サヨクの伝統的主張テンノーセーハンタイ

[病理:反日プロパ]

 自分をサヨクと分類されるのを嫌がるサヨクもいる。しかし、そういった連中も結局テンノーセーハンタイなどという最も伝統的なサヨク思想を支持していることを露呈し馬脚を現す。我々国民はこの馬脚に注目していればいい。

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1 皇室の価値をサヨクが理解できない理由

 皇室がとてつもなく重要な存在だとうことを理解するには、ほとんど努力を要さない。いくぶんかの教養があればいい。それはいかなる様式の教養でもいい。文学、詩、戯曲、小説、絵画、服飾装飾、髪型、料理、建築、工芸、武道や格闘技、音楽、舞踏、演劇、宗教、神事司祭、政治など何でもいい。とにかくなんらかの日本の文化へのいくぶんかの教養があれば、いとも簡単に皇室の重要性が解る。
しかし現在、こういった文化に恐ろしく無教養な人間が増えている。そして更に無教養な人間の中でも、自らの無教養さを認識できない人間もいる。すなわち、西欧のナニガシカのエライ人の口移しができることもって、自らを教養人だと勘違いする人間である。
そういった無教養の権化の癖して、自らを教養人だと勘違いした馬鹿の中から、テンノーセーハンタイを連呼するサヨクが生まれる。

 ちなみに、筆者は世の中の人間全てが教養豊かである必要などないと考える。無教養な人間はいてもいっこうに構わない。無教養な人間にも、善良で勤勉な人は沢山いる。
落語に出てくる熊さん八っつあんとサヨクは、双方無教養である。ただ両者には明らかな違いがある。
落語に出てくる熊さん八っつあんは、自らが無教養であることを知っている。そこが賢い。平凡な職人である自分をわきまえているのだ。自らが無教養であることを認識できているなら、その人はある意味、教養のある人に他ならない。
逆にサヨクは圧倒的に無知無教養な人間のくせして、サヨク史観をベンキョーすることにより自分を意識の高い偉い人などと勘違いしている。明治維新以前については、音楽の曲名を一曲も知らず、古事記や源氏物語や平家物語の内容も知らず、和歌のいくつかも知らず、能楽の謡をただの一つも知らず、着物の着方も知らず、武道の心得も無く、作法の心得も無いためひたすら所作が醜く無礼な人間。知っていること(というより刷り込まれたこと)といえば、「テンノーはセンソーをして人を沢山殺しましたー」とかボケた歴史観のみだ。
つまり、サヨクは馬鹿の癖して、自分が馬鹿であることを分かっていない救いがたい馬鹿なのだ。

余談:教養とは何か [執筆日:H12/2/8][病理:虚勢癖] 筆者はさんざんサヨクを無教養とか毒づいているが、はたして教養とは何か。サヨクが思い込みがちな「教養」と、日本人にとって伝統的な意味からの教養を以下に記す。

1: サヨクが思い込みがちな「教養」とは

サヨクが「教養」と思い込みがちなモノを以下に列記する。

@ 西欧のナニガシカのエライヒトが記した晦渋な用語や言い回しの知識
@ 外国語の知識
@ 外国の情勢やマス情報の知識

サヨクはこれらを「教養」と信じる場合が多い。そしてこれらの知識を大量に口移すことのできる人間(つまり、それにより自分を過大評価させる能力に長じた人間)を「教養人」と考える場合が多い。特にこういった「教養」に秀でた人間の中には、テレビや著作物で日本人や日本社会や日本政府を相手に、西欧人になりきって高飛車に説教する者もいる。「おそ松くん」に登場する、おフランス帰りを自慢する「イヤミ」のようなキャラだ。「シェー、チミたち遅れてるザンスねえ。おフランスでは..」  その「教養人」はおおむね年長者にタメ口で(ホーケンテキな考えにシバラれていないから)、初対面の相手に足を組みながら「あんた、○なんだからさあ。」「おたくねえ」などとあきれ顔で首をすくめて話す。
これに下級サヨクは「かっこいいなあ」などと思う。

とはいえこういった俗物はサヨクに限らず多い。知識自慢の俗物君はあらゆる場所にいる。これはグッチやアルマーニを身につけることで虚栄心を満たす女と同じだ。グッチやアルマーニの代わりに西欧系の知識を身につけて虚栄心を満たしているというだけの話だ。空虚だがおおむね害は少ない。
しかしながらサヨクとはこういった数ある俗物のうち、占領政策と冷戦により腐ってしまった種族なので有害極まりないのだ。

2: 真の教養とは

教養とは豊かな品性品格を生み出す素養だ。日本には豊かな品性品格を身につけることのできる様々な教養がある。以下のような。

@ 茶道:他人をもてなし見苦しくない所作を行うための心構え
@ 華道:他人に華やいだ場をもたらすための心構え
@ 和歌:他人に美しい言葉を発するための心構え
@ 武道:他人や自らを理不尽な暴力から守るための心構え
@ 神道:神(=祖先や自然。つまり他者)を尊び敬う人となるための心構え

つまり他人とより誠実に接するための心構えが教養なのだ。その心構えを、より完全に緻密に身につけた人間を教養人という。これらの心構えを身につければ、なんら知識自慢で虚勢を張らなくとも品性品格がにじみ出て人を和ませる。

人は誠実であればそれで人として十分だ。その点を直接鍛練する発想に立ったこれらの文化は、あまりに高度で偉大である。こういった文化は外国では見られない種類のものだ。人と誠実に接する技術が一つの文化となっているなど、外国での例を知らない。これらを軽んじてきた明治維新後以降特に戦後という時代を、実に残念に思う。誠意とか礼儀とかへったくれもない利害の権化である支那とか西欧の蛮族による侵略の危機にあっては、これらを捨てざる得なかったのは事実だが。

ちなみに筆者は到底教養人などと言える人間ではない。筆者はそんじょそこらの下品なあんちゃんだ。ただ、下級サヨクが崇拝する「教養人」がただのニセモノであることを知っている。かつ真の教養人がもつ品性を感じ取れないほど愚鈍でもない。かつ真の教養人がもつ品性品格を妬み、自分並みのレベルに貶めようとするほど卑小ではない。という程度の人間に過ぎない。

2 サヨクの存在が証明する皇室の重要さ

 皇室は異様な価値観の組織による独裁体制の台頭を阻止する。
異様な組織とは、自分たちを世間の中心にすえ、世間はみな意識の低い馬鹿であり、自分たち(あるいは組織の指導者、あるいは組織の教えや主義主張)のみが正しいと考える組織である。そういった組織は、おうおうにテロリズムに走る。意識の低い馬鹿など別に死んでもいいと考えるのだ。具体的には、サヨクとかオウムなどである。
ただ、幸いなことにオウムは選挙で落選し、社民党も圧倒的に議席を減らした(共産党が台頭しているのは不気味だが)。特に社民党の凋落は著しい。戦後一貫して教育、マスコミ共に社会主義の犯罪を隠蔽し、サヨクの主張を事ある毎にプロパカンダしてきたにもかかわらずである。
なぜ、こうなるのか。

(1)思い上がればテンノーセーハンタイ

 自分たちを世間の中心にすえ、世間はみな意識の低い馬鹿であり、自分たち(あるいは組織の指導者、あるいは組織の教えや主義主張)のみが正しいと考える組織は、テンノセーハンタイに陥る。皇室は、自分たち以外の権威だからである。唯一正しいのが、自分たち(あるいは組織の指導者、あるいは組織の教えや主義主張)と考えるなら、テンノーセーハンタイは、当然の帰えつである。むしろ、自分たちが信奉する権威以外の権威は、憎しみの対象となるのみだろう。自分たちが信奉する権威が相対化され、場合によっては貶められる危険性さえあるからだ。
これらの結果、サヨクもオウムもテンノーセーハンタイになる。

 ただ、サヨクの場合オウムより更に醜怪である。サヨクはオウムより、更に情熱を込めてテンノーセーハンタイを訴える。これはサヨクの本質的な目的「他人を困らせたり悲しませたりして楽しむこと」に起因する。
サヨクによるテンノーセーハンタイにより、皇室を大切にする多くの日本人を悲しませることができる。これこそサヨクの目的なのだ。サヨクは、皇室を大切にする多くの日本人が嘆き悲しみだすと、「ケシシ、怒っとる怒っとる、悲しんどる悲しんどる。オモシレー。」と、楽しそうにおおはしゃぎする。特に、皇室を守るために(つまりは日本を守るため)大東亜戦争を戦い、数知れぬ戦友を失った元日本軍兵士の無念は計り知れない。これにもサヨクは、「うひゃひゃ、じじいが嘆いとる嘆いとる、悲しんどる悲しんどる。オモシレー。」という具合だ。
つまり、他人が嘆き悲しむ有り様を楽しむために、他人の親に怪我をさせたり殺したりする鬼畜同様なのだ。

(2)テンノーセーはジンケンシンガイの馬鹿馬鹿しさ

 むろん、サヨクの中にはあたかも皇室に同情しているかのようなふりをし、テンノーセーはジンケンシンガイと主張する人間もいる。
ばかげた意見だ。世界人口五十億人の中で皇室のみの人権に執着するところが既に偽物なのだ。身内に皇族がいるなら別だが。こういう連中は、おおむね今現在も存在する支那における莫大な人権侵害には、やたら無頓着だ。支那人は、北京の社会主義政府からどんなに人権が侵害されてもいいと考えているのだろうか。支那政府による莫大な人権侵害を不当と思うなら、ぜひとも支那大使館にでも抗議に向かってもらいたいものだ。
まあ、抗議に行くわけない。サヨクの人権論など偽装であり、サヨクにとり支那政府に弾圧される支那人の人権などどうでもいいからだ。テンノーセーハンタイが本音であり、そして多くの人々を悲しませて楽しむことが本音なのだから。

(3)テンノーセーハンタイが生み出す大衆の乖離

 昭和天皇が崩御されるまえ、ご病気になられた時、誰も予想できなかった驚くべきことがおきた。大勢の女子高生がお見舞い記帳に訪れたのだ。さんざん、サヨク史観の授業を受けて育ってきたにもかかわらずである。
大衆は皇室を支持している。
それはなんら今も変わることはない。サヨクのおっさんは、何とかテンノーセーは時代遅れというイメージ造りに懸命だったが。皇室のように日本歴史以前から千年以上にわたる存在は、新しいとか古いとかいうレベルなど超越している。むしろ、ソ連、東欧は崩壊し、北朝鮮は飢餓国家となり、時代遅れなのはサヨク思想になった。

 ある意味、サヨクがテンノセーハンタイを主張している限り国民は安心していられよう。テンノーセーハンタイという主張自体、大衆は支持しないからだ。よって、付帯する様々なサヨクの主張も支持されないことになる。
民衆はサヨクの予想より遥かに賢い。サヨクの醜怪な悪意など、筆者が指摘するまでもなく、とっくにお見とおしなのだ。というより、サヨクが人一倍馬鹿すぎるのだが。というか、人一倍馬鹿だからサヨクになったと言うべきか。

3 総括 [執筆日:H12/3/24]

 かつて旧ソ連チェルノブイリで原子力発電所の事故があった。全ヨーロッパを汚染し、多くの死者や放射線障害の患者を出した。彼らもまた、社会主義の犠牲者である。その時、「原子力の恐ろしさを知らしめることができたという点で、この原子力発電所の事故は意義があった。」などという阿呆が、旧ソ連にいた。(旧ソ連にシンパシーを感じていた日本のサヨクにも、きっとこういう言い草に賛同する阿呆はいたんだろうなあ。)
こういう、泥棒の三分の理を過大評価する阿呆になりきってみると、サヨクにも意義があると言う論法もありうる。それは、どのような意義か。

 サヨクは、

1:大衆意識から逸脱し、自分たちの主張を絶対視する狂信集団(サヨクとかオウム)が現れる。

2:その集団は、絶対視している主張以外の権威を認めないため、テンノーセーハンタイになる。

3:大衆は皇室を支持しており、テンノーセーハンタイを支持しない。

4:その結果、大衆意識から逸脱し、自分たちの主張を絶対視する狂信集団の台頭は抑止される。

 という有り様を明瞭化させることに役立っている。

 つまり、皇室の重要性を明瞭にしてくれているのがサヨクなわけだ。無論、こういったサヨクの意義は原発事故程度の意義だが。
更にいえば、少なくともサヨクとかオウムのような存在があるかぎり、皇室は重要ということになる。大衆意識を逸脱した異様な独裁独善政治(もしくは宗教)組織が我が国を支配することを抑止するために。

 今後ともサヨクはテンノセーハンタイの呪縛から解き放たれることは無いだろう。それゆえ、大衆の支持は得ないだろうし、基本的には安心していいというわけだ。(だからこそサヨクはテンノーセーハンタイという主張をおうおうに隠そうとする。)
ただし、公立学校というサティアンでカルト思想を刷り込まれる子供たちが増えた時、きわめて危険な事体になる。今、まさにそうなりつつある。恐ろしいことだ。
サヨクカルトが支配するサティアンから子供たちを救い出さねばならない。既に我々の祖先を平気で毀損(ポア)する狂人が大量に生産されている。サヨクカルト教団日教組を、一刻も早く駆逐し、我々国民の手に教育をとり戻す必要がある。

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