サヨクが沸いてくる社会的背景

 サヨクが沸いてくる社会的な要因はなにか。また、いかにすればサヨク発生を阻止できるのか。

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1 社会が人々に生き方を明瞭に示していない現状

 昨今、サヨクとかオウムとか異様な思想や新興宗教に走る人間が多い。普通の人間には首をかしげる事態だ。いったいなぜ、こんなことになってしまったのか。
こういった事態は、我々の社会が人々にいかに生きるべきかを明瞭に示しきれていないために発生する。伝統的な宗教や教育が、何を信じ、どう生きるべきかという確固とした価値観を教えていない。それゆえ、どう生きたらいいのか、何を信じたらいいのか解らない多くの人々が生まれている。これは、宗教や教育の怠慢というほかない。
そのあげく、人々は生きる意味や価値を求めて、異様なサヨク思想団体に加入したり、いかがわしい新興宗教に加入したり、奇怪な自己啓発セミナーに加入したり、ねずみ講に加入したりする事態となる。
そういった異様な団体で働く人々の、何と幸せそうななことだろう。彼らは、目を輝かせて生き生きと活動する。

2 サヨクカルト組織と普通の組織との違い

 こういういいぐさをすると、武道やお茶やお花、お琴の組織などほかの民間組織も同様であるという人もいる。とんでもない話だ。こういった組織はカルト組織とは、まったく異なる。
武道やお茶お花などの組織では、世間にいる人々や祖国、勤勉に働く人、両親などを尊い、感謝し、人の世に役立つ人間となることが究極の教えだ。また、多くの武道者や茶人がそれを実践している。つまり、武道組織などの場合、最終的に敬い感謝する対象が組織の外にあるのだ。
逆にサヨクなどカルト組織は、世間にいる人々を意識の低い馬鹿(オーム真理教でいうステージの低い人間)と蔑み、祖父母を侵略者と罵倒し、祖国を省みない。ひたすら先輩サヨクへの忠誠心と盲従が求められる。サヨク組織構成員は、ひたすら先輩サヨクのお達しに従うことを喜びとする。敬う対象、忠誠の対象が組織の内にあるのだ。
武道組織など世間にある普通の集まりと、サヨクなどカルト組織と異なる点は、ここなのだ。

 普通の組織では、世間にいる普通の人に感謝し、世間で役立つ人間となることが求められる。普通の世間とのより望ましい形での和合が目的なのだ。
逆にカルト組織では、カルト組織に役立つ人間となることが求められる。普通の世間から乖離し、何か特別に優れた存在であるかのような盲信に浸ることが目的なのだ。

3 サヨクは帰属意識の持ち先が異常

 サヨクは、上級サヨクによる反国家プロパを脳みそに注がれ続けた結果、公的意識や祖国など集団への帰属意識を嫌悪する体質がある。そして愛国者を「国への帰属意識を持ちたがる個を確立していない人」的な指摘をしたがる。
しかしその一方、当のサヨクは支那政府が統括する「アジア諸国」なるものへの帰属意識は、絶大に発揮する。支那政府当局の政治宣伝をテープレコーダーのように無批判に受け入れ、積極的に拡声器となって大活躍する。そして支那に関する悪しき情報に関しては、支那政府当局の検閲でも受けたかのように完璧なまでに隠蔽する。彼らは支那によるチベット侵略や虐殺については、念仏を唱えられた馬の耳のように思考停止する。特にNHKや朝日や外務省が。
中でも最も顕著なのが共産党員であろう。彼らの共産党幹部に対する盲従ぶりは、ほとんどオウム並である。
支那政府による支那と書くな言論弾圧の手先となって、言論弾圧に加担するサヨクなどもその典型だろう。自分のことでもないのに支那という表記に怒り出すサヨク。支那と書かれるだけで自分が「差別?」されたかのように怒り出す。支那政府の不快が自分の不快と同一になっている。精神が完全に支那政府当局と同一化している。支那政府の喜びは自分の喜びであり、支那政府の怒りは自分の怒りという段階にまで完全に自己を共産支那政府当局に埋没。狂気的な反日&社会主義体制賛美教育を受け続けた紅衛兵のように。
サヨクのサヨク組織や支那政府への帰属意識は、いかなる会社の社員の帰属意識よりも高い。あたかもロボットのように完璧なまでにサヨク組織に対して個を埋没させる。

 普通人もサヨクも集団への帰属意識がある。しかしサヨクは帰属意識の持ち先が異常なのだ。

@ 普通人の帰属意識の持ち先:祖国、郷土、家族

 国家など帰属する集団から膨大な利益を得ている現状を認識する常識感と知性があれば、当然こうなる。自らもその帰属する集団に対して利益をもたらそうとする

@ サヨクの帰属意識の持ち先:共産支那(外国)政府当局、サヨク団体

 書籍やメディアや教育により、ヒノマルハンタイなど奇怪な反国家イデオロギーを刷り込まれている。なおかつ国家など帰属する集団から膨大な利益を得ている目の前の現状(例えば読者氏の目の前に存在するパソコンもまた集団の構成が前提となってもたらされている)を認識する常識感と知性が欠如しているため、その刷り込みを疑問視することもない。その結果国家への帰属意識は低い。
その一方、共産支那などサヨクの言う「アジア諸国」とか、自分を「ジンケンイシキの高い(オウム真理教で言うステージの高い)エライヒト」と思いこまさせてくれるサヨク組織などに対しては狂的なまでに帰属意識を発揮する。

 サヨクは書籍やメディアや教育がもたらす仮想情報の洗礼と、本人自身の現実認識能力の欠如により思想過剰になり頭がヘンになっているのだ。その結果、自分自身にほとんど利益をもたらしていない(というか核ミサイルの標的とし桁外れのODAを浪費するなど膨大な不利益をもたらしている)共産支那などといった存在に狂的な帰属意識を発揮するようになっているわけだ。

4 人間が集団への帰属意識を持つこと自体は間違っていない

 言うまでも無いことだが本質的には人間が集団への帰属意識を持つこと自体は間違っていない。というか持たない方がおかしい。理論的にも本能的にも。
人間は家族や村を作って活動を行う群生生物だ。
そして群生であることには必然性がある。我々は現在高度な文明文化の中に暮らしている。その文明文化の保持と発展は、群を造り分業化することによって成り立っている。芸能芸術に秀でたもの、工芸や技術に秀でたもの、農作業や漁業に秀でたもの、商取引に秀でたもの、戦闘に秀でたもの、統率に秀でたものなどがいてそれぞれの役目を果たすことで、高度な文明文化が保守発展する。
身近な例で言うなら、例えば読者氏は自らの着る服、住む家、様々な機器を、素材の採取段階から自分で作成できるかを考えてみればいい。とうていできまい。鉱石の採取、精製、設計、組立、流通、あらゆる段階それぞれにおいて極めて高度な作業が行われている。これがあって、読者氏の着る服、住む家、様々な機器がもたらされている。
我々は帰属する集団(要するに主に国家)から膨大な利益を得ている。その帰属する集団、あるいはその集団を組成してきた先人に対して感謝し、また逆にこちらからもいくぶんかでも利益をもたらそうとすることは、国家から得ている利益をかんがみる知性の持ち主であるなら当然の発想である。

 使い古された言い回しだが、人間とは一人では生きられないのだ。生存するという意味のみならず気持ちの上でも。人は他者との関係により自分の存在価値を見出すものなのだ。要するに群生生物なのだ。
他人から望ましい評価を得られない学生は、時に不良学生となって反社会的行為で評価を得ようとする。悪しき評価であっても、いかなる評価もされないよりはマシというものだ。反日宣伝に情熱を燃やすサヨクの心情も、それと似たり寄ったりかも知れない。

5 「個の確立」のいかがわしさ(文化とは規格のこと)

 「異様な思想団体などに加入するような人間とならないためには、各自それぞれが個を確立する必要がある。」という言いぐさをする人は多い。
こういう「個の確立」なる言いぐさは単なる言葉遊びの抽象論にすぎない。
何が正しく、何を生きがいとするべきかを根本的に考察するなど、私も含めた多くの人々にとり、簡単になしうるものではない。それを知りえた人間とは悟りを開いた人間のことだ。そんなことを他人様に要求するなど、とんでもない思い上がりだ。
どう生きるべきかを見失い、エリートサヨクの指針や説教を求めサヨクに走る多くの人々がいるという現実を見据えるべきだ。個を確立しましょう、はいできましたなどとは簡単にはいかないのだ。

 また、それぞれが勝手に価値(何が正しく、何を生きがいとするべきか)をでっちあげてしまったら、人と人との円滑な意志疎通は成り立たない。
人間は群生生物である。群れて生きる性質をもつ。よって、円滑な意志疎通は重要だ。
異なる個体と個体が意志疎通を行うには、明瞭な規格が必要だ。インターネット回線で接続されたコンピュータ同士は、電気的な規格(プロトコル)が同一であって初めて接続が可能であるように。

 人間、日本における意志疎通の規格は例えば

* 声帯から発する音波のパターンによる意志疎通の規格(日本語)
* その音声パターンの用いかたに関する規格(あいさつなど)
* 手足や表情などの動きに関する規格(礼、作法など)
* 図形による意志疎通の規格(日本語の文字)
* 文字表現の用い方に関する規格(手紙などの作法)

 などがある。

 これらの民族共通の規格を文化という。文化の高い状態とは、これらの規格がより緻密で、独創的で、多岐に渡り表現が自在で、そして何より美しく、更に使う人間の心情をかんがみたものである状態をいう。
こういった日本に昔からあったさまざまな規格が、恐ろしいまでに崩壊しつつある。日本に存在する全ての文化が、ひたすら低劣に、下劣に、薄汚く退廃している。こういった規格の崩壊は、文化の崩壊と言っていい。規格が緻密であるほど、例えばインターネット回線で接続されたコンピュータ同士も、より綿密で高度なやりとりが可能だ。その規格が崩壊したために、緻密で高度なやりとりができない状態になっている。

 中でもいかがわしいのが、「個の確立」と称する各自の勝手な規格の捏造だ。それぞれが勝手に規格を捏造されても困る。例えば「文化」という文字を、各自が勝手に「めげへちょり」とか、「ちょめんきれり」とか、「べべっほ」とか読まれたら、意志疎通ができない。それぞれが日本数千年の歴史に対抗しうる規格を創造できると考えるなど、そもそもが思い上がりなのだ。
こういった規格をタイセーと呼称し、破壊すべきだと考えるサヨクは多い。しかし、当のサヨク自身も日本語という民族共通の言語規格に従うし、インターネットの規格(プロトコル)に従ってネットアクセスしている。規格があってはじめて言語は成立し、意志疎通が可能であり、ネット社会も成り立つ。規格があって人は営みをなしうるのであり、規格こそが文化そのものなのだ。

余談:支那との安直な「友好関係」は、旧西側先進諸国からの猜疑を生み、日本を孤立させる [執筆日:H14/06/01][病理:支那奴隷根性] 支那からの日本への内政干渉を受け入れず拒絶するべきだという主張を、サヨクは「アジアから孤立する」などという言葉で懸命に否定する。「歴史の反省に立ってこそ日本はアジアで受け入れられる」という思い上がりまくったセリフを高飛車に吐く侵略虐殺国家、共産支那と一緒になって。サヨクによると、支那の機嫌を損ねると日本は「国際社会」「アジア諸国」なるものから孤立するらしい。

実は全く逆である。支那との蜜月関係は、人権や自由を尊ぶ旧西側先進国やその国民からの猜疑を生み出している。
イギリス人の中には、日本を共産主義国家と誤解している者がいるという。ある意味、無理のない話だ。欧米でさんざん問題視されている支那での人権問題について日本政府が積極的に問題視し提言しているなどということを、日本人である筆者ですら聞いたことがない。泣き叫ぶ北朝鮮人を拉致していく人権意識ゼロ丸だし支那武装警官の帽子を拾ってやる不気味な姿しか見えない。しかも自国領事館に侵入されておきながらである。

はっきり言うが、支那なんかより欧米との関係のほうが比較にならないほど大切だ。軍事力経済力など国力や、国際的影響力において、支那と欧米諸国は比較にもならない。欧米諸国の国力からすれば、支那の国力などカスみたいなものだ。
そもそも大東亜戦争の敗因は軍事国家米国を相手にしたことにある。支那では日本軍は連戦連勝だった。

日本人の姿形は、少なくとも黒人白人から見れば支那人と似ている。そういうところでもって、支那のような社会体制の国と必要以上に付き合うと、社会体制まで同じだと十羽ひとからげに総括されてしまう。
既に支那の人権問題を看過しているだけで、欧米諸国からは日本の人権感覚はほとんどゼロだと思われているのだ。

日本にとってまず重要なのは、対米関係や対欧関係、産油国である対中東、そして印度や台湾との関係である。今更言うまでもないことだが。
既に支那は悪の枢軸北朝鮮の仲間、もしくはその枢軸そのものだと思われている。日本が、悪の枢軸北朝鮮の仲間の仲間などという印象を持たれれば、日本どころか東アジア全土に恐るべき不利益を生む。大統領吊るし上げ裁判の韓国の異常性や、日本外務省による拉致武装警官の帽子拾いの不気味さとあいまって、東アジア全土が非民主的な人権弾圧地域であるとか、共産主義地域だと思われてしまう。
そうなれば、欧米の連中が再び東アジアに「非民主的な社会体制からの解放」に向かいかねない。米軍がタリバンへの空爆と進駐をしているのは、20世紀中頃の話ではない。ごく最近の話なのだ。日本がタリバン扱いされれば、まさにこうなるのだ。
もちろん欧米の政府筋がすぐにそういう認識をすることはないだろう。ただ、恐ろしいのは欧米の一般国民の認識である。一旦誤解されればそれを解くのは至難の業だ。欧州あたりの一般国民にとっては、支那と韓国と日本の違いなどほとんどわからない。そして民主国家であるかぎり、政府筋も国民意識からの乖離は困難なのだ。

日本が支那のような独裁共産主義国家もしくはその仲間と欧米諸国から思われることは、絶対に避ける必要がある。

と同時に、支那との蜜月関係は、台湾やインドのようなアジア諸国の中でも比較的民主的な政治体制の国、あるい支那からの侵略と暴虐に苦しめられてきた国々との乖離を生む。支那のような社会体制の国と関係をもちつづければ、侵略者の仲間だと思われてしまう。日本は「アジア諸国」からすら孤立してしまう。

朱に交わればアカくなる。少なくともアカに金を流している現状では、自分自身はアカくないと主張しても他人はそう見ない。中でも支那へのODAは、支那による侵略と虐殺と人権侵害への加担者と思われかねない愚行である。

支那からの内政干渉を受け入れないと「アジアから孤立する」などというのはまったくの間違いだ。支那からの内政干渉などを嬉々として受け入れるようなマネをしていると、「アジアから孤立」どころか「西側先進諸国」から孤立してしまいかねないのだ。

6 日本における伝統的規格の再評価が必要

 多くの民族にとり、いかに生きるべきかを示す規格は宗教である。宗教の教えに従い、食べ、眠り、考え、物を見て暮らす。全員がこの規格に従うことにより、共同体は円滑に運営される。
ところがわが国では、明治維新と、大東亜戦争の敗戦による外国占領により多くの規格を失うこととなった。むろん明治維新も、大東亜戦争もそれぞれ必要性にかられてのものだ。ただ、こういった伝統的規格消失の結果、生き方の規格を見失った多くの人々が、サヨクとかオウムとか異様な規格に身を投じる事態となったのは事実だ。
更に、今現在も子供たちに伝統的な規格を教えるべき学校は、現在まともに機能していない。「我々の祖父祖母は戦争をやった悪者です。その子孫である我々は、ひたすら近隣諸国に謝って過ごしましょう。」とか、とんでもない規格がすり込まれている。

 明治維新と、大東亜戦争の敗戦により失った多くの規格、日本数千年の中で培った高度な規格を取り戻す必要がある。その規格とは、例えば、郷土における神事司祭の規格(神の規格)であり、茶道や華道(礼儀作法や美意識の規格)であり、武士道や武道(哲学や体術の民族規格)である。
こういった伝統的で高度な規格を子供たちに教育することにより、異様な思想や新興宗教に染まらない盤石な人間にする必要があるのだ。

余談:外国人柔術家に敗北した日本人プロレスラー

 グレイシー柔術という技を使う世界最強と言われる男、ヒクソン=グレイシー。その男にプロレスラー高田選手が挑戦し二度も敗れた。しかも腕ひじぎ十字固めという、最も基本的なプロレスの間接技により負けた。完敗と言うべきだろう。
この完敗は、明治維新と大東亜戦争の敗北による外国文明の模倣に終始した戦後日本人の完敗に他ならないように思える。

1: 日本人は柔術をスポーツ化し、やがて見捨てた。

明治時代、日本に嘉納治五郎という柔術の名人がいた。柔術は本来、合戦の殺人技である。嘉納治五郎は柔術を危険性の少ない近代スポーツに改良した。柔道である。
近代スポーツ柔道は世界中に広まり、ワールドスポーツとなった。今では南米、中東、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、北アメリカ等、世界中で盛んである。少なくとも野球などよりは、遥かに世界的にメジャーなスポーツだ。有名なことだが例えばロシアのプーチン大統領は柔道の使い手である。柔道は明治時代以降に生まれた日本文化のうち、世界が認めた数少ない文化のひとつである。
一方、プロレスはアメリカを中心にショービジネスとして発達したものだ。戦後間もないころ元関脇の朝鮮人レスラー力道山が日本にもたらし、日本でもメジャーなプロスポーツとなった。
大相撲と共に興行的になりたつ数少ない格闘技であるプロレスに、戦後多くの格闘家が集まった。野球などに多くのスポーツ選手が集まるのと同様、格闘技界においても日本人は外国の猿まねに走った。しかもプロレスというアメリカの最もショー的な側面の強い格闘技に。

2: グレイシー一族は柔術を受け継ぎ、更に強固に磨きあげた。

ヒクソン=グレイシーの祖父は、日本の柔術を改良してグレイシー柔術を完成した。グレイシー一族は柔術をより強固に洗練させた。そしてヒクソン=グレイシーという世界最強の男を生み出した。現在、グレイシー柔術の使い手に勝る格闘家は柔道家も含めて世界には存在しない。

柔道はスポーツ化することで世界でメジャーとなることに成功した。その一方、格闘技としての完成度ではグレイシー柔術に遅れをとった。

3: そして日本人プロレスラーが外国人柔術家に惨敗

そして今、そのプロレスの日本における実力者である高田選手が、日本の格闘技柔術の使い手であるブラジル人ヒクソンに惨敗する結果となった。ちなみに身長体重では高田選手の方が遥かに上である。
江戸時代以前の先人が生み出した柔術という格闘技は、世界最強の格闘技だったのだ。現代の日本人は、この事実を謙虚に受け止めるべきだ。柔術をスポーツ化し、あるいは見捨て、更にはプロレスというアメリカ人の模倣に精を出した結果を。

明治維新と大東亜戦争の敗北により我々が捨て去ってきた偉大な文化は、あまりに多い。江戸時代は文化においてあまりに高度に完成した時代だった。格闘技のみならず、芸術、芸能、哲学、服飾、礼節などあらゆる文化が。

ヒクソンはインタビューで「グレイシー家の誇りを守る。」と言っている。むろん、高田選手からは「高田家の誇りを守る。」などというセリフは出ない。
子孫への相伝は、本来日本の伝統であったはずだ。日本人はそれを偏狭な陋習とみなし、捨て去った。一方、グレイシー一族は子孫への相伝を貫き、ついに最強の格闘技に昇華させた。文化の保守と洗練という観点にたった時、子孫への相伝が最も合理的である。

先人の文化を捨て去ってきた現代の日本人(プロレスラー高田選手)が、日本人の偉大な先人の文化を正しく継承してきた外国人(柔術家ヒクソン=グレイシー)に敗北。これはすなわち、ひたすら外国の模倣をして進歩したと思い上がった我々現代人が、偉大なる先人に対して敗北したとも言いうるのではないか。

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