事象言語化能力の低いサヨクがハマる「日本民族存在しない論」というドツボ


[病理:事象言語化能力の欠如]

 サヨクが時折発する珍論の一つが「日本民族存在しない論」みたいなヤツだ。普通の人が聞くとナンじゃこりゃとカタまってしまう珍論。この種の珍論は、ものの程度を把握する感性の未発達さから出てくる。
おまけにその単なる未発達さから生じた勘違いを、あたかもスゲー大発見であるかのように思い込んで大威張りしている。

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1 事象言語化能力の低さが生み出す珍論の例

 事象言語化能力の低さから生じるサヨクにありがちな珍論を列記する。

珍論1:日本民族存在しない論

「日本民族ってなあに?昔から外国から多くの人たちが日本に来ているし、今も来ている。全然どこからが日本民族でどこからが日本民族なのかしら。さっぱり分からないよね。だから民族って存在しないんだね。」

 「日本民族」という言葉が示す範囲を認識する感性の欠如から生まれる珍論。
サヨクはおおむね日本民族に対してのみアンチ民族主義だ。支那や北朝鮮や韓国の差別主義的な民族主義の手先となって、アンチ日本民族主義活動に大忙し。漢民族による侵略民族主義と戦うチベット民族主義の封殺も大好きだ。
この屈折したアンチ日本民族主義と「モノの程度を認識する感性の欠如」が合体すると、往々に「日本民族存在しない論」に至る。

珍論2:普通と呼ぶべき事象は存在しない論

「普通って何?普通のことって思うことって、もしかしたら普通でないのかも。単にそう思っているだけかも。普通でないことって何だろう。さっぱり分からないよね。きっと普通のものって存在しないんだ。」

 「普通」という言葉が示す範囲を認識する感性の欠如から生まれる珍論。
サヨクは社会の異端ぶりを売り物にしているので、こういうセリフを愛する。しかしながらその実、サヨクは戦後占領政策と冷戦の正統後継者であり、ある意味もっともこの国で異端でない「普通」の存在である。この国で最も腐った部分から見た「普通」に過ぎないのだが。
いずれによ異端扱いに耐える覚悟のない自称異端者がこういうイイワケをする。

珍論3:男らしさ女らしさは存在しない論

「男らしいって何だろう。女らしいって何?こういう言葉で自分や他人を何かの枠組みに閉じ込めているのかも。もっと自由になろうよ。男らしさとか女らしさとかからさ。男らしさとか女らしさなんてものはないんだ。」

 「男らしいこと」「女らしいこと」を示す範囲を認識する感性の欠如から生まれる珍論。
サヨクの嫌らしいフェミニズムと「モノの程度を認識する感性の欠如」が融合することこうなる。サヨクのフェミニズムは女の投票率の高さや主婦層への「運動」への参加をもくろんだ結果だ。女をおだてて意のままに操ろうというわけだ。

 以上のどこが珍論なのか。それは

「言葉(事象を簡略化し抽象化したもの)を、抽象的であることを理由に『存在しない』と強弁している点」

 である。

2 そもそも言葉で表現される内容はすべて抽象的

 言葉とはそもそも事象を抽象化したものだ。事象を記号化し文字という図形の並びや音声パターンに置き換えたものだ。その結果当然のことながら、言葉とはそもそも示す範囲が不明瞭にならざるえない。

 例えばある人間の状態を表現するにあたって、「彼は本を読んでいる」と表現したとする。しかしここには、あらゆる情報が欠落している。「何ページをめくっているのか」「立っているのか座っているのか」「名前は何か」「指や腕や首や腰などはどのような方向と角度に曲がっているのか。」「各種臓器の動作状況」「全細胞の活動状況」「肉体を構成するすべての分子や更に原子の動き」などあらゆる情報が。そもそも事象とは完全に表現できないのだ。
そんな中で人は「彼は本を読んでいる」と表現する。あるいは「立ち読みをしている」という。あるいは「女を待っている」という。これでいいのである。言語表現とはそもそも抽象化(つまり示す範囲を簡略化して表現する)作業なのだ。

 上記1~3の珍論が珍論である理由は、言葉という事象を抽象化したもの(つまり示す範囲を不明瞭にしたもの)が抽象的(示す範囲を不明瞭)であることを理由に、その表現に該当するものが存在しないとのたまう馬鹿馬鹿しさにある。
そこにあるのは言葉とは何かを根本的に理解していない愚鈍だ。

3 「示す範囲が不明瞭→存在しない」論を応用すると

 以上の「示す範囲が不明瞭→存在しない」というサヨクにありがちな珍論を応用すれば↓こういう珍論も可能だ。

珍論4(筆者作成):土井タカ子存在しない論

 「土井タカ子は存在しません。だって考えてみて。土井タカ子って何なんでしょう。例えば土井タカ子が大便をしたとします。その大便は土井タカ子なのかしら。肛門を断面に外側に出たら土井タカ子でなくて、内側なら未だ土井タカ子なのかしら。それとも便器に落ちた段階でもそれは未だ土井タカ子なのかしら。食べ物は腸から吸収された時点で土井タカ子になり、腸の内部にあるなら未だ土井タカ子でないのかしら。あるいは土井タカ子って肉体そもものではなく、その考え方や意識を言うのかしら。なら、土井タカ子の腕を切り落とした場合、土井タカ子を切ったことにならないのかしら。全然土井タカ子を示す範囲が不明瞭だね。だから土井タカ子って存在しないんだ。」

4 事象言語化能力の低い者は文字情報(バーチャル情報)に頼る

 事象言語化能力の劣る者は、文字情報(事象をどこかの誰かが抽象化し文字化してくれた内容)を頼る。自分で目の前の事象を分析し抽象化(言語化)できない者が訳知り顔でシッタカをしたがる場合、誰かが抽象化し文字化してくれた内容を口写す以外にない。そして往々に新聞などのバーチャル情報を盲信し支那政府や西欧のナニガシカが記した文字情報の口移しを頻繁に発する。
一方、目の前の様々な事象を自分で判断し表現できるものは、必要以上に文字情報に頼る必要がない。自分で事象を抽象化(言語化)することができるのだから。

 誤解のないように記すが筆者は「事象言語化能力の低い者はダメ」と主張しているのではない。他人様の能力の無さをこき下ろすなど、外道のやることだ。筆者はそこまで思い上がってはいない。(例外:能力を磨く立場にある者=親や教育者、能力の結果への受益者=顧客、能力の結果に責任をとる立場にあるもの=上司。これらの人間は場合によって能力の欠如をこき下ろさねばならない。)
事象言語化能力の低い者が、自分の能力の低さすら認識できずにサヨク的な思い上がりを持つと往々に「日本民族存在しない論」のような珍論を発すると主張している。

5 事象言語化能力の低さは、モノの程度を把握する感性の鈍さから生じる

 サヨクが目の前の事象そのものを考察する能力に欠ける理由。それはモノの程度を把握する感性(=事象を抽象化して言語化する能力)が未発達だからだ。
人はさまざまな抽象的な認識をし言葉で表現する。その言語は「美しい」、「大きい」、「楽しい」、「まっすぐな」、「恐ろしい」、「生き生きとした」、「騒ぐ」、「喜ぶ」、「うごめく」、「お金持ち」、「苦労人」、「賢者」など様々だ。
これらの言葉を理解しまた発言するには、ものの程度を把握する感性が必要である。誰かを「賢者」と表現するにあたって何か明快な基準があるわけではない。「賢さ」をあらわす客観的な数値がありいくつ以上が賢者、いくつ以下が愚者などと決められているわけではない。上記の「日本民族」「普通」「男らしさ」「女らしさ」「土井タカ子」などの言葉も同様だ。
人々はこういった抽象的な言葉を使っているし使って良い。特に高い感性がなくとも、普通程度の感性があれば使うことはできる。多くの人々にはものの程度を把握する感性がある。
ところがサヨクはモノの程度を把握する感性の鈍いから、事象言語化能力が劣り、その結果「日本民族存在しない論」をさえずる結果となる。

 モノの程度を把握する感性が鈍いから、

@ 「ナンキンダイギャクサツ」と、原爆投下やホロコーストの信憑性を同一視できる。
@ 「中国への旅」や「レイプオブナンキン」など「ナンキンダイギャクサツ」を捏造した書物を、それの捏造ぶりを看破した書物より信憑性アリと思い込むことができる。
@ 日本の戦前における殺人銀行強盗政党共産党への特高警察による弾圧(犠牲者八十人前後)と、支那における弾圧(犠牲者数千万人)や旧ソ連における弾圧(犠牲者数千万人)を同一視できる。
@ 全アジア有色人種諸国の解放を目指して戦いかつ成功した大東亜戦争と、西欧列強による数百年以上に上る世界侵略を同一視できる。
@ 特定民族を数百万人計画的に虐殺するなど人種差別政策が基本政策であったナチスドイツと、西欧列強の支配から全アジア植民地解放を目指て戦いかつ成功した日本を同一視できる。
@ 嘘の垂れ流しを繰り返してきた旧ソ連や支那の政治宣伝を丸ごと信用できる。

 というわけだ。

 モノの程度を把握する感性とはすなわち常識感である。どの程度の状態を汚いとか高いとか美しいとか大きいとかを直感的に認識する感性すなわち常識感だ。
こういう常識感が欠如すると「諸外国同様にまともな国防を行うことのできる憲法に変えましょう」という主張を「グンコクシュギ」と認識することになる。また、チベットを今現在軍事侵略して支配し台湾を軍事的に恫喝し中性子爆弾完成を自慢し毎年二割以上の増加率で軍備増強にいそしむ支那政府当局を軍国主義と認識しなくなる。

6 サヨクの事象認識能力の欠如を反面教師とするべき

 上記珍論をさえずるサヨクとは例えるならこういう存在だ。
きわめて視力の悪い男がいたとする。その男はやや離れた場所を歩く犬が見えない。しかし普通の視力のある人々はあそこに犬がいるという。その男は自分が普通の人に見えるものが見えない。その有り様に、自分をナニか優れた存在だと本末転倒な勘違いをする。そして大威張りで「あそこに犬はいない」論を主張するようになる。

 「皆はあそこに犬がいるって言うけど、犬って何?もしかしたらそれは猫かも。犬なんていないんだよ。ううむ、俺って何か人の言わないスゲーコト言ってるうう。俺ってアタマイー。」

 つまり単に能力の低さから生じた勘違いを、さもスゲーコトを大発見したかのように大騒ぎしているわけだ。

 ただ、こういった勘違いはサヨクに限らずへ理屈覚えたての詭弁君がハマりがちなドツボである。「遊びは存在しない論」とか、「人間は存在しない論」とか、「1+1=2でない論」みたいなよくあるドツボに。「ロック音楽とは何か」みたいな言葉遊びに足を取られ、滑って転んで「ロック音楽存在しない論」というドツボにハマって得意がるみたいなパターンは多い。
サヨクはモノの程度を把握する感性の欠如から生じた事象言語化能力の欠如により、おうおうにこのドツボにハマる。我々は、ドツボにハマってとっぴんしゃん状態を得意げに自慢するサヨクを笑いつつ、反面教師とすれば良い。

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