦換算だと)一部の時代は半分にせざるを得ないけれど、時代考証ともバッティングしなくなる。
史実ではないという批判を行う者がいるが、神話にそのようなものは必要ないというのが私のスタンスだ。聖書に時代考証で難癖をつけるぐらいおかしな話であろう。
自国の始まりを、次に世代に伝えることができぬことは、
それはとても悲しいこと。
GHQにより紀元節は廃止。
18年の歳月をかけ「建国記念の日」として復活。
自民党より9回の提出、第一党であった社会党により廃案。
採決に踏み切った際には委員長が体当たりを受け入院。
妥協策として「の」を入れたのが、この日です。
今日は、言葉狩りにあった「紀元節を取り戻す」と誓いを新たにする日。
「自国の始まりを教えられないことは、とても悲しいこと」と思った方は、FBでのイイネ・シェア、X(旧Twitter)での拡散をお願いします。
一歩、前に出る勇気。
↓応援クリックお願いします。↓
↓今日は何位でしょう?読み進む前にチェック。↓
↓記事が気に入ったらFBのイイネ・ツイート等もお願いします。↓
バナーが表示されない方は、こちらをクリック願いします。(同じものです。リンクURLを修正しました。)
コメント (頂いたご意見は、他SNSに比較し最優先で目を通しております。)
岸田さんについていっていいんですか? 誹謗中傷の件は、法律で言う「対抗要件」がないと暴走します。暇空茜さんレベルを求めるつもりはありませんが、集合知をもっと参考して下さい。
**********************************************************************
共産党は2016年9月13日からの警告を無視し続けましたね。
ならば、下記は決定事項と承諾したものと見做します。
・『テロを利用する共産党』
・『テロリストの味方である共産党』
・『テロに屈する共産党』
**********************************************************************
前後に規模は異なりますが戦乱を挟んで居りますので、その余韻の残る間は少々意識が異なるでしょうが、天下泰平の続いた江戸時代は約260年間程続きました。
この期間、時が立つに連れ戦力としての武士は余剰人員と化して行き、学術分野、兎角経済に強い者が重用される方向に傾いて行きます。
所謂、平和ボケが浸透してしまった訳です。
幸か不幸かこの平和ボケを一番享受して居たのは、同時人口の10%弱の武士を除くその他の層であり、実に人口の90%は、200年以上平和ボケにドップリと浸かって居た訳です。
幕末に至り次第に天下泰平の夢から目覚めざるを得ない状況に成りましたが、この頃に武闘派として頭角を現した新撰組は知らない人は居無いでしょう。
この新撰組は、甲州方面からの江戸侵攻の防衛隊として八王子に駐屯させられた八王子千人同心と密接な関係にある事も有名です。
八王子千人同心は、最終的には同心頭10名に同心が100名と言う編成に落着きますが、江戸期の武士と言えば所領安堵され知行地で農業経営し生計を立てるか、俸禄として扶持米の支給を受ける中で、同心頭こそ旗本格として知行地が与えられて居たものの、配下の同心は幕府から幾分かの手当こそ支給されて居ましたが、基本的に農業で生計を維持して居り、年貢も納める立場にありました。
一応、武士としての面目を保つ役割として日光東照宮の防火・警備の任務が各隊交代制でありましたが、それでも長らくの間、同心は百姓としての職を重視させられる状況が続きました。
このほぼ百姓であった八王子千人同心の末裔が、幕末で武士としていかん無く実力を発揮しました。
時は明治に移り変り軍の再編が強行され、軍人は武家では無くなり兵員は当然の事、指令官以上の将校ですら家柄に寄らなく成りました。
その家柄に寄らぬ軍に於いて、当初その多くが武家出身以外で構成されて居た為、上層部は実戦での兵の士気をかなり心配した様ですが、実際の本格的戦争であった日清戦争に於ける将兵の働きは、家柄など関係無い事を証明したと言えるでしょう。
【日清戦争】明治の発禁本!当時の海戦の様子を生々しく記録した「黄海海戦ニ於ケル松島艦内ノ状況」を現代語訳してご紹介
https://youtu.be/ysrorTnwmB8?si=2WYMq55aSbSsxw-r&t=135
戦前と比べ我々は随分と軟弱に成った事は認めざるを得ないでしょう。
ですが、先人達の奮闘を振り返るに、希望はあるだろうと感じて居ます。
紀元節、自らの目で復活を遂げる日を迎える事が出来るのか、或いは子や孫の世代がその日を迎えるのかは不明ですが、幾度もの平和ボケを乗越えて来た民族ですから、種蒔きさえ怠らなければ何れ花咲く日が訪れるのではないでしょうか。
全くその通りです。