[執筆日:H12/10/19][執筆対象:官公労][病理:職務怠慢]
文部省とサヨク教職員組合がタッグになって進めている、「ゆとり教育」なるものの結果、分数もできない経済学部大学生が生まれていることが指摘されている。おまけに今度は、現行のクラス内や学年内の試験の順列で成績を評価する方式=相対評価をやめ、教師自身の判断による評価=絶対評価にしようとしている。
サヨク教師怠慢願望と日本国民愚民化戦略が見事に合わさり、我が国の教育はとんでもない方向にひた走っている。
1 学生の価値を成績の善し悪しのみで決める者が相対評価ハンタイを主張する
クラス内や学年内の試験成績により順列を決め成績を評価する方式=相対評価に反対するかどうかは、学生の価値をどのようにとらえるかで決まる。
1:学生の価値は成績の善し悪しのみで決まるという前提
学生の価値は成績の善し悪しのみで決まる。人柄、学校の成績に反映されない芸術的能力、スポーツや遊びの才能、世間知などは人間の価値として評価するに値しない。
よって成績による順列ずけ(相対評価)は、人間の価値の順列ずけに他ならない。人間の価値の順列ずけは間違った行為であり、相対評価を行うべきでない。
2:学生の価値は成績の善し悪しのみで決まらないという前提
学生の価値は成績の善し悪しのみで決まらない。人柄、学校の成績に反映されない芸術的能力、スポーツや遊びの才能、世間知なども人間の価値として評価するに値する。
よって成績による順列ずけ(相対評価)は、人間の価値そのものの順列ずけになど直結しない。人間の価値の順列ずけが是であろうが非であろうが、なんら相対評価を行ってかまわない。
要するに学生の価値を成績の善し悪しのみで決める発想の持ち主が相対評価ハンタイを主張するわけだ。ただ、筆者のこの言い草に対してサヨクあたりは以下の反論を行う可能性がある。
「私自身は学生の価値は成績の善し悪しのみで決まらないと考える。しかしながら、ニホンシャカイには人間の価値を成績の善し悪しのみで決めるフーチョーが存在する。ニホンシャカイは、成績による順列ずけ(相対評価)は、人間の価値の順列ずけとみなす。人間の価値の順列ずけは間違った行為であり、相対評価を行うべきでない。」
「ニホンシャカイには人間の価値を成績の善し悪しのみで決めるフーチョーがある。」という前提がサヨク妄想である。人が人を評価するにあたって学校成績などで判断する例などまれだ。
人は人を評価する基準はさまざまである。職業上の能力、容姿、品性、度胸根性、ケンカの強弱、スポーツの能力、遊びの能力、財産の有無、権威や権力影響力の有無、大阪あたりではおもろいヤツかどうかなどだ。
学生時代の成績を自慢する大人など見たことががない。学生であっても対人関係において評価されるのは、たとえば上記のような内容だろう。
これに対して、サヨクの中には↓こういう主張をする人間もあろう。
「入学や入社や職業上の資格取得において、おうおうに学科試験が行われている。これは人間の価値を成績の善し悪しのみで決めるものだ。」
入学や入社や職業上の資格取得時に行われる学科試験は、特定の能力を推し量っているに過ぎない。人間そのものの価値など推し量っていない。
例えば司法試験に落ちる者は、人間としてダメかというとそうではない。こんなことは、あたりまえのことだろう。
そしてもちろん、入学や入社や職業上の資格取得時に全く能力を推し量って良い。四則演算すらできない者を数学科に入学させる必要はない。医学の知識を持たない者を医者にする必要もない。あたりまえだ。
要するに「成績を順列で評価する相対評価ハンタイ」とは、学校成績のみをもって人間を評価する発想の持ち主であるという自白に他ならないのだ。
筆者は学校成績のみをもって人間の価値を判断などしない。ある種どうでもいいものとすら考える。よって順列ずけされたところで一向にかまわない。
学校成績の順位を、鼻くそ飛ばし大会の順位程度のモノだと仮定してみればいい。そんなシロモノの順位などどうでもいい。どうでもいい順位などがを定義されたところで一向にかまわないはずだ。
筆者は学生時代の成績はかんばしくないモノだった。にもかかわらず成績を張り出す方が面白いのになあと考えていた。少年漫画などでの成績が張り出される有り様が実にうらやましかった。しかし現実には張り出されることなど無く、皆は点数を隠し会った。特に成績のいいものは妬まれぬために成績を隠した。
2 学業成績が人間の価値と無関係だからこそ学業成績の低さを叱責して良い
ただ言うまでもないことだが、教師は学生に対して学業成績の悪さを責めて良い。というか責めねばならない。それが学校という組織の目的であり、その組織の構成員である教師の職務だからだ。
「学業成績と人間評価とは同一でない」という前提。この前提に立てば、
同一でないから学業成績の悪さを責めて良い。
同一でないから順列づけて良い。
同一でないから学業成績の悪さの要因を、単純に人格的欠損に求めるのは間違い。
となるわけだ。
3 教師の怠慢を隠蔽するためのみに役立つ絶対評価制
サヨク教員諸君、はっきり言いたまえ。要するに↓こういうことだろう。
「成績を順列で評価する相対評価は、教員の能力までもが相対評価され無能や怠慢が明らかになるので嫌だ。」
担当している学生が相対評価されれば、成績の向上や下落が明らかとなる。学級担任その他の無能が白日の下にさらされる。だから相対評価は嫌なんだろう。
子供をダシに自分のエゴを押し通そうとする、毎度おなじみのやり口。胸が悪くなる。
4 学校や教師に教育サービス競争をさせるべき
何が「キョーソーシャカイハンタイ」だ。競争をするべきなのだ。特に学校や教師が。
より優れた教育サービスを行う競争。より納税者や父兄の需要を満たす競争。学校や教師間で、こういう競争を行うべきなのだ。というか、行わさせる制度が必要なのだ。
父兄の需要を無視しながら給料をがっぽり頂戴できるシステムだから、真剣に学びたい学生は熟に流れる。多くの学生が熟に流れている現状を、学校関係者は敗北と見るべきだ。
学校関係者に教育サービス競争を行わさせる制度とは、おおまかに以下二つである。
1:父兄が学校や教員を自由に選択できる制度
学校選択については東京都品川区などで既に発足している。教員も選べるようにするべきだ。もちろん人気の無い学校および教員は給料を減らされるべきだ。
2:選択するための情報提供を行う制度
選択をしようにも選択のための情報が無ければ選択などできない。入学前の父兄や在学中に父兄に対して以下の情報を開示するべきだ。
@ 学生の学力向上率や運動能力の向上率など教員や学校のあらゆる能力
@ 授業そのもの(父兄には授業参観をいつでも可能に)
@ 年間カリキュラム、教育委員会や学校が選択した教科書の内容
ようするに↑これを行えば全てが解決するのだ。
5 全く空虚な「受験戦争」なる言葉を使った煽り [執筆日:H13/6/7]
「ゆとり教育」なるものが導入された要因の一つが、公的媒体その他による「受験戦争」なる言葉を使った煽りである。「子供が過度な勉強をさせられ苦しめられている」的な言い草で社会問題にしたてあげた。
そもそも「受験戦争」なる言葉を使った煽りは、全く空虚なものだ。「受験戦争」なる言い草で社会問題視して煽る発想とは、例えばこういう有様だ。
勝手に好き好んで便壷にどっぷり漬かっている人間がいるとする。そして漬かりながら「ボクは便壷戦争の犠牲者だああ!こんなに臭い場所で苦しまなきゃならないボクは何て可愛そうなんだろう!」などと騒ぐ。また扇動趣味のある人間が「ううむ、彼は悲惨な便壷戦争の犠牲者だ。こんなに臭い場所で苦しんでいるのは深刻な社会問題だ。」などと騒ぐ。そういう連中に対する筆者のセリフは「出れば?」で終わりだ。
ある学生やその保護者の希望してある学校に受かろうと過度な勉強をする様を、「受験戦争」なる言葉で社会問題視するなど全く馬鹿げている。本人もしくは保護者が好き好んで選んだ道だろう。嫌ならやめて、過度な勉強をしなくとも入れる学校に入るか、そもそも入らずに就職すればいいだけの話だ。
こういう筆者の言い草に対して「日本には学歴が優位になるシャカイジョーキョーがある。これが『受験戦争』の要因であり問題だ。」と言う意見もあるだろう。確かに各種職場の採用において学歴が重視される場合がある。そういう価値観が気に入らないなら、放っておけと言う以外にない。
筆者も学歴のみを採用条件にする発想は馬鹿げていると思う。しかし、ある職場の人事担当者が何を価値観に採用しようが、はなはだ勝手だ。学歴を採用条件にしようが、タマキンの大きさを採用条件にしようが、容姿を採用条件にしようが、入社試験の結果を採用条件にしようが、全くもって自由だ。筆者はあまり学歴など重視しないが、他人が同様である必要はない。学歴を重視する人間や場があっていっこうにかまわない。世の中全てが筆者と同様の価値観であるべきなどと考えない。
ある職場の採用条件が気に入らないなら、別の職場を探せばいいだけの話だ。
また学歴など全く重視しない職場もある。例えば職人や自営業や軍人である。この職場には全く「受験戦争」などしなくとも就職できる。学歴重視が気に入らないなら、学歴を重視しない職場に務めればいいだけの話だ。ただそれだけで「受験戦争」は消滅する。
「受験戦争」なるものを社会問題視する発想は「低学歴の人間は不幸」と決め付ける思い上がった前提があって成り立つ。
仮に「低学歴の人間は不幸」という前提に立てば、何が何でも高学歴を目指す必要が確かに生じる。しかもその前提を自らのみならず万民に当てはめる者ならば、その者は万民の価値を学歴によって決めるだろう。その者にとっては、確かにそれは「受験戦争」なるものが存在する社会と言える。そしてその者は、出身校により自らや他者を「受験戦争」の敗者もしくは勝者と分類するだろう。
逆に「低学歴の人間だからと言って必ずしも不幸でない」という前提に立てば、別に何が何でも高学歴を目指す必要などない。幸不幸を学歴以外の所で判断する者なら。例えば「虚名の有無」、「財産の有無」、「容姿の美醜」、「生まれの貴賎」、「職業能力の高低」、「人柄の良し悪し」をもって幸不幸を判断するものにとっては、学歴などさして重要ではない。
世間一般は必ずしも学歴のみを価値の主体に置かない。後者のような様々な前提に立つ。よって「受験戦争」なるものは社会問題として認めない。
ようするに「受験戦争」なる言葉遊びは単にマスコミが煽っていただけのものなのだ。
「受験戦争」云々に関する筆者の結論はこうだ。
難関校に入りたいやつは勉強をしろ。過度な勉強をしたくないならするな。その結果は本人の身の上にふりかかる。いずれにせよ本人も保護者も好き好んで選んだ結果を安直に他人の責任にするな。
である。
6 「受験戦争」なる空虚な煽りに乗って進められる「ゆとり教育」
その全く空虚な「受験戦争」なる言葉を使った煽りに乗って、文部省は「ゆとり教育」なるものを推進している。言葉遊びに始まった嘘が、見事に現実世界に悪影響を及ぼした。
マスコミは、日本国民愚民化が目的で「受験戦争」なる言葉遊びを煽ったのだろうか。だとしたら、大成功といえよう。間違いなく「ゆとり教育」により、今後学生は更に愚民化するだろう。
文部省はこういった批判に対して、「ゆとり教育」は学ぶべき最低限度を示したものであり教師裁量により高度なことを教えることをなんら禁じないという主旨の指摘をしている。馬鹿げた指摘だ。そもそも教師の裁量を前提としている発想が異常なのだ。教師の自由な裁量を認めた結果が、現在の支那の政治宣伝を丸ごと教える異常な反日教育であり、膨大な怠慢サボタージュ教師の山なのだ。そういった狂態を更に行いやすくしてどうする。
この「ゆとり教育」は、教師のゆとりとなるかもしくは、更にサヨク教師に反日教育を行う余地を与える結果になるだろう。そして学ぶ意欲のある学生は益々塾に流れる。その結果学習の機会均等の原則は崩壊し、公教育は更に瓦解するだろう。
あるいはこれが目的なのか。